壱章

貴女は僕を誘拐しています

 高速で走る車から転げ落ちたら、僕は大怪我するだろうか、それとも死んでしまうだろうか?後者になる場合、これから有り得る末路とどちらがマシか?考えるだけ無駄だろう。僕には抵抗する選択肢さえ奪われているに違いないから。試してみようじゃないか。

 ドアはロックされていない。ハンドルを引くが、不思議なことに開かない。窓を開くことは成功したが、半分だけ下がって止まる。グローブボックスから非常用の金槌を取り出し、窓に叩き付ける。割れるどころかひびの一つも入らない。シートベルトくらいは外させてくれ。残念、ボタンがびくともしない。

 できるとすれば後一つだけだ。隣で運転する彼女の頭に、この金槌を振り下ろすこと。木端微塵になる凶器が目に浮かぶから、やらないが。


「一応、認識頂いてよろしいでしょうか」


 声をかけると、ユズハさんが一瞥をくれる。高速道路の明かりに照らされた彼女の微笑みは、こんな状況にも関わらず邪気を帯びていなかった。僕なんかの恋人には勿体ない、強かで美しく気高い人。不可抗力の魅力にうっとりしてしまうが、いけない。現状をはっきりさせて、彼女に突き付けなければ。


「喋りはお好きに。貴方の口は自由です」


 話す権利を貰えて嬉しい。でなければ、僕は声帯を機能させられもしなかったかもな。ユズハさんは僕にあらゆることができるらしい。完膚なきまでに生殺与奪を握られている。


「貴女は僕を誘拐しています」


「そうですね。失礼とは承知致す上です」


「失礼なんて...犯罪ですよ?ユズハさんは悪い人だったんですか?」


「誰が、何物が、然様さように定義しているのでしょう」


「法律と言う言葉が貴女の辞書に乗っていれば、話は早いのですが」


 少し皮肉な言い回しで返してみると、何か滑稽な痴れ言でも聞いたように、ユズハさんはくすりと零した。彼女は笑う時、一息の小さな声で済ませる。本当に面白い事があれば、どうやって笑い、あるいは嗤うのだろう。いつか僕という人格が、彼女の娯楽になればいいな。


「只人には沢山の決まり事があるのだとか。ええと、“過度な復讐はいけない”?」


「ハンムラビ法典なんて、何時の時代の話ですか。過度も少しも駄目ですよ」


「千年前も万年先も、矮小な秩序が私を縛り、烙印を押すことはあたいません。ただ――」


 ユズハさんの手が僕の首に伸びて、浮き出る静脈を指で撫でる。血の気が引くような快感が背を這い上がった。夥しい蟲の群れが、内臓を食い荒らしながら愛撫しているみたいに。胃の中身とは違う何かを喉に感じて、嬌声諸共呑み込んだ。


「マコトさん御自身の心から、悪者と呼ばれるのは辛いな」


 地底の宝石を思わせる真青な瞳が、微かな憂いで澱んでいる。冗談の度を越してしまったようだ。僅かでも彼女の心持を害してしまったならば、その罪の程、只人一人の命で償い切れるか否か。殺気の一分が迸っただけで、僕は痛みを感じる間もなく即死するだろう。怖くもあるが、酷いことを言ったのは事実。恋人として、正しい言葉を掛けなければ。


「深刻な話なんてしていませんよ。ユズハさんがどんな人でも、僕は好きです」


「勿論違いなし。けれど嬉しく存じ上げます」


 一転して機嫌を良くするユズハさん。そろそろ頃合いだろうか。僕が攫われて行く目的地を確認しよう。彼女が嘘を言っていないのであれば、多少は安心する根拠になる。妖異に関わる状況に於いて、余裕は決して離さないべきだと、かつての神隠しで学んだ。今回はユズハさんが、縋り付く希望であって欲しい。


「ご実家に向かっているんですよね?挨拶するだけですよね?」


「後者については、ごめんなさい」


「...嘘でしたか。でも、ユズハさんは僕の味方です、よね?」


「ええ。安全を約束致します。実証を御覧下さい」


 ユズハさんの手が、今度は肩に置かれた。山の下に埋められたかのような圧力で、身動きができなくなる。そのまま彼女はゆっくりと、僕の身体を押した。

 千切れ飛ぶシートベルト、吹き飛んだドアを認識することもできず、次の瞬間には道端の壁に叩き付けられていた。人体が原形を留めず液状化しているだろう運動をした。しかし僕は無傷で、痛みも何もない。

 困惑していると、突然に僕は車内に戻った。壊れた車は元通りになっているし、隣では変わらずユズハさんが運転している。今のは何だったんだ?幻覚を見せられたとか?


「加護を刻みました。それがある限り貴方は、例え核兵器による爆撃でも傷付かない」


「子供の冗談じみた話です。では、貴女が僕を攻撃したのは?」


「私は複数の時点を“現在”として並行しています。貴方を攻撃した後で、事象に取り消しを掛けた。兎も角、私の守護を信頼して頂けたかと思います」


「成程。ご丁寧な説明を有難うございました」


 全く説明になっていない、なんて言ったら、次にどんな“実証”をされるか分からないので、突っ込みはなしだ。ユズハさんは不可思議なくらいに強く、危険かもしれない彼女の家族から僕を庇護してくれると仮定するなら、安心するに十分足る。

 聞きたいことが他にもあるけれど、質問攻めにはしたくない。彼女は寡黙なのに、既に口数を積ませてしまっている。休憩するように少し間を置いてから、もう一つ尋ねさせてもらう。


「ここは何処です?もう滋賀には入っているでしょうか」


 京都の宇治から高速に乗ったのだが、何時の間にか知らない道を走っていた。景色を黒一色に塗り潰す真暗闇で、電波が通じないどころか、端末自体がバグっている。画面はノイズで滅茶苦茶に乱れ、時々、不気味な生き物や風景の粗い写真らしきものが映り込む。本当に怖かった。僕一人だったら発狂に迫っていただろう。やがて無数の蝋燭が煌々と道を照らすようになって、恐怖は少し和らいだが、他に走っている車が見当たらず心細い。

 車はないが、妖魔ならちらほらと見かけた。それらは皆朧な影の姿をしているが、輪郭は様々な異形。鈍々のろのろとぼんやりした動きで彷徨い、出口を目指すでもなく、只ここに居るだけという風に見えた。


「大津市に接する常夜とこよ、名を“さかいくらがり高架こうか”。一帯は事実上、我が家の領地となります」


「高速道路は住む場所じゃないでしょうに」


 連ねられる荒唐無稽に、理解を諦めて座席に深くもたれ掛かる。やがて、見遣る前方に分岐路が現れた。その一方は直ぐに途絶えていて、先は何処へも通じず、地の果てへと突き出しているかのよう。そこには何足かの靴が置かれていて、整って並んでいる物と、乱雑に脱ぎ散らかされた物がある。暗示する事柄は謎だが、得体の知れない忌避感を催させる。気分が悪い。誰かの汚い手が僕を触っている。強く掴んで、引き摺って、連れて行こうとしている...?

 ふと足元に目を遣ると、蒼白の手が一つ、僕の足首を掴んでいた。


「御冷静に、マコトさん」


 咄嗟に叫びそうになったのを制して、ユズハさんが僕の手を取った。優しい声が恐怖を呆気なく鎮め、陳腐な怪奇如きが彼女の守護を破ることはできないのだと教えてくれる。しかし続いた現象は、完璧に思えた安心感すら揺るがすものだった。


『縺頑怦讒倥?髫?繧後s縺シ 鮓エ縺溘■謗「縺吶h諱・縺壹°縺励′繧雁ア 縺ゅl繧檎嚀鮟偵?縺九j 逋ス縺?エ吝?繧瑚エ?イ「縺九>』


 謡を詠唱する様に、甲高い声が反響して車を震わせる。ブレーキは掛かっていないのに速度が急激に下がり、分岐路の手前で停止してしまった。見えない何者かがフロントガラスに血糊をぶち撒け一緒にへばり着いた艶めく髪がもぞもぞと蠢く様に嫌悪を覚えるも束の間に強打する音と共に痩せた手形が窓を覆い尽くしていく。ユズハさんによって強化され、壊せない筈のガラスが砕けるまで、死を覚悟するだけの時間は与えられなかった。


「微弱とは言え、私の防護を。ほう」


 少し恥じ入るような様子で、ユズハさんは微笑みを浮かべ続ける。ボンネットが切り裂かれ剝ぎ取られ、車体全体がひしゃげ始めてもそれは変わらない。僕に掛けられた加護とやらは、車への防護よりも硬いのだろうか?核兵器でも云々うんぬんなんて、簡単に信じられないし。僕は車と一緒に潰されるのではなかろうか。


「余裕があるなら、ねえ、何とかして下さいよ...」


「必要なし。どうやら彼女は、家の者です」


 痩せこけ血の気を失った手が車内に湧いて現れ、僕へと群がり全身に掴み掛かって来た。首に、頭に、手足、胸元、腹、顎にまで。明らかに殺意を持っている。ユズハさんに護られていなければ骨格を粉々にされているに違いない力を感じる。手は暫く僕をくびった後、諦めたのだろうか、僕を離して姿を消した。助かったのかと安堵したのも一瞬、止まっていた車が引き摺られるようにして動き始めた。向かう先は、途絶えた分岐路の先、奈落の血溜まりの如し赤に歪んだ空間。靴が脱がされていることに気が付く。そうか、被害者はこうして、遺品を残し消えて行くんだ。


「ユズハさん、逃げなきゃ!」


 鉄屑になった車を捨てて逃げようと、至極当然の事を訴え掛けるが、彼女は頷くどころか、僕の手を掴み留めてしまう。さっき僕を握り潰そうとした手よりも遥かに強い力だ。


「委ねて。私と一緒にいらして下さりませ」


 最早、二人で運命を共にするしかない。僕はいよいよ覚悟を決めて、ユズハさんの手を握り返した。

 車が断崖を越えて空中に放り出される。落ちて行くようでいて、沈んで行くようにも感じる。重々しい鐘の音が響くと共に、奥底で巨大な門が開かれる。その彼方あちらから一つ眼が覗いて、瞳を、ユズハさんへと向けた。


『御帰。何其、埃落家、結寿葉?』


 眼は声を響かせると、僅かに開いた瞳孔に僕を映した。爆発的な衝撃の閃き。肉が炭に、炭が灰に、灰が蒸気に変ずると錯覚する。僕を護っていた硬い鎧が無造作に打ち砕かれた絶望、それを覆してくれるかもしれない唯一であるユズハさんを探すが、五感は愚か、自分の生死さえよく分からない。やがて目を覚ますことを願いながら、夢もない深い眠りへと落ちていった。

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