十二月十七日 午後七時
クロとこれからのルートを考えてから、すぐに準備に取り掛かった。まずは食料。これに関しては余裕でクリア。少なくとも上野に着くまでに食べ物の補給はしなくてもよさそうだ。
ランタンと懐中電灯の電池交換、靴の点検。それらを済ませる様子をじっと、千和さんはただ見つめていた。
準備を整えるころには日は傾いていたので、次の日の出と共に出発することに決めた。俺達がそれを千和さんに伝えると、彼女は複雑そうな顔で頷いた。ここに留まれば安寧があると知っていて動く俺達に対して、国家安全を保護する立場からしてみれば思うところがあるのだろう。
ばたばたと忙しない準備が終わり、俺と千和さんは最後の夕食の支度をした。彼女と一緒に居られる時間は、もうそう多くはない。
彼女に惹かれているとかではなく、至極単純に、自分達に対して危害を加えない人間が傍にいるという安全さがなくなること、それが寂寥感の理由だった。
最後の夕食の時間。日が完全に落ちる前にダイニングに集まり、食事を摂ることにした。千和さんと俺が温めたり、缶詰同士を混ぜたり軽く調理したので、存外豪華な夕食になった。パックのご飯と、椀によそったインスタントの味噌汁からほこほこと立ち上る湯気は、煙草の煙とは違ってどこか温かみのある、幸福さが混じった白だった。挨拶もそこそこに、俺が鯖缶とホールトマトを混ぜて煮込んだものをスプーンですくって口に運んでいると、俺の隣に座るクロが、対面の千和さんに話を振った。
「そういや千和、ギャングについての情報、もう少し教えてくれよ」
クロの言葉に、千和さんは露骨に眉を顰めた。国民の安全と保護のために奔走している人間が、好んでトラブルに向かおうとする人間を好ましく思うはずもない。千和さんは少し躊躇ってから、俺達二人を交互に見て、大きな溜息を吐く。
「私達も全てを把握しているわけではないんですけどね。どうやらいくつか大きな勢力の組織が略奪を繰り返しているようなんです。事件の起きた場所と奪われた物資から計算して、おそらくあなたたち二人がここから上野までの最短距離を取った場合にかち合う可能性が高いかと」
「強奪とは、また物騒な話ですね。でもそんなのは今じゃどこででも起きてるでしょう? 徒党を組んでいる連中だって珍しくありません。そんな中で、敢えて言及したのはどうしてなんです?」
これまでの道中だって、その手の輩は腐るほど見てきた。クロがいるのだからそこまで危険視する必要もないだろうと、そう楽観視していた。しかし千和さんの表情は重く、陰鬱だ。
まさか警察や自衛隊から物資を持って離れた人間が、とも思ったけれど、どうにも違うらしい。
「ここに居るのは、その、子どものギャングなんです」
「……は?」
俺は素っ頓狂な声を出して、クロの方を向いた。クロはまるで興味が無いようで、白飯をかっ込んでいる。
「子どもって」
「言葉通りですよ。あなた達が通るルートで確認されている強盗事件の殆どが、未成年どころか小学生によるものです」
「それは……厄介ですね」
いくつかの意味を総合して、そんな言葉が出た。千和さんは重く、重く頷いた。俺はとりあえずクロを肘で小突いた。食事を邪魔されて鬱陶しかったのかやや目を吊り上げるクロを、更に睨みつける。
「どうすんだよ、これ」
「はあ? どうもこうもねぇよ。むしろ好都合だろ。ガキ相手なら負けることもねぇ」
「一対一なら、だろ。あのなあ、子どもの強盗団がさ、もう既に千和さんの耳に入るくらい大きな規模で、何度も強奪してるってことだろ? 子どもだけでそんな大仰なことができるってことは、相当きちんと動いているか、武器を持っているかって考えるのが自然だ」
「おう。だから、それがどうした?」
「お前、子ども相手にどう立ち回るつもりだよ」
「あのなぁ、ハチ。ついでに千和も。オマエらちょっとガキに対して思い違いしてるんじゃねぇか?」
クロは味噌汁を啜りながら、箸で俺達を順番に指した。
「行儀悪いからやめなさい」
「お母さんかよオマエ。あのなぁ、ガキを大事にするとかそういう気持ちは理解できるけどな、だからと言ってぶん殴られた時にぶん殴り返さないとはならん。老若男女関係ないだろ、それは」
倫理的に正しいかと言われると首を捻らざるを得ないけれど、そういうスタンスも間違っちゃいないだろう。それでも俺は、と考えかけて、クロの今感じている思いに、辿り着いた。
そういうことか。
俺が得心したのを察して、クロは千和さんを置いてけぼりにして、言った。
「結局良心の問題だ。良い機会なんじゃねぇか?」
「ええと、どういうことです?」
首を捻る千和さんに、俺は苦笑いを返した。クロは多分、俺が地図を見て、無意識のうちにこういう話題を俎上に載せるところまで予想していたのだろう。なんというか、つくづく敵わない。
「……俺の問題だったみたいです、どうやら」
「はぁ……?」
「なあ、千和。アンタはどうするんだ?」
これ以上はもう議論する必要はないと判断したクロが、会話をぶった切る。
千和さんは表情をさっと切り替えて、仕事モードになった。恐らく娘さんの物であろうやや年齢に合ってないファンシーな部屋着とのギャップのせいで、若干緊張感に欠けるが。
「私は……暫くはここに留まって、やることをやってから東京に戻るつもりです。あなた達は明日の日の出と共にここから出て行くのでしょう?」
「そのつもりだ」
クロは箸を置いて、宣言した。箸先を迷わせている千和さんとは対照的な振る舞いだ。信頼をしているわけではないが、心配はしてくれる。そういった微妙な立ち位置だったけれど、彼女の真心はしっかりと理解できた。
千和さんはコップに残った水を飲み干して、グラスを音も無く置く。どこまでも冷静で淀みのない所作だった。
「あなた達を見送ってから、色々と考えますよ。多分答えは変わらないでしょうが」
「それは、公安としてこのまま、社会が崩壊しても尚国家に尽くすと?」
「ええ。こう見えて、結構尽くす女なんです。私」
千和さんは茶目っ気たっぷりにウインクした。
それから俺もクロも、千和さんでさえ今後のことを話題にあげることは無く、大したことのない雑談をしながら食事を終えた。軽く缶詰を洗って、俺達がいた痕跡を綺麗さっぱり拭い去る。立つ鳥後を濁さず、だ。それに、もし俺達の食べかすを放置していたら、ここで眠る蓮木一家にも良くない影響が出るだろう。
そう言えば、寝ている最中に口や鼻から入るウイルスとか埃とかは、どんな影響を及ぼすのだろうか。詳しく考えようとして、やめた。今日だけは眠らないのが勿体ない。千和さんは引き続き娘さんの部屋で、俺とクロは蓮木さん夫妻の寝室で。眠ったままの三人の体は地下室に纏めて置いておくことにしたので、広々とベッドが使える。
久々に腹の中に温かいものを入れたせいか、猛烈に眠気が襲ってくる。俺はベッドに倒れ込んだ。隣のベッドに座って、ランタンを片手に地図を読み込んでいるクロを見ながら、次第に意識が落ちていく。
辛うじて、声を出せた。
「おやすみ、クロ」
「おう。おやすみ。ゆっくり寝ろよ」
意識を手放すのは、やっぱり怖い。もうこのまま起きれないんじゃないかと、いつものように思う。
それでも、俺は意識を手放す。
ゆるりとすり抜けていく、幸福に満ちた墜落。
けれども胸の中に、これから対峙するであろう自分の呪いと、上野までの険しい道が一瞬で交差していって、やがて夢に全てが巻き込まれていった。
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