第33話 憧れはとまらない

 マナを眠りから覚ましたのは、地平線へと傾き始めた夏の日差しと風に揺れるカーテンの気配だった。


「……レイ?」


 ベッドから身を起こし、目をこすりながら名前を呼ぶ。

 しかし、彼の姿はない。

 それでも窓から差し込む陽だまりのような光が、そのまま心にも染み渡っていくようだった。


 ──なんだか、いい夢を見ていた気がする。


 マナは小さく息をつき、布団を押しのけてベッドを降りた。

 眠気はまだ少し残っていたが、心地よい日差しに足取りは自然と軽くなる。


 部屋を出て階段を降りていると、包丁の軽やかな音が耳に届き、じんわりと旨みを含んでいる空気が鼻をくすぐった。

 リビングの奥にあるキッキンで、鍋をかき混ぜている伯母おばの姿が視界に入る。


「あら、起きたのね」


 マナの気配に気づいたクロエは手を止め、ふわりとした笑顔を彼女に向けた。

 

「うん。ごめんね、気がついたらまた寝ちゃってたみたい」


 うつむき加減になりながら、少し気まずそうに頬をかく。

 

「気にしなくて大丈夫よ。素敵な夢を見ていたんじゃない?」

「覚えてないけど……たぶん、見てたと思う」


 クロエの優しい問いかけに、マナは小さく笑って答えた。


 ──どんな夢だったのかな。

 

 夢の内容が思い出せないことに、少しだけ寂しさを感じている自分に気づいた。

 だからと言って、思い出せるわけでもない。

 その気持ちをしまい込み、視線を周囲に向けた。


 キッチンのカウンターに並べられた野菜や肉に目が止まる。

 皮をむいたじゃがいもや人参、色鮮やかな夏野菜に、大きな肉の塊。

 鍋で煮込まれている料理を含め、自分と伯母の二人分にしてはどう見ても多すぎる。

 マナは目を見開き、手際よく手を動かしているクロエに近づいた。

 

「すごい量だね」

「実はね、マナが寝ている間に、リラさんたちと家で一緒に夕飯を食べることになったの。だから、少し多めに作っているのよ」


 伯母はにこやかに言いながら、まな板の上で均等に野菜を切り分けていた。

 

「そうなんだ。アルトとタクトもいるなら、賑やかな夕飯になりそうだね」


 アルトたちと夕飯を共にするのは何年ぶりだろうか。

 懐かしさと楽しみで、顔に笑みが浮かぶ。

 そして、ふとレイのことを考えた。

 

 もし彼がここにいれば、きっと顔をしかめながら「いらない」「面倒だ」などと言って、すぐに姿を消してしまうのだろう。

 その姿が簡単に想像できて、少しだけおかしくなった。


 穏やかな雰囲気だったが、クロエの次の言葉にマナの心は大きな動揺をみせる。


「マナ、旅に出るんですって?」


 伯母の手は止まることなく野菜を刻み続けている。

 視線も包丁の先に向けられていて、何気ない会話の延長のようだった。


 マナはぎくりと肩をこわばらせ、一瞬、目を伏せた。

 アルトたちには何気なく話したものの、伯母にはまだ伝えていない。

 きちんと時間を設けて話したかったからだ。

 だからこそ、まだ口に出せずにいた。

 

「……リラおばさんから聞いたの?」


 探るように尋ねると、伯母はゆっくりとうなずいた。

 マナは口を開きかけたが、何も言えずに唇を噛む。

 

 そして「ごめんなさい」と言葉にするよりも早く、伯母の手がふっと止まる。

 包丁を置いてこちらに顔を向けた伯母は、いつものように優しく微笑んでいた。


「別に怒ってもいないし、反対をするつもりもないの」


 そう告げる声は、驚くほど落ち着いたものだった。

 マナはクロエの顔に視線を配る。

 叱られる覚悟すらしていたのに、そこにあるのは何かを悟ったような静けさだった。

 

「マナが帰ってきた時、そんな予感がしたのよ」


 伯母は遠い日を思い出すかのように、ふっと目を細めた。


「この子もドロシアと同じ目をしている、きっと聖女としてどう生きるべきかを決めたんだろうなって思ったわ」

「伯母さん……」


 伯母は今、自分と母を重ねて見てくれている。

 嬉しさと誇らしさと、伯母から伝わる切なさに、目頭がじんと熱くなる。

 

「もちろん、本当はすごく心配しているわよ? でも、レイさんがそばにいるなら大丈夫だろうって。彼なら、マナを守ってくれるもの」


 笑顔の奥に、確かな信頼を感じた。

 伯母の目に映る自分は、まだ未熟かもしれない。

 でも、レイの存在がその不安を和らげてくれる。


 うなずいたマナは、はっきりと言葉にした。


「ありがとう。私、絶対に立派な聖女になるからね」

 

 母のように、一人でも多くの人を導ける存在になる。

 何度も心に刻んだ誓い。

 レイと一緒なら、叶えられる気がした。


 伯母はふふっと笑い、少しだけ寂しそうに言葉を紡ぐ。

 

「今日は送別会にもなりそうね。明日には、もう旅立つつもりなんでしょう?」


 マナは一度だけ首を縦に振った。

 

「うん。あんまり長居しちゃうと別れがたくなっちゃうし」


 旅立つことはもう決めている。

 でも、この場所で過ごした時間は、確かに自分の一部になっている。

 思い出が消えることはないし、故郷を忘れるはずもない。

 

 クロエはマナの瞳を見つめると、口元に手を当て微笑んだ。


「やっぱり、ドロシアそっくり。あの子もそうだった。家を出ると決めた次の日には、もう旅立っていったもの」


 母の名を口にする伯母の声には、懐かしさも帯びていた。


 ──お母さんも、こんな気持ちだったのかな。

 

 不安も、怖さもある。

 だけどそれ以上に心を満たすのは、旅立ちへの期待と憧れ。

 マナはすぅと息を吸い込んだ。

 

「……じゃあ、料理手伝うね!」


 気持ちを切り替えるように、明るく言葉を投げかける。

 しばらく会えない寂しさよりも、今この時間を大切にしたくて、伯母の隣へと歩み寄った。

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