並ぶ
可笑林
呪恨
1
隠されていた地下室のその奥深く、無造作に放り捨てられて埃を被っていたズタ袋の中身を、うかつにも覗いてしまった。
かさかさに乾いたミイラ、落ち窪んだ眼窩の奥で、『何か』が私を捉えた。
もんどりをうって駆け出したときには、もう遅かった。
振り返れば眼前には白いワンピース姿の女が立っていた。
顔を覆う漆黒の髪、その隙間から血走った右目がのぞいている。
目が合った時、私の体は氷漬けにされたように動かなくなった。体の芯が恐怖で凍り付いていた。
うぞうぞと足元から這い上がるそれは、どうやらその女の黒い髪のようである。
悲鳴を上げようと口を開けた途端、身体を這い上がって来た髪がずるりと進入してきた。饐えた血のような匂いとともに体内に侵入した髪は、やがて私の体を満たし、爪をめくって指先から、鼓膜を破って耳から、そして眼球を押しのけて眼窩から飛び出して行く。
絶望的な苦しみの中、真っ赤に染まった視界に私が最後に思い浮かべたのは、愛を誓い合ったばかりの婚約者の姿だった。
2
目が覚めると、そこは埃っぽい地下室だった。
眼前にはズタ袋が無造作に打ち捨ててある。
辺りを見渡しても、その風景は先ほどまでと全く同じように思える。
では、先ほどの地獄のような光景は私の見た幻だというのか。
どうやらそうではないようだった。
何気なく自分の手元を見たとき、私はそれを悟った。
真紫に鬱血した両手に、変色した血で黒く染まった爪。鏡を見るまでもなく、自分が今どんな有様かは想像できた。
なにより、まさに今のこの状態を表すのにちょうどいい言葉があるのだが、どうにも「生きた心地」がしないのであった。
地に足がついていないというか、とにかく、どこか空虚な気持ちで、風邪のひき始めの浮足立った感覚に似ていた。
ズタ袋をしばらく見下ろしてから振り向くと、白いワンピースの女がこちらを向いて立っていた。
途端に腹の底から怒りが湧いて来て、私はずんずんと歩みを進めて女の首を両腕で掴み込んだ。やけに細くて、そして冷たかった。
こいつが憎い!
罪もない私を、あれほどむごい方法で殺すなんて! 幸せの絶頂にあったのに!
皮肉なことに、煮えくり返るような怒りと恨みが、私の心を一種満たすような感覚があった。
そのまま細い首をへし折ろうとしたところで、私は目の前の女の血走った眼がこちらを覗いているのに気が付いた。
怖いものか、こちらだって怨霊だ。同じような目をしているに違いない。
と、そうは思ったものの、よく観察していみると、先ほどとは眼差しの雰囲気が違うようである。
そこには私に対する、なにやら憐憫のような気配があった。事実、これほどの切迫した状態であるにも関わらず、女はまんじりともしていなかった。ご自慢の髪の毛にも動静がない。
思わず手の力が緩んだところで、女は小さく嘆息した。私が首を絞めていたためか、ひゅうひゅうと絞れられたような音がする。
「気持ちは分かるよ」
励ますようなことを言った。
思いのほか綺麗な声をしている。
「わたしが恨めしいよね……あっ!」
と、何かに気が付いたように言葉を打ち切って、彼女はあろうことか私に対して両手を合わせた。怨霊として正しい態度であるようには思えなかった。
「あれを言ってくれない? ほら、あれ」
「あれ?」
思わず応答すると、女は小刻みに頷いた。
血走った目に期待の光が籠る。
「ホラ、怨霊になったら言うことがあるでしょ。ちょっとわたしが言いかけちゃったなんだけど、うら……うら……」
彼女の意図するところが分からず、私は一旦彼女の冷たい首から手を離し、そして腕を組んだ。考え込むときの、私の癖だ。
「察しが悪いね。古い映画とか、お化け屋敷とかで聞くでしょう」
「……あぁ、はいはい」
促されて気付く。不思議なことに、私の茶目っ気は死んでも失われてはいなかったらしい。彼女の期待に応えようという気持ちになった。
「うらめしや~」
女は小さく跳ねて、そして拍手した。
「ブラボー!」
3
古びた喫茶店には電気もついていなかったが、不思議と不便は感じなかった。
「落ち着いた?」
コーヒーカップを手にした怨霊というのを初めて見た私は、しばらく閉口した。
「コーヒー嫌いだった?」
「いや……」
私も目の前に置かれたカップを手に取って、そっと口を付ける。
暖かさを感じる。もちろん、味も。
古びた館を抜けて、誰もいない真夜中の町をこっそりと歩き、そして路地裏の喫茶店に忍び込んだ我々は、白いワンピースの怨霊が店の設備を勝手に使って淹れたコーヒーを飲んでいた。
「電気をつけると人が来ちゃうからね。暗いけど我慢して」
彼女はすっかりくつろいでいる様子だった。あまりにも毒気がないものだから、私は強く彼女を非難することもできなかった。
彼女のほうはなぜか上機嫌で、鼻歌でも始めそうな雰囲気だった。こちらからなにか言わなければ会話が始まりそうにはなかった。
「電気をつけなくとも、『それ』のせいで人にバレそうな気がしますけど」
私が指さしたのは、店内のあちこちに浮かんでいる人魂である。ざっと数えても五十はありそうな大小の火の玉がそこら中で青白く光っている。
館を出てここへ来る間も、この人魂たちは女の後ろに列をなしてふよふよと浮かんでいた。彼女が右へ進めば右に、左へ曲がれば左に、実に従順な様子で彼女から離れようとはしなかった。
「彼らはね、今は人に見えないようにしてるから大丈夫」
「あなたがその……使役しているんですか?」
「ううん。彼らが付いて来てるだけ、と言った方が正確かな。彼らはみんな、わたしを恨んでいるからね」
私はガシャンとカップを鳴らして立ち上がった。
「こんなに祟り殺しているのか!」
「カップは割らないでね」
私の剣幕にも、彼女はどこ吹く風だ。「ここを心霊スポットにするわけにはいかないから」
また例の怒りだか恨みだかが湧き上がって来て、私は身体を震わせた。どうやら、この場で怒りを表明し、そして正義を執行できるのは私だけのようである。無念にも漂うことしかできない犠牲者の玉々のためにも、この悪逆非道にして冷血無比の怨霊女を討たなければならないと思った。
「そうカッカしないでよ。説明するから」
彼女は少しがっかりしているようだった。
「あ、でもわたしを恨むことは忘れないで」
もう訳が分からない。
私はひとまずまた席に腰を下ろした。生きていた頃よりも感情のふり幅が大きいような気がする。
「あなたを恨んだままでいられるなら、是非とも説明をしてください」
4
「わたしたちは、まだ死ねるの」
彼女は説明が下手であった。
前提として、私は彼女――いい加減、三人称で表現することが煩わしいので彼女のことは『比名子さん』と呼ぶことにする――に祟り殺されており、今やどこからどう見ても立派な怨霊というわけである。
「『比名子』はわたしで二代目なの。先代は立派でね、ゼロから地道に人を祟って、『比名子』のネームバリューを確立させたんだ」
「そんな、ファッションブランドみたいな」
「そうそう、まさにブランドだね。比名子ブランドは安心恐怖の証というわけだ。君は男だから継げないのが残念だねえ」
『比名子』は、その王道怨霊らしいビジュアルと容赦のなさから都市伝説として格別の知名度を持つ。何度も映画化されるほどだ。
もちろん巷に流れる噂話、心霊話に過ぎないと誰もが思っているが、こうして実在していたわけだ。小旅行の宿泊先に古い洋館なんて選ぶんじゃなかった。
「もう一度死ねるというはどういうことです?」
「ああ、そっか、その話の途中だったか。人と話すのなんて久しぶりだからどうしても脱線しちゃうね」
彼女はそう言って間を持たせるようにコーヒーに口を付けた。
「わたしたちは死んでいるけれども、だからと言ってもう死ねないわけじゃない。わたしたちが死んだら行くことのできる死後の世界、分かりやすくいうとスーパー死後の世界があるんだ」
「スーパー死後の世界?」
なんと間の抜けた響きか。
「そもそも、ここは死後の世界なんですか? どうやら現世のように思えますが。ただ人に……生きている人に見えていないだけで」
「浮世絵って分かるかな?」
「はあ……江戸時代の、あの版画ですか?」
「そうそう。あれは一枚の絵をいくつもの『層』に分けて、順番に刷っていくんだよね。わたしたちは、生きている人がいるのとは一つ別の層にいるんだ。でも、わたしたちのほうが少し自由で、生きている人がいる『層』にもお邪魔できるというわけだ」
「なるほど、これは分かりやすい」
「準備した甲斐があったよ」
比名子さんは機嫌をよくした。
「そういう意味だと、スーパー死後の世界はこれまでと全く違う『絵』に行くことになるね。向こうの様子はさっぱり分からない」
「ではなぜ、スーパー死後の世界があると言えるんですか? 死んだらそれきりかもしれないですよね」
「それなら心配はいらないよ。先代の比名子さんがお盆の時期になると便りをくれるんだ」
比名子さんはごそごそと髪の中へ手を入れると、幅広の柳葉のような薄いものを取り出した。玉虫色に近い光沢があり、その表面には薄く字が彫られている。
「向こうの世界のハガキのようなものかな」
手渡されたそれは、確かにこちらの世界では見たことも触れたこともないような材質だった。便りには短くこう書かれていた。
『期待していたよりは微妙。悪くはない。だいたい67点くらい』
「これじゃあ分からない……」
「あけすけな人だったんだけど、どうにも言語化がむずかしいらしい。こちらとはルールが違うみたいで、その紙ぺら一枚を送るのが精いっぱいみたいだね。我々はこれに縋って来世に期待するしかない」
「じゃあ、比名子さんは死ぬかどうか迷ってここにいるんですか?」
「まさか。迷いはないよ。スーパー死後の世界に行きたいし、先代比名子さんにもまた会いたい。わたしたちが死ぬのには手順を踏む必要があるんだ」
そこまで言うと、比名子さんはその辺に浮いている人魂を指さした。
「自分を恨む人魂を百七個、怨霊を一人集めること。そうすると人魂百七個と共にスーパー死後の世界にいける」
また難しくなってきた。怨霊一人というのは私のことに違いないが、そうなると気になることがある。
「比名子さんが魂を百八個集めたところで、自分はここに取り残されることになるということですか」
「ううむ、その通り」
比名子さんはわざとらしく、鷹揚に頷いた。
「我々は怨霊でありながら、迷える子羊を導く羊飼いでもあるのさ……」
「説明をしてください」
「……そもそも、だいたいの人間は死んだら一発でスーパー死後の世界にいけるんだけど、そうじゃない人もいる。そういう人たちは死んだら魂がわたしたちみたいに違う層に行ってしまって、つまりは迷子になってしまうんだ。だからわたしたちがそうなる前に彼らを祟り殺して、まとめてスーパー死後の世界に連れて行くの」
「なるほど……」
私はカップのふちを指でなぞりながら、これまで言われたことを反芻した。
「残った私はその役割を引き継いで、また私を恨む百七の人魂と、一人の怨霊を集めるわけですか」
「物分かりがいいね。昔の自分を思い出すよ」
「どうだか」
「ひどい」
私はそこでもう一つの疑問を比名子さんに投げかけた。
「死んで人魂になるか、怨霊になるかはどう決まるんですか? 比名子さんを恨んでいるのは皆同じでしょう」
「それは……」
比名子さんは少し言い澱んで、血走った片目で私をじっと見た。説明する内容を準備していないようだった。
「……遺伝かしら?」
比名子さんはそう言ってから、私があからさまに不信感を顔にしたのを見て、少し慌てたようにぎょろぎょろと辺りを見まわす。
「いや、分からないの。ほんとに。だって、死んでから怨霊の研究なんてしようと思う人、いないからね。みんなさっさとスーパー死後の世界に行きたいんだから」
私はひとまずため息をついて、それからカップを置いて立ち上がった。
「コーヒー、ごちそうさまでした。どうやら私も本腰を入れて魂を集める必要がありそうですから、比名子さんには責任をもって色々と教えてもらいますよ」
比名子さんはどこか安心したように首肯した。
5
「ごらん、違いが分かるでしょ」
「なるほど……」
埃っぽい天井裏、我々は床に空いた隙間から下の階を覗き見ていた。
私が死んだのとは違う洋館に集まっていた大学生の集団が、賑やかに酒盛りをしている。
荒れ狂う嵐の大海のような酒宴の中に浮かぶ頼りない小舟のような女学生を除き、若者たちの輪郭はうっすらと青黒いオーラのようなものを纏っていた。
「あれが『死相』だよ。死相が出ている人間は、死んでも直接スーパー死後の世界には行けない」
「しかし、六人もいますよ」
「まあまあ、君はそこで見ていなさい。こういうのには定石があるんだ」
滅多にない大漁なのだろう。比名子さんは明らかに肩に力が入っていた。
「いずれは君も一人で人魂を集めなくてはならないんだからね」
十分に先輩風を吹かせてから、比名子さんはカサカサと天井裏を進み始める。
そのおぞましい姿と言ったらなかった。生前に目撃していたら卒倒していただろう。
やはり年季の入った怨霊は違うものだと少し感心しながら、私は彼女の背中を見送った。
彼女の手腕には感嘆するばかりだった。
そつなく一人ずつおびき出し、見るも無残な方法で絶命させ、ときには仲間同士の不和をあおり、ときには団結させ、そして希望を少し持たせたあとに絶望に叩き落とす。一夜にして尊い若者の命の灯が吹き消され、残された女学生の心にも深い傷が刻まれたことだろう。
不思議なことに私の心は痛まなかった。なにも若いうちに祟り殺すことはないだろうという気持ちはあったが、良心の呵責に苛まれるようなことはなかった。
比名子さんの言ったとおり、私は彼らとは違うレイヤーにいて、なにか水槽の中の熱帯魚を眺めているような気分だった。
凱旋する比名子さんの背後にずらりと続く人魂の列に、真新しい六つの人魂たちがどこか不安げに連なっていた。
「見事でした」
「うん、まあ、ざっとこんなもんだよ」
くだんの喫茶店で、我々は祝杯を上げた。なんでもないような素振りだが、比名子さんは誇らしげだ。
「少しは手本になれたかな」
「勉強させていただきました」
調子を合わせてから、私は辺りを見回す。ふよふよ浮かぶ人魂が、本当に水槽に浮かぶ熱帯魚のようだ。
「残りはいくつですか」
「あと二十四人だね。終わりは近いようで、中々遠い。今日みたいに順調にいくことはめったにないから、また地道に一人ずつ祟らないとね」
当然のことではあるが、一度でもあのように派手な地獄絵図をつくってしまうと、しばらくはその場所に人が寄り付かなくなって怨霊活動も難しくなる。強い恨みを残して死んで貰わなくてはならない都合上、手あたり次第その辺の人間を祟るわけにはいかないのだ。
我々は獅子であると同時に、また牧場主でもあるというわけだ。
6
その日、私はすこし緊張した心持ちで喫茶店のカウンターに座っていた。
「『鉈男』というのはどうでしょうか」
比名子さんは腕を組んで思案顔ののち、静かに首を振った。
「地味すぎるね。凶器らしい凶器を象徴にするのは、逆に印象に残りづらいんだ」
「だめですか……」
『デビュー』を控えた私は、自分の怨霊としての立ち位置を明確にすべく、つまりブランドを立ち上げるべく、比名子さんに相談していた。
怨霊というのは神秘性があるから怖いのであって、男女間の神秘性を比ぶれば女性のほうが当たり前に神秘的であるから、必然怨霊としての立場は女性の方が強い。かの有名な貞子も伽椰子も女性であり、男にもジェイソンやらマイケル・マイヤーズがいるだろうと思うかもしれないが、あれらは怨霊ではなく殺人鬼である。
「人の夢に出るというのは?」
「それは名案だけど、競合が多い。夢の中で他の怨霊と鉢合わせたら悲惨だよ。新参者の君からしてみればバツが悪いだろうし、怨霊同士が争っているようじゃ怖いものも怖くなくなる。エイリアンとプレデターはそれぞれが敵だから怖いのであって、お互いが争い始めると、どちらかがヒーローになってしまうんだ」
比名子さんの言うことは理にかなっていた。
いろいろと案を出してはみたものの、決め手になるものはなかった。己の遺伝を恨むばかりである。
「あせらなくていいからね。君が独り立ちするまではわたしも死なないようにするから」
比名子さんの気遣いは嬉しかったが、ここまでされると彼女を恨む気持ちが消えてしまいそうだった。
埃っぽい屋根裏や地下室で腕を組んで座り込んでいてもいいアイデアは浮かばないから、日が落ちると私は町へと繰り出した。
気にかかるのは、やはり私が遺した婚約者のことである。
私が怪死してからおよそ二か月、彼女の傷心ぶりといったら見ていられなかった。
それはそれで私が愛されていたことが分かってむず痒いものだが、悲しんでいる彼女を草葉の陰から覗き見てほくそ笑むような行為が愉快なはずもない。なんとかして彼女を幸せにしてやりたかった。
彼女は私たちが住むこの地方都市の、まだ辛うじて生きている商店街の隅にある信用金庫に勤めている。
怨霊になってから食欲も睡眠欲もないから単純に可処分時間が倍増していて、ありていに言えば暇である。そんなわけだから常に彼女の傍にいてやれればいいのだが、それでは彼女に取り憑いているようで気が引ける。彼女に死相が出ていればいっそ……と考えたりもしたが、これこそ邪念である。死してなお、彼女に恨まれたいとは思わない。
そんなわけだから、私は時折彼女の勤める信用金庫の天井裏に潜んで彼女を見守っているのだ。こうしていると曜日感覚が失われることもない。
生前、彼女の職場に滞在したことなどなかったが、ここ数日で分かったことがある。
我がフィアンセは、恥ずかしながら私よりもよっぽどしっかりした人間であり、くだらないクレームなどは咳払いの一つで弾き飛ばしてしまうのだが、そんな彼女がどうやら今は傷心の最中にあるという点を嗅ぎつけた獣共がその澱んだ目に光を灯しているのだ。
特に、彼女の直接の上司にあたる男の虎視眈々ぶりは、文字通り職場を俯瞰的に眺めている私でなくとも一目瞭然であった。
用もないのに彼女に話しかけ、あまつさえ肩に触れることすらあった。
立場もあり、強くは断れない彼女はランチタイムに同僚にささやかな愚痴をこぼすのみである。
怨霊の本能というべきか、そのような姿を見るたびにどす黒い怒りと怨嗟がはらわたに溜まっていき、二か月が経った今、私はもはや怨念の化身と化していた。
なんとしてでも私の婚約者を苛む邪悪は取り除かなくてはならない。しかし、ただ惨殺するだけでは怨霊として立場が危うい。
板挟みになっている間も私の中に澱みは蓄積されていたが、ある日、彼女の勤め先の忘年会が行われた際にその上司の男が酔った勢いで彼女の手を掴んだのを見た瞬間、怒りのあまり体が破裂するかと思われた。その一方で、意外なほど思考が研ぎ澄まされる感覚もあった。
『憎いあン畜生を引き摺り回して処刑したい』という純粋な私の思いが、とある結論に至らせた。幸い、男には死相が出ていた。
気が付けば小汚い居酒屋の天井裏に潜む私の手には、荒々しく編みこまれた一本の縄が握られていた。それは比名子さんの髪が自由自在に伸びるように、我々怨霊に授けられた神通力の一種である。
思い返せば、私は生前から西部劇を好んで見返していた。これを以てスタイルとする。
7
翌日の新聞の隅に掲載された記事に血走った眼を向けながら、比名子さんは感慨深そうに頷いていた。
「いいね。風流でもある」
県内に流れる大きな川にかかる、とびきり大きな橋の真ん中に、私は男をぶら下げていた。馬はなかったので引き摺り回すのには苦労したが、ブランディングとは地道な努力が必要なものだからと、私は労力を厭わなかった。
「それで、なんと名乗るのかな? 『吊り下げ男』とか? それとも『縄男』?」
「『ハングマン』はどうでしょう。処刑人という意味です」
比名子さんは小さく腕を組んで、瞑目したままこくこくと頷いた。
「悪くない。田舎で横文字というのが、アンバランスで不気味かもしれない」
先輩からの太鼓判もいただき、私はいっそう精を出して働き始めた。老舗のすし屋で初めてネタを握らせてもらう弟子の気持ちは、案外こういうものかもしれない。
手始めに、私のフィアンセを害する不埒な連中を端から端まで『くくる』ことで名声を上げ、私も一端の有名怨霊となった。
無論、いとしい彼女に疑いの目などが向かぬように、祟り殺す際はなるべく超常的に、そして無作為に見えるように努めた。
焦るべからずとは、先輩であり師匠でもある比名子さんの金言である。じっくりと機を伺い、私の名がこの地に定着するのを観察しながら、背後に連なる人魂の列を伸ばしていく。
8
私の婚約者は、ついに私の婚約者ではなくなった。
正確に言えば私が世を去った時点で彼女は私の婚約者ではなくなったのだが、ここで言いたいのは、私の死から三年が経ち、彼女はついに新しい人生に向けて一歩を踏み出す覚悟を決めたということだ。
相手は地元で洋菓子店を経営する恰幅のいい男だった。誰に対しても誠実で、いい仕事ぶりで、地元の人々から愛されており、なにより私の元婚約者を愛している。
信用金庫を辞め、日々洋菓子店で小麦粉に塗れながらも微笑みを浮かべる彼女の姿を眺めていると成仏しそうになる。
とはいえ、この世の(あの世の)理からすれば成仏は自ら汗を流さなければ至れないものである。
これからは彼女のことに執着せず、私も次のステップに向けて進まなくてはならない。
真新しい死体が風にそよいで揺れるのを高架下から見上げながら清々しい気分になった私は、この気持ちを比名子さんに共有したくなって、そして根気よく私を導いてくれた彼女に謝意を伝えたくて、少し久しぶりに例の喫茶店に顔を出すことにした。
私がこの頃忙しくていることもあり、比名子さんと会う機会はめっきり減っていた。二週間に一度会えばいい方である。
順風満帆な私と比べると、どうも比名子さんのほうの進捗は芳しくないようだ。三年前に残り二十四だった人魂の数も、まだほとんど減っていない。彼女の能力が衰えたようでもないし、どうにも比名子さんのほうにやる気が感じられないのが気がかりだった。
いつも彼女がいる時間に喫茶店を訪れた私であったが、カウンターに比名子さんの姿はない。
なんとなく浮かれた気分だった私は、その熱が冷めないうちに比名子さんに会いたかった。
確か彼女はこの店の屋根裏を拠点としていたはずだ。
私は静まり返った店内を見回してから、いそいそと階段を登った。
9
屋根裏にも比名子さんはいなかった。
どこかに出かけているのだろうか? 人魂集めにまた取り組み始めたのならいいのだが、今日いないのは少し都合が悪い。
見回してみると、怨霊の割には小綺麗に片付けられた部屋だった。生前はまめな人だったのかもしれない。喫茶店の店主が屋根裏をほったらかしにしているのをいいことに好き放題である。
人の部屋を勝手に見て回るのはマナー違反だとはわかっていたものの、その時の私は部屋の隅にさりげなく立てかけられていた小さな写真立てに好奇心を掻き立てられてしまった。
生前の比名子さんがどのような人間だったのか、彼女と出会って以来そのような話はほとんどしたことがなかった。何十年も前のことだから憶えていないとは言っていたが、彼女はどこかそれを隠しているようなところもあった。
普段なら自制心が働くところであったが、私は誘惑に負けて、ついにその小さな写真立てを手に取った。
それは若い男女の古ぼけたツーショット写真だった。
白いワンピースを着た髪の長い、大きな目の明るい表情の女性の隣には、少し頼りなさそうな男が笑顔を浮かべていた。
ワンピース姿の女性は、言わずもがな比名子さんだろう。
男は彼女の恋人だろうか。
私とよく似た顔をしていた。
10
そろりと店の裏口の方向から現れた比名子さんは、カウンターに座る私を見るとあからさまに嬉しそうな顔をした。
「おや、今日は来てるんだね」
コーヒーを入れるよ。とカウンターへ近寄った彼女は、私の表情に気が付いて歩みを止めた。
「嘘をつきましたね」
「……どうしてそう思ったのかな」
「遺伝なんて、下らない」
比名子さんは明らかに狼狽した様子だった。
「なんとなく気が付いていました。でも、本当だったら怖かったから気付かないふりをしていました」
比名子さんはなにも言わず、ただホールの入り口の暗がりに立ち尽くしているだけだ。
「死相が出ていない人間を祟り殺すと、怨霊になるんですよね」
「……」
「否定しないわけですか」
私は立ち上がって、比名子さんの正面に立つ。
「私を殺したのはなぜです。答えてください」
「それは……」
居心地の悪い沈黙がその場を支配した。元より止まっているはずの心臓が動悸している気すらした。
「それは……君が、死に別れたわたしの恋人と似ていたから」
そこからは目も当てられなかった。
というのは、比名子さんのことではなく、私の取り乱しかたの話である。
とても人に聞かせられないようなひどい言葉を手当たり次第に投げつけて、それでも怒りが収まらず、私はそのまま店を飛び出した。
11
こういう時にどこへ向かうべきなのか。
縛るもののない怨霊はあまりに自由で、そしてあまりに寄る辺がなかった。
今、例の洋菓子店へ行くと悪いことを考えてしまいそうだったから、なるべく俗世間から離れたかった。
俗世間から離れ、怒りに乱れる心を鎮めたいときに向かうべき場所といったら、一か所しかあるまい。
「もしもし」
そっと背後から声をかけると、老住職は木魚を叩く手を少し止めて、それからまたぼそぼそと念仏を再開した。
気付いてないのかしらと思ってもう一度声をかけても、今度はポクポクと木魚を叩く手を止めようともしなかった。
さすがに耄碌しすぎているかと思って肩に手を乗せると、住職は空いている方の手で私の手をぴしゃりと打った。
私も諦めて住職の斜め後ろの方に座って、念仏に耳を傾けてはじめた。幸い除霊されるようなことはなさそうである。
この古寺は私が小さい時から変わらない姿で、町の隅の民家と民家の間にはめ込まれるようにぽつねんと存在していて、今思えば人よりもどちらかというと怨霊に近い容貌の爺さんが独り、住職として切り盛りしていた。
死んでから来ることになるとは皮肉なものだが、心頭滅却の術を学ぶにここよりも適した場所はないはずだ。
見る影もないボロ寺ではあったが、仏像だけはきちんと手入れがされているようで、茫洋と蝋燭に照らされた仏から見下ろされると妙な安心感があった。
猫が畳を引っ掻くような掠れ声の念仏を聴いていると、私がここに来てからもう何百年も経っているような気がした。このままだと相談事する前に住職が召されてしまう。
そんな危惧をしていると、その内チンと音がして念仏が止まった。
はっとして居住まいを正すと、住職がのそのそと薄い座布団の上を回転して、やがて私と向き合う形となった。
「まず、病院へいきなさい」
皺だか口だか分からない場所をもごもごさせながら確かにそう言ったのを聞いて、私は首を横に振った。
「ひどい見た目でしょうが、これで健康なんです。なにせもう死んでいますから。ほら、周りに人魂が浮いているでしょう」
住職は埃の一塊のような眉をちょいと持ち上げる。
「戒名は変えられないよ」
「いえ、そうでもないんです。自分で気に入ったのをつけました」
そう答えると、住職はもごもごと顔じゅうの皺を動かした。
「今、私は怒りと憎悪で狂いそうなのです。どうにか禅というものを教えてくれませんか。胡坐をかいてじっとしてみたのですが、平静を保つことができません。和尚さんなら禅の極意を知っていそうです」
「禅じゃないね」
と、意外にも俊敏に住職は答えた。
「あんたが必要なのは、禅じゃない。そもそも、うちと禅寺の区別もつかないのに、禅は教えられない」
私は頭を掻いた。
「私に必要なのは、なんなのですか」
「考えてみなさい」
それだけ言い残して、和尚はさっさと蝋燭を吹き消してどこかへ引っ込んでしまった。
することもないので、ただ仏像の前に座り込んで考えてみる。その間も怨恨の赤黒い炎が私の身を内側から焼いていたが、どうやら住職は意味深ながらも私の向かうべき道が見通せているようでもあったため、なにかしらの成果を求めて寺に居候することにした。
年が明けると、三が日の間だけぽつぽつと人がやって来て手を合わせていくが、時期を過ぎると途端に寺は廃墟も同然の扱いとなった。
その間も、私と住職は変わらないリズムでただ仏間に正座していた。
雪が降って、積もって、溶けて、もう一度降って、積もって、また溶けて、そうして新緑が眩しくなり始めた時期のある晩のこと、住職が念仏している途中に私は不意に立ち上がった。
「わかった」
そうは言っても住職が念仏をやめようとしないので、私は枯れ木のような肩に手を乗せた。
「わかりましたよ」
住職はまたいつかのように木魚を叩いていない方の手で私の手をぴしゃりとはたき、またもごもごと念仏を続ける。
しかたがないから唱え終わるのを待って、住職がこちらに膝を向けたときに私は口を開いた。
「私に必要なものが分かりました」
「言ってご覧なさい」
「きっぱり諦めたいんです。そして許したい」
「無理だね」
と、非情にも住職は言い切った。
「無理だなんて、そんなひどい話がありますか」
「ひどい話ばかりだよ。無理なものは無理」
「いや、無理なことは――」
と、そこまで言いかけてから、私は住職の意図していることを理解した。
「私は苦しみから逃れたいからすべてを諦めたいし、許したいけれども、それは無理。無理だとわかれば、一転して苦しむ必要はないということですね」
「それがわかれば、よろしい」
「それなら、結局は禅が必要だった気がします」
「早く出て行きなさい。怖くてたまらん」
そうして寺からつまみ出された私は、そのままの脚で喫茶店へと向かった。
12
「コーヒーが飲みたいです」
開口一番にそう言った私に対して、比名子さんはただ黙って深夜の喫茶店でコーヒーを淹れ始めた。
その間、お互いなにも話さなかった。ただ二人が集めた人魂ばかりがぼんやりと店内を照らしている。
いつもより長い時間がかかって出て来たコーヒーを啜る私を、比名子さんは赤い眼でじっと見つめていた。
「どう?」
訊かれて、答える。
「線香の匂いでよくわかりません」
出会ってからこれまでよりもずっと多くの言葉を、その晩、私と比名子さんは交わした。
生前のことを話すのもそう難しいことではなかった。私たちは静かに、しかし熱っぽく死ぬ前のことと、死んだ後のことを語り合って、恨み言を投げつけ合い、時折謝り合い、そしておおよその時間において笑っていた。
13
比名子さんはすっかり廃墟になったホテルの地下を選んだ。
そこは彼女と恋人との思い出の場所であり、彼女が先代比名子に祟り殺された場所でもあり、また彼女が初めて人を祟り殺した場所でもあった。
彼女の前にずらりと並んだ百七の人魂の列、その最後尾に私は立っていた。
比名子さんは最前の人魂を抱え上げると、それを耳にあてて、一言二言なにかを答えてから人魂を胸に抱き、するりとそれを体に取り込んだ。
それを繰り返すこと百七回、ようやく私の番が訪れる。
比名子さんはどこか緊張した面持ちだった。これからまったくの別世界に旅立つことになるのだから無理もない。
「君をこちら側へ引き込んでしまったことは、今でも申し訳なく思うよ。孤独に耐えかねたんだ」
「いいんです。誰かが引き継がなくてはならないことですから」
「お盆の時期になったら、ハガキを送るね」
最後に短い抱擁を交わすと、比名子さんの体が光を纏い始めた。いよいよだ。
「あなたを恨まなかった日はありません」
「ありがとう」
血走った目に笑みを浮かべて、やがて比名子さんは消えていった。
お盆の時期になると、玉虫色の柳葉が届く。
『あまり期待していなかったから案外悪くない。少なくとも、コーヒーほどおいしいものはある』
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あたしが目覚めると、そこは死ぬ前と同じ橋の上だった。
先ほどまでの出来事は、あたしが見た幻だったのだろうか?
少し朦朧とする意識のまま足元の水たまりに映った自分の顔を見て考えを改める。
首に残る痛々しい縄の跡、赤黒く変色した醜い顔。
辺りを見回すと、橋の先、街灯の下でポツンと立っている人影があった。
鬱血して全身が紫に染まったおぞましい姿の男だ。飛び出した両目があたしを捉えている。
怒りと憎しみで全身の血が沸騰しそうだった。
あたしは真っ直ぐに駆け出して、立ったまま動かないその男につかみかかった。もう怖さなんて感じない、目の前のこの男を祟り殺してやりたいという気持ちだけがあった。
闇雲にその男の首を締め上げると、あろうことかそいつは溜息をついて目を伏せた。
「気持ちは分かるよ」
「なんですって!」
激昂するあたしを前に、『ハングマン』はやはり落ち着いていた。
そのあまりの毒気のなさに思わず首を絞める手が緩む。
「いろいろ説明したいんだ。とりあえず、コーヒーでも飲みながら話さないか」
周囲に浮かぶ人魂を眺めてから、あたしはただ頷いた。
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