第十六話「薔薇の館」
そこからどこをどう歩いただろうか。巨大な黒い狼――校長に先導されて、雑木林の中を何度も何度もぐるぐると回っていたかと思えば、急に視界が開けた。
黒い花々が咲き乱れる前庭と、その奥に聳える
『理事長の館は、一般の生徒や教職員がみだりに近付かぬよう、厳重に隠されているのです』
衣吹の疑問に答えるように、校長が呟く。なんだか心を読まれているようで居心地が悪かった。
「この花は……黒い薔薇ですか? それに、香り……」
近付いてよく見れば、花々はその全てが黒薔薇だった。甘く艶やかな香りが鼻をつく。
衣吹はその香りに覚えがあった。記憶の中にある姉の……真理の香りにそっくりだ。
「校長先生、この黒薔薇はなんという品種なのですか?」
『名は「黒のマリア」と言います。理事長の家系に秘かに伝わる、東欧原産の希少種です』
「マリア……」
奇しくも、この学園での真理のニックネームと同じ名前だった。
しかし、理事長の家に秘かに伝わる希少種、というのが解せない。ならば、幼い頃から姉が漂わせていたあの香りはなんだというのだろうか。
それに、この香りを漂わせる人物が、もう一人いたはずだ。
「あの、校長先生。もしかして小野田寮長は、この花畑に出入りなどは」
『していますね。歴代の黒薔薇寮の寮長は、この庭園に入ることを許された数少ない人間です』
「ああ、なるほど……」
二つの謎の内、一つはあっさり解けた。なるほど、小野田から真理と同じ香りがしたのは、この庭園に出入りしていたかららしい。
では、真理はどうなのだろう。姉がこの学園へやってきたのは十三歳の頃だ。衣吹と別れて数年後の話である。まさか、それ以前から桃源学園と何かしらの縁があったとでも言うのだろうか?
「蔵戸さん、こちらへ」
しわがれた声に振り向くと、校長がいつの間にか人間の姿に戻り、洋館の扉を薄く開けて待っていた。不思議と、修道服に乱れはない。「変身」した時に破れないのは、一体どんな面妖な仕組みなのだろうか。
館の中へ入ると、蝋燭の柔らかい光が衣吹達を出迎えた。玄関ホールには煌びやかなシャンデリアが吊られており、驚くべきことに光源が全て蝋燭だったのだ。
「かなりの手間では?」と疑問に思う衣吹だったが、ホールの中を見回して、その答えが分かった。部屋の各所にシスターズ達がひっそりと立っていたのだ。その数、見えているだけでも六人。これだけの数が揃っていれば、一本一本の蝋燭に火を灯す作業も苦ではないだろう。
館の中にも黒薔薇の香気が漂っており、よく見ればそこかしこに置かれた花瓶に、「黒のマリア」が活けられていた。
「理事長、蔵戸衣吹さんをお連れしました」
「ご苦労様です、校長先生」
その声は、玄関ホール奥に鎮座する階段の上から聞こえた。
幅広の大階段は踊り場を挟み、そこから左右に伸びている。いわゆる両階段と呼ばれるものだ。
踊り場の壁には大きな人物画がかけられてた。中世から近世と思しきドレスを身にまとった西洋人の女性だ。鮮やかな赤毛と碧色の瞳が階下へと向けられている。
――その下、絵画の前に一人の女性が立っていた。
ほっそりとした肢体をレースをあしらった黒いドレスに包み、ベールで顔を隠した女性だ。
「ようこそ、蔵戸衣吹さん」
「貴女が、理事長……?」
カツカツと靴音を響かせながら階段を下りる理事長の姿から、衣吹は目を離せなくなっていた。
可憐――という言葉は、彼女の為に生まれたのではないか? そう思わせるほどに所作がいちいち美しい。全身からは「黒のマリア」の芳醇な香気を放っていて、東京辺りの街中でも歩けば男女問わず誰もが目を奪われ、大変なことになりそうだ。
しかし、衣吹は同時にある違和感を覚えていた。理事長とは初対面のはずだ。にも拘らず、衣吹は彼女とどこかで会っているような気がしたのだ。
「あの……あたくしと理事長さまは、初対面、ですよね?」
「その問いに対する答えは、イエスでもありノーでもあるわ」
「ええと……? それは、何かのとんちか何かでしょうか?」
「いいえ? 答えは、これよ――」
理事長が、自らの顔を覆っていた黒いベールを上げる。そこに現れた顔に、衣吹は思わず息を呑んだ。
幼い頃の面影を残すその顔は、紛れもなく。
「お姉ちゃん……?」
衣吹の姉、唐原真理のものだった。
***
「え? え? お姉ちゃん……? いや、でも……え?」
衣吹は混乱の中にあった。ベールの下から現れた理事長の素顔、それは姉の真理に違いなかった。幼い日に別れたきりだが、見間違えようがない。衣吹の直感もそう告げている。
――だが、衣吹の直感は同時にこうも告げていた。「あれは純粋な姉ではない」と。
「貴女は……確かにお姉ちゃん。でも、何かが違う。中身が別人……ということもない。でも、何かが決定的に違う。……もしかして、何か混ざっている?」
うわごとのように衣吹が呟く。自分でも何を言っているのかよく分からないが、衣吹が今感じていることをそのまま口にすると、こんなとりとめもない言葉にしかならないのだ。
七奈のように、「中身」が全く別物になっている訳ではない。それは分かる。だが、理事長を姉と呼ぶには、違和感があった。
――と。
「驚きました。そこまで分かるのですね、貴女は。――よろしい。真理、後は任せました」
理事長が艶やかな微笑を浮かべ、静かに目を閉じる。
そして、再び目を開けた時には、雰囲気がガラリと変わっていた。
同じ身体、同じ顔のはずなのに雰囲気がまるで違う。どこか人を寄せ付けぬ美しさはそのままに、今の彼女にはどこか親しみやすさを感じる。張り付けた柔和さではなく、母性にも近い温かみが。
「……衣吹」
鈴の音のような可愛らしい声が、理事長の口から漏れる。まるで別人のような声だ。
同時に、衣吹の中にあった違和感も消えた。今度こそ、混ぜ物の無い真理の姿がそこにあった。
「お姉ちゃん……? 本当に、お姉ちゃんなの?」
「ええ、私よ。衣吹、大きくなったわね」
「お姉ちゃん!」
たまらず駆け出し、衣吹は姉の胸に飛び込んだ。これが何かの罠だとか、そういった警戒心はどこかへ吹き飛んでいた。
ただただ、求め続けた姉の姿にむしゃぶりつく。
「お姉ちゃん! お姉ちゃん! ずっと……ずっと探してたの」
「あらあら。大きくなっても甘えん坊さんのままなのね、衣吹」
「だって! だって、お姉ちゃんがいなくなったっていうから! あたし、あたし必死で探したんだよ?」
「ごめん……ごめんね衣吹。本当にごめん」
「いいよ、お姉ちゃん。きっとお姉ちゃんにも理由があったんでしょ? そりゃ、生きてるって一言伝えてくれればとは思ったけど……」
姉に心配をかけまいとニコっとした笑顔を向ける衣吹。しかし、真理の表情は暗い。
なにか、言葉が行き違っている気がした。
「お姉ちゃんが謝ってるのは、ここにいることを隠してたこと、じゃないの?」
「もちろん、それもあるわ。でも、でもね。それだけじゃないの。この学園に衣吹が来るって聞いた時、私は止めるべきだったかもしれないって……そうすれば、貴女はまだ普通の世界いられたかもって」
「そりゃあ、この学園にはびっくりしたけど、こうしてお姉ちゃんに会えたんだから問題ないよ!」
――あっけらかんと言い放つ衣吹の姿に、真理の顔が更に曇る。その姿に、今まで姉妹の再会を見守っていた校長が重い口を開く。
「蔵戸……いえ、衣吹さん。真理さんが仰っているのは、貴女の体に起きている異変のことです」
「異変? ああ、やたらと元気ですけど、何もおかしいところはありませんよ?」
「……新月の夜の闇を見通せる眼も、野生の猪をテーブルナイフ一本で圧倒出来る力も、どちらも普通の人間ではありえないことです。もう、その自覚も無くなってしまったのですか?」
「え……? あ、あれ? あたし……そういえば……」
そこでようやく、衣吹の頭にかかっていた薄い靄のようなものが霧散した。
灯りも持たずに新月の夜を駆け、野の獣をいたぶり、あまつさえその血潮を啜ろうとした。
おかしい。そのおかしさに気付かなかったことが、何よりおかしい。
「あ、あたし……? えっ、えっ? なんか、変? いや、でも……」
ガタガタと、
「ああっ! 衣吹! ごめんね衣吹! 貴女だけは! 貴女だけは普通の世界に生きていて欲しかったのに!」
真理が震える衣吹の身体を抱きしめる。小刻みに揺れる妹の全てを守るように。
「真理さん、仕方のないことです。遠からず、衣吹さんはこの時を迎えていたはずです。俗世で目覚めなかっただけ、マシだと思わねば」
「でも、校長先生。この学園にさえ来なければ、衣吹はもっと普通の生活を送れたはずです」
「所詮は誤差です。お母様から伝えられたお話を、お忘れですか?」
「それは……」
「お母さん? お姉ちゃん、校長先生、一体何の話をしているの?」
恐怖に震えながらも、衣吹はどこかで冷静だった。どうやら、二人が自分に関わる重要な話をしているらしいと、分かる程度には。
「……そうね、衣吹。全てを話す時が来たのね」
衣吹の体をそっと開放すると、真理は一つ大きく息を吐く、語りだした。姉妹の、この学園の秘密を。
「よく聞いて衣吹。私達は、普通の人間ではないわ。……この学園の多くの人間も」
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