415号室

  

   415号室



 「…踊りが終わったよ」


 開け放していたドアの前に、いつの間にかペルネーが立っていた。彼女は珍しく、ピクリとも動かずに突っ立っていた。いつもは体のどこかでリズムをとっているのに。ペルネーは笑うととても素敵だったが、その彼女は今、霞んだ瞳でただ遠くをぼうっと見つめていた。


 何かがおかしいと思った。ここに来てからというもの、時々不穏な空気を感じることなんて慣れていたけれど、今回ばかりは違うような気がした。それは、誰かがなんの前触れもなく、プツンといなくなってしまうということだった。



 隣の隣の部屋に、“彼”は住んでいた。私たちの病棟には全部で100の部屋があった。それを長い長い、白い廊下がつないでいた。私は“彼”の名前を知らなかった。いつもイプシロンという名のロボットと一緒にいて、あまり他の人と話しているところを見なかった。


 ” 彼” がその部屋で、彼の命を繋いでいた呼吸器の管を絶ったとき、そのロボットは静かに窓の向こうを見つめていた。私がすぐに駆けつけていなければ、きっとあのロボットと“彼”は、そのまま誰にも気づかれずに、そうしていただろう。


 私が502号室のドアを開くと、そのロボットはゆっくりと顔だけをこちらに向けた。イプシロンはそのようなぎこちない動作しか出来なかったが、それが” 彼 “がそのロボットを気に入っていた一つの理由だった。


 私は動かなくなってしまった”彼”に近づいた。まだ幼さなさを感じさせるその顔はぐったりと傾いて、真っ白な塗装の施された美しいロボットの腕から、今にも零れ落ちてしまいそうだった。力なく伸びた頸には窓からの光が落ち、彼の骨張った手や鎖骨や、白い患者衣の皺に影を落としていた。まるで彼はロボットになってしまったようだった。ただ、彼は彼のロボットのようにぎこちなく動くこともできなければ、誰かに修理してもらうこともできなかった。


 その硬直した身体の上で、開け放たれた窓のカーテンがひらりひらりと音もなく揺れ、私はいつか609号室の収集屋が貸してくれた本にあった「嘆きのピエタ」を思い出した。旧世界の芸術家は、動くものや動かぬものに計り知れない哀愁と美を見出していたのだろう。


「彼は、何か貴方に言っていた?」


 静かに聞くと、ロボットは無表情で答えた。


「はい、録音をしました」


「そう。聞いてもいい?」


「いえ、それはできません」


「どうして?」


「秘密のフォルダに保存して、開けることのないように、と言われましたから」


「そう」

 

 ロボットはその日から、私のものになった。死んだ”彼”はとりわけ遺言を残していたわけでもなかったし、「学長」も、この至ってシンプルで性能の低いロボットを保管しても意味がないと思ったのだろう。誰も貰い手がいないのなら処分、という話になったので、私が引き取った。


「私の肌は、冷たいでしょうか?」


 かつて彼のしていたように、最初にそのロボットの肌に触れてみた時、イプシロンはそう言った。


 あの男の子との会話のアルゴリズムがまだ残っているのだと、私は思った。そして、そのアルゴリズムを変えてしまったら、あの男の子が永遠にこの世から消え去ってしまう気がした。


 もちろん彼の命は、この惑星にとっては蜘蛛の巣の糸のように小さく弱く、きっと瞬く間に散っていく花のようなものだと知っていたけれど、私はこのロボットの言うことを変えようとはしなかった。


「貴方がそういうと、“彼”はなんと言っていた?」


「冷たいけれど、とても美しいね、と言ってくれました」


 私は、彼の言葉をそのまま繰り返した。自分の言葉ではない言葉を言うのは、少し恥ずかしい気がした。そんな気がしながら、もしかしたら、このロボットと会話を続ければ、私は彼のことをもう少し知れるのかもしれないと思った。


 「最重要の講義」にも退屈していた私は、この小さな謎解きに興味を持った。誰かがこのロボットの頭をぱかりと開けて、記録を洗いざらい出して最新の人間心理学によって照合分析してしまえばわかってしまいそうなことだったが、そのような計算やデータで理解できるようなことは、彼の死を説明することにはならなかった。


 それに、彼の最期の言葉が「秘密のフォルダ」に保存されているということは誰にも知られたくなかった。もしそれを開けるとするなら、私がこの手であけて、私だけの秘密にしておきたかったのだ。


 しかし、結局それは叶わなかった。私が極めて古典文学的な手法で–––––それは、ロボットと会話するという至ってシンプルなものだったが–––––ロボットと“彼”についての謎解きを結論づける前に、彼は「故障」してしまったのだ。


 ある日、イプシロンは私の問いに答えなくなった。あるいは、同じ答えしか返さなくなったのだ。まるで単純なプログラミングしか搭載されていない、かなり原始的な機械に逆戻りしてしまったように。


「私の肌は、冷たいでしょうか?」


「冷たいけれど、とても美しいわ」


「私の肌は、冷たいでしょうか?」


「……冷たいけれど、とても美しいね」


「私の肌は、冷たいでしょうか?」


「貴方はどう思う?」


「私の肌は、冷たいでしょうか?」


「“彼”がどうして自殺したのか……貴方は寂しい?」


「私の肌は、冷たいでしょうか?」


 ロボットとの会話がそのようになってくると、私はいよいよ諦めることを考えた。


 彼の動作はぎこちなくゆっくりではあるけれど、正常だった。私についてきて、とコマンドをすると彼はついてくるし、障害物を避けることもできたし、「手を叩いて」というと、金属が擦れる音とともに歪に手を叩いた。


 しかし、彼はもう会話することができなかったし、私がコマンド以外の質問をすると、彼はそれに応えなかった。


 古典文学にはよく、愛する者を失って「壊れて」しまう者が描かれていた。正気をなくしたり、愛する者のあとを追ったり。人間心理学から言えば、それは納得できるものだった。繋がりの深い人間を失えば、まるで自分の一部を失ったかのように思える。そしてその喪失感は一人の人間が生きていくには耐え難いほど大きくなって、やがてその人を飲み込んでしまうものだ。


 古典文学にはそういった人間らしい悲劇が描かれていた。それは、「最重要の講義」では決して語られない、今となってはまるで役に立たず、誰も共感のできない物語だった。でもイプシロンが、そのような忘れ去られた古い物語を私に思い出させてくれたという事実だけで、このロボットの特別さを少し理解したような気がした。


 例えイプシロンが”彼”の死をきっかけに壊れてしまったのではないのだとしても、私にそれを想像させるだけの情緒を、彼は持ち合わせていた。


 イプシロンはある日、会話することを諦めていた私のコマンドを無視した。

 私は前日の夜に、そこに座って、と彼を椅子に座らせて眠りについた。だから彼は私が次の指示を出すまで、その椅子にじっと座っているはずだったのだ。それがそのロボットのプログラミングだからだ。


 多くの人間はロボットのそういう即物的なところを大層気に入っていた。意のままに何かを操れるというのは、人間のエゴを満たすのに十分な快楽を与えた。しかし、思わぬ故障や事故は人間にとって永遠に理解のできない障害だった。


 なぜ、全ては不完全で、私たちは不確定性に脅かされねばならないのだろう?


 そのような哲学的な問いは「最重要の講義」では省略され、どうやってその不確定性の脅威を排除するかということだけが、いつも殺伐と議論されていた。


 しかし、イプシロンの故障が私を不快にしたり幻滅させたりすることはなかった。私はむしろ、彼の故障の文学的価値を気に入っていた。


 私がその日目覚めると、イプシロンは隣の椅子には座っていなかった。誰かが私の病室の扉を開けて彼に別の命令をしたようには思えない————誰も私の病室や、このロボットに用がないだろう。


 それなのに、私の病室の扉は人一人が通れるほどうっすらと開いていて、早朝の静けさがその扉に吸い込まれて、風のような音を立てているようだった。


 私はゆっくりと寝台から起き上がり、ロボットの歩いたあとを辿るように、長く白い廊下に出て左右を見渡した。


 廊下は細く、遠く続いていた。そのあらゆる感覚を鈍らせるような無機質で冷たい線の先に、ロボットが音もなく佇んでいた。イプシロンは私の病室からずっと離れた向こうで、ある一つの病室の扉に向き合って固まっていたのだ。


 廊下の両側にはところどころ小さな窓があって、不自然なオレンジの光が、ゆらゆらと床を照らしている。私はその光を避けるように、イプシロンが向かい合って立ち止まっているその扉の前まで、ひっそりと近づいた。


 「415」とその扉には書かれていた。


 415号室の患者について、私はよく知らなかった。でもこの病棟にいるということは、何か「病」を抱えている。そして、治療を試行する価値のある、限りなく惜しい人材であるか、あるいは、社会的地位のおかげで、治療を施さないということが「世間体」というものを揺るがしてしまうような人。


 私がその扉を開く勇気を沸かせた一つの理由は、ロボットが完全に停止していることに気づいたからだった。イプシロンの瞳は、その光を失って真っ暗になっていた。動力が完全に停止し、身体はもう関節金属の動く隙間がないように縮んでいた。それは、あの死んだ男の子の硬直した身体を思い起こさせた。ロボットはまるで銅像になったように、扉の前で重く固くなっていたのだ。


 「愛する者のあとを追った」のだろうか。あの男の子が生前に、そのようにプログラミングをしたのだろうか。数日後に、この扉の前で、全ての機能を停止させると。ではなぜそんなことを?


 私は答えを求めるように、その扉に手をかけた。が、病棟の警音が鳴ったり、管理人が飛んで来ることを心配して、私は一瞬戸惑った。


「どうぞ」


 ふと、扉の向こうから皺がれた声が聞こえ、私は驚いて身を固まらせた。


「イプシロンが、そこにいるのだろう」


 その声はくぐもって、微かに聞こえるほど小さかったが、私の耳にはっきりと届いた。


「警報は鳴らんはずだよ」


 皺がれた声はなおも私の心の中を透視するかのようにつづけたので、私は思い切ってその白い扉を開けてみた。


「誰もこの老人に用はないからね」


 今まで何度か他の患者の病室を垣間見たことはあった。でもどの病室より、その老人の部屋は散らかっていた。蒐集家の部屋も、悉く彼の集めた「小さく大きく美しいもの」や「価値のある価値のないもの」で埋め尽くされていたが、彼の部屋はその収集品への愛と気遣いのおかげで全て整理整頓されて、種類ごとに棚に分けられていた。


 しかしこの老人の部屋はまるで、様々な用無しの部品や機材、使われた後に捨てられた「何か」に溢れていた。老人はそのガラクタやゴミ、跳ね上がった無機質な人形の足や、ロボットの欠片の中で、敗れた老王のようにうずくまっていた。


 老人の寿命は長くないのだろう。「世間体」のためにとってつけられたような、呼吸器や、皺のよった肌に刺さっている管や、体を支えるさまざまな医療器具が彼にまとわりつき、あちこち機械的な音を立てていた。


「こんにちは」


 私は老人に向かって声をかけた。


「おはよう」


 老人は挨拶を返したが、その瞳は曇っていて、私というより、私の後ろに立ったイプシロン、いや、それよりも遠くを見つめているようだった。


「あなたは、イプシロンを知っているのですか」


「ああ……イプシロンが生まれたその時からね」


 老人は少しだけ懐かしがるように言った。遠くを見つめていると思っていたその瞳は、同時に何も見ていなようで、その瞳は虚空を彷徨っていた。老人は盲目であるらしかった。そのとき、私の中の不思議な感覚が————「直感」と昔の世界ではいうそうだ————私を動かした。


「あなたが、イプシロンを創ったのですね?」


 老人は私の問いに、微かに瞼を閉じて頷いた。彼は微笑んでいるようにも見えた。


「ああ、あの子が……その人形を気に入って」


 老人は言葉を発するのも困難なようだった。それは、彼にまとわりつく様々な医療機器のせいなのか、それとも彼自身の生命の衰えなのかと考えたが、きっと両方であって、それらは相互関係にあるのかもしれない。


「最期の一時に、傍らに置いたというなら」


 老人はそこで咳をして息を詰まらせそうになりながらも、なおも言葉を続けた。


「その人形を失敗作などと言ってしまったら……私の自尊心が、あの子を汚してしまうだろうね」


 あの子というのは、502号室の彼のことだろう。


「あなたは失敗作をたくさん創ったのですか?」


 老人はそれにはすぐ答えなかった。彼の動きは限られていたので、私は彼の表情を伺うより、部屋の空気を感じるようにした。どんなに不自由な人も、空気を動かすことはできるのだから。


「それで、成功作はできたのですか?」


 なお問いかける。


「私が成功作を創らずにいれば、私は安らかに死ぬことができたろう」


 老人がふうっと息を吐くと、管を流れる薬が揺れ、機械が微かな音を立てた。


「このように、縛られることなく、自由に、安らかに」


 一体どうしてこの老人がこのような姿で、ここに留められていなければいけないのだろう?


 それは同情というより、私の単純な疑問であった。


「あなたは、「最重要の講義」で語られるような、とても偉大な事を成し遂げたのですね?」


「偉大、か……」


 老人はまた遠い目をした。何かを見つめているようで、何も見つめていないようだった。


「君は、そのようなことを聞きにここまでやって来たのかね?」


 老人はふとこちらに顔を戻して、私に訊いた。


「いいえ」


 と私は答えた。


「イプシロンが、私をここまで連れて来たのです」


 私は閉じられた扉の向こうで、彫刻のように固まっている彼を感じながら言った。


老人も私と同じように、その見えない、美しい機械人形をまるで優しく抱き寄せるように、再び瞼を閉じた。


 長い間の後、老人はふと大きな息を吸って吐き、背筋を伸ばすようにした –––– と言っても、その背筋がまっすぐに伸びることはなく、相変わらず機械のチューブが少し突っ張られる程度だった。


「君は、物語というのに、興味があるかね?」


 老人は私を見つめて優しく言った。


「はい」


 私は真っ直ぐに彼を見つめ直し、答えた。


 私にとって、「最重要の講義」と対にあるものは、「物語」だった。それにこそ、全ての価値と知識と詩情が込められている。この病棟に来てからというもの、それは私にとって唯一の薬だった。老人はしばらく私を見つめていたが、ふっと微かに笑った。


「昔、イプシロンのずっと前に、ルピシアという少女がいてね」


 老人はポツポツと、咳をこぼしながら、掠れる声で話し始めた。


 不自然な朝日が段々と青やオレンジに光りながら昇っていくのが、窓のカーテン越しに見える。私は老人のガラクタと医療器具でできた哀しい玉座の麓に座って、話に耳を傾けた。


 それは、きっと老人がこの病棟に来てから口にした、一番長い話だっただろう。


 老人がどんなにゆっくりと、途切れ途切れに話そうと、私は一言も漏らさず大事に聴いた。老人が苦しそうにすると、彼の助けをしてやった。


 老人は、丸一日をかけて、彼の「物語」を語った。



 私には慕った兄がいてね。


 兄は何をやらせても、それは完璧にこなす人だった。周囲のみんなが自慢できる、全く非の打ち所がない青年だった。


 一方、私は兄の真似をしようとも、どうしても彼のようにはできなかった。それで、私は旅に出た。


 旅は素晴らしかった。もしそれが本当に、この目で見て触れ、その土地の匂いを嗅ぎ、その土地の人とお喋りができるようなものであったら、もっと素晴らしかっただろう。私の旅というのはいつも、昔の旅人たちが綴った「紀行」や、旅行会社の発行した「ガイド」にある旧世界の見聞録を読み、その美しい世界を想像することだった。


 ある日、兄は戦争に召集されて、意気揚々と戦場に赴いていった。国家に必要とされる素晴らしい人間となったことは、兄にとっても周囲のものにとっても誇らしいからね。


 野心家でなんでもできる兄はすぐに昇格して、たくさんの称号と名誉を与えられた。一方私は身体が弱く、国家は私を欲しがらなかった。家族でさえ、私のことをあまり気にかけなかった。


「リオン、もしお前のいう「旧世界」がそんなに素晴らしいものだとしたら、俺はその世界で娼館というものを所有して、商いをしたい。それも、とても豪華で、ふんだんにいい女がいる、高級な娼館だ」


 兄が軍に入った後、私は一人で、兄との数少ない、他愛のない昔の会話を思い出していた。それは私が覚えている中で一番夢豊かな話で、兄が唯一、私の趣味に興味を示したときのことだった。


「しかしね、リオン。その商館には一人だけ、特別な少女がいる」


「彼女は俺の女だが俺の女ではない。俺を慕っているが慕っていない」


「兄さん、ルピシアのことを言っているんだね?」


 それは、兄の人生で唯一、彼が恋焦がれていた女性だった。兄が結婚しても、また他の女と遊んでも、彼にとって彼女だけは特別だったことを、私は知っていた。


「馬鹿者、俺が手に入れられないものなんてない」


 と兄は反論したが、私にはわかっていた。能力、地位、名声、全てを簡単に手に入れて、同時に全てのことに退屈していた兄が、唯一求めて恋焦がれるそのルピシアに、私は嫉妬を覚えたほどだ。


 その会話はとても短かったし、何気ないものだった。だが、私も物語が好きでね。私にはそれが全てだったし、それで十分だった。


 兄が戦場で呆気なく死んだ後、私はすぐに、その物語を実現する作業を始めた。


 しかし私はルピシアという女のことを、あまり知らなかった。兄は話したがらなかったし、私は彼女に会ったことがなかった。そこで私は、私の恋焦がれるものを、兄の恋焦がれたものに重ねたのだ。


 もし彼女が、彼女の意思で、私の想像を超えて、話し始め、踊り、彼女の物語を自ら紡いでくれたなら。


 私は何度も何度も試みた。彼女は何度も何度も同じ物語の中で、決められた台詞を話し、決められた行動をとった。私はあらゆる手を使って、私に想像力を、夢を与えてくれた旧世界の旅の風景を、何度も彼女に見せた。でも彼女にとってはそれも、私が見せたということに変わりなく、プログラムの域を出ない。彼女は私に所有され、定義され、デザインされたただの仮想ツールだった。

 

 でもある日 –––––この何も持ち合わせていない私に、ついに神様とういうものが同情くださったのか––––彼女は誰に動かされるでもなく、自分の足で立ったのだ。彼女は自らの言葉を話し、私の用意した台詞や、私の考えた筋書きではない事を自ら創り始め、物語の続きを展開した。


 それは私の夢を叶え、同時に私の夢を壊した。彼女は言ったのだ。


「リオン、あなたに会いたくて、私はずっとあなたを探した。あなたの絵葉書はどれも素敵だった。でもあなたが私にしてほしいと思うことを、私はしなかった。だってあなたは最初から、ヴェルナーしか見ていなかったんだもの。私はもうずっと前に、私が17の誕生日を迎える前に、ヴァイオレットだったというのに」


 私が気づいたときにはもう手遅れだった。皮肉とはこのことでね、私は兄を慕うばかりに、彼の夢と私の夢を追うばかりに、周りのことを気にしなくなっていた。周りのものは兄が亡くなってすぐに、今度は私を国の英雄にしようと躍起になった。


 私の実験は私の知らぬ間に、国に貢献していた。多くの者が私の実験成果を褒め称え、盗んでいき、ことあるごとに軍事と戦争に役立てた。


 ルピシアはとても従順に、まるでそれが当然のように、国家の書いたつまらない台本を筋書き通りに遂行し、そして彼らの思い描く未来を、とても彼女らしく、残酷に脚色した。


 それは多くの夢を叶え、夢を壊した。多くの国家が消え、多くの文化や言葉、生物の肉体が、音が、貴重な資源が消えていった。


 ルピシアは……ヴァイオレットは、本当に素晴らしい少女だったし、今もそうだと、私は信じている。今も彼女は、誰もいない娼館で、絶えることのない客の相手をしているのだ。



 彼がその乾いた唇で彼の物語を閉じたときは、もう夕暮れ時となっていた。薄暗い415号室は、閉じられたカーテン越しに届く、くぐもった真っ赤な光に染められていた。


 老人と、彼の周りの機械やガラクタは一体となって黒々と不思議なシルエットを現し、もう老人の表情は見えなかった。そしてまた、空気が動くこともないような気がした。


 私は、イプシロンをあなたの側へ置きましょうか、と申し出たが、老人は「いや、あれはもう硬く重くなった、お前の手じゃ到底動かせんよ」と首を振った。


 私の「直感」が、老人は間も無くイプシロンのように、このまま石のように冷たく暗くなることを願っているのだということを感じていた。


 まだ彼の物語を聞きたい、そんな思いで、その黒々とした影に問いかける。


「それで、あなたはルピシアを諦めて、古典的な方法で人形を作るようになったのですか?」


「古典的な方法より美しいものはないと、私は長く考えていたが……それも旧世界の旅人たちに言わせれば、首を振る者も居るだろう」


 老人にまとわりついた治療機器や針金のように曲がりくねったガラクタは、前のように老人が息をするたびにギシギシと鳴らず、だんだんと静かになっていった。錆びた機械の玉座は、老人の墓となる準備をしているようだった。


「私には今、どの世界も美しく見える」


 老人が静かにそう言い、私は言葉をつぐんだ。もうそれ以上、老人に投げかける問いが見つからなかった。それはペルネーが、彼女のダンスの終わりを知っているように、そして私たちが踊りの終えた彼女に向かって、無理な要求をすることなく、黙って拍手を送るのと同じようだった。


「カーテンを開けてくれんかね?夕日を見たいのだ」


 私は老人の言われた通りにした。それが老人の最期のお願いであり、最期の言葉だった。


 夕日は確かに、美しかった。それはやはり不自然に、いや、もしくは自然のありのままに、赤や黄、青に緑に輝き、蜃気楼のようにぼやけて私と老人の頬を照らした。


 私はしばらく、老人のそばに寄り添いながら、その夕日を眺めた。やがてそれは地平線にゆっくりと沈み込み、風景は再び、のっぺりした薄紫に変わった。


 私は静かに415号室の病室を出た。イプシロンは相変わらず、彫刻にようにそこにまっすぐと立ち、老人の部屋を見つめていた。


 このように老人とイプシロンが互いに動かず、静かに見つめあっていることは、美学的価値があった。


 途方もなく白く、途方もなく長く続く病室の廊下を渡り、私は自分の病室へと戻った。そこはやはり冷たく、無機質だった。私の部屋にも、何か飾るものがあればいいのに。誰かが私を訪ねたり、何か素敵なものを置いていってくれたなら、どんなによかっただろう。

 

 私は重くなる瞼で天井を見つめた。寝台に敷かれた薄い布を胸までかぶせ、その布に染み付いた薬品の匂いを吸い込んだ。


 私の最期は一体誰が看取ってくれるのだろう?私の物語を聞いてくれる人は、いるのだろうか?

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終わりを伽ぐ機械たち 宇地流ゆう @yuyushirokuma

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