十二月二十二日 午後九時
「ほれ、オマエの分だ」
「っと」
クロは突然、拳より小さいくらいの丸い球を投げてきた。なんとかそれを掴んで、とりあえずポケットの中に突っ込むと、俺は屋上階へ、踏み出した。
屋上は誰も手入れがされていないからか、やや汚れたテラスが、月の光を受けて佇んでいた。庭園は荒れ放題だ。こんなところで寝たら花粉やら飛んできそうだな、と変に現実的に考えてしまう。
俺とクロはガラス張りの屋根がついている場所を選んで、テーブルを乱雑にどかして、床の上に布団を並べた。寒いけれど、それも関係は無くなるはずだ。俺は布団の上に座って、クロから投げられたボールをポケットから取り出す。
クロは、煙草に火を点けた。いつの間にか手に入れていた灰皿を枕元に置くと、布団の上に寝転がる。
「これ、なんだ?」
「月の石」
「ふーん……っていつの間に」
「地下三階にあるのは知ってたからな。布団探すついでにパクってきた」
「やーい、千和さんに言いつけてやる」
「抜かせ。そんなん言ったら切りがねぇよ」
「住居不法侵入に窃盗、あとは……公務執行妨害か?」
「不法占拠にも手を貸してる」
クロの吐いた紫煙は、寒空の下を流れていく。俺はそれを目で追った。すっかり暗くなった空には、丸く、黄色い、俺の手のひらの中にあるものと一緒の材質の、月が浮かんでいた。
満月と冬至が重なるのが、珍しいのか俺にはわからない。
「さて。そろそろ答え合わせと行こうじゃねぇか」
クロは満を持したように、しかし寝転んだまま、歯を剥き出しにした。
檸檬みたいな月が見守る中、この旅の終わりが、始まった。
「どこからやるんだ?」
「オマエがいいやつだってところから」
「いっちゃん重いところから攻めてきやがって。しょうがねぇなあ……」
俺はクロに手を差し出した。
「なんだよ」
「一本よこせ」
「あいよ。ほれ、咥えて、息を吸え。そうだ、口を窄めて……」
俺の手元に、小さな火が灯された。同時に、煙が肺の中に入り込んでくる。
「……美味くは、ねえな」
「咳き込まないだけで上等だろ」
「これ、なんて銘柄だ?」
「聞いてどうすんだ」
「記念すべき俺の煙草処女を捧げた相手くらい、覚えておきたいんだよ」
「そんなら、一箱くれてやるよ」
クロはナップザックから、赤い丸の描かれた箱を取り出して、俺に渡した。
悪くない名前じゃないか。健康には良くないけど。
俺は慣れない手つきで灰皿に灰を落とす。クロの見様見真似だったけれど、案外様になっているんじゃないか? いや、そう思ってたのは俺だけだ。クロは笑いを堪えている。
ふう、と長く息を吐いてみた。
この白い息は、寒さのせいなのか、それとも煙草の煙なのか。
どちらでもよかった。
俺が決めて、いいんだ。
「俺の定める良い、ってのはさ、なんつうんだろうな。結局のところ、そう俺以外が思っているものの寄せ集めで、それは俺のものじゃ、なかったんだろうな」
「続けろよ」
「言われなくても、続けさせてもらうぜ。タロとジロ、千和さん。旅の中であった子ども達。最後にお前。その中にはさ、善も悪もどっちもあって、そのどっちでもなかった。それでも良い方を、悪い方を選んだとしてもその先にある自分の中の善を、追い求めてた」
俺は煙を、吸い込んだ。
息を吐く。
「でもさ、そうやって価値基準を決めると、自分の中だけで完結しちまう。それが志場さん。自分が善と思ったから、それは絶対的な善である。他人を介在しないで、それを疑いもせず、その上で、寄せ集めの善の基準から逸脱していた。志場さんの中には、自分だけしかいなかった」
白い煙が流れていく。
これは、紫煙。
「だからさ、結局――どちらも、いるんだよ。俺と、世界の全てと。その両方の善悪を、すり合わせて、傷付いて、間違って。悪い方を選んだとしても、良くなるように足掻いて。怖くても、目を逸らさないで。そうやって、ちょっとずつ進んでいって、初めて誰かからの評価と、自分の評価が、いいひと、になるんだ」
この世界は、月と夜空の境界線のように、くっきりと分かれていない。俺も、他人も、世界も。全部が少しずつ作用しあって、良くなろうとしている。
だから。
「俺はもう、眠るのが怖くない。だって、世界も、他の人も、俺と同じように、きっと良くなりたいと、そう思っているはずだから。もしかしたら傷つけてきたりするかもしれない。正真正銘の悪人も、志場さんみたいな人も居るかもしれない」
俺達は、善人じゃない。
だからこそ、善であろうとする。
恐怖に立ち向かおうとする。
「それでも、俺は、この世界の中で善く、生きていきたい。それが俺の中の、善だ」
世界と、俺。どちらもかけてはいけない。どちらも大事にしなくちゃならない。そんな簡単なことに、今になってようやく、気づいた。
クロが俺を誘った理由は、おおよそ、俺がそれを知るのを見たかったから、だろう。最初から月の石が口実なのはわかっていたけれど、まさか俺にこの旅の目的があったとは。
クロは最初からタイムリミットを自覚していた。その最後に、俺が善を知るのを見たいと思ってくれたんだ。
光栄というか。
湧き上がってくる感情は、言葉にしなかった。
「……はは」
クロは、笑った。
二本目の煙草に火を点ける。
犬歯を剥き出しにしたまま。
「オレがどうして、オマエに興味を抱いているか、聞いたことあるよな?」
「ああ。そん時はゴタゴタして、答えを聞けなかった」
「オマエは、足掻ける人間だからだよ。足掻いて、現状を変えようとして、成功したりしなかったり。オマエの進む道は、迷走してもなお、なにかを追い求めてる。そんなオマエが、たまらなく興味深い。オマエはこれからどこへ行く? 自由になったら、何処へ流れていくんだ? それが全く分からない。だから、興味深い。そんなところだ」
「……結局、興味じゃねーか」
「ああ、そうだよ。オレはそれでしか動かないんだから」
クロはブレない。こいつの中の善に忠実だ。それが俺と全く違うものであることも、誰かに受け入れることが無いことも、知っている。
だからこそ、気高い。
クロは犬だ。
気高い野良犬。美しい黒は、月の光を反射して、どこまでも艶やかに、夜空に煙を揺蕩わせていた。
「あとは、なんかあるか? 聞いておきたいこと。俺達の人生はどうやら夏には再開できるらしいが、この旅はここで終わりだ。旅の終わりにできなかったことを後悔するのは、美味くねぇ。悔いは残すなよ」
「悔いが残るかもしれなくても、だろ?」
「ああ。そうだ」
「それじゃあさ、最後に聞かせろよ。月の石なんて、どうして拾いに来たんだ? 興味本位だろうが、その興味の内容を知りたい」
「あー……マジでくだらねぇぞ?」
「いいんだよ。寝る前の話なんだ。そんくらいがちょうどいい」
クロは月の石を、月光に晒した。
何の変哲もなく見える、鉱物の欠片。
「だってよ、眠ったら月、見えないじゃねぇか」
「……は?」
「だからさ、オレは、誰からも見向きもされなくなる月が、寂しくないように、胸に抱いて眠るんだよ」
「……くっ、は」
「案外ロマンチストだろ? オレ」
「にっあわねーっ! あは、あっはっは!」
「はん、言ってろ。オレは三時間以上寝るのは初めてなんだ。ま、お守りだよ」
「また月を見れるように、ってか?」
「ああ」
「くっくっく……いやあ、クロ、お前、やっぱ面白いわ」
「そんな笑ってんじゃねぇ。オマエコラ、煙草返せ!」
「あーもうこっち来んな! あっち! 灰落ちた!」
クロに一つだけ、言わなかったことがある。
俺の中の善。その一つ。
クロが俺の行く末を見たがっているように。
俺も、クロが駆け抜ける様を、なにかを捕まえるのを、誰よりも近くで。
隣で、見たいんだよ。
「おやすみ、クロ。沢山寝れるといいな」
「それを願うよ。おやすみ、ハチ。良い夢、見ろよ」
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