楽屋挨拶

 楽屋まで続く廊下は薄暗く、どこまで続いているのかは分からなかった。

 私の前には少なくとも七、八人が並んでいたが、それもぽつりぽつりとした配置の間接照明だけでは茫洋としていて、正確にはどれほどの人間がAの楽屋へ向かっているのかは知れない。


 Aの公演は、成功と言って差し支えなかった。不条理劇については、私だってベケットや別役実のいくつかは知っているし、造詣が深いわけでもないが、決して素人というわけでもない。Aの取り組みは実に見事だった。


 真新しい劇場の廊下は、これほどの人間がひしめき合っているというのに、まったく気配というものが感じられなかった。

 壁材や床材は不確かだが、吸音性に優れているようで、咳払いの一つも響かない。前に並んでいる男は、もう一つ前に並んでいる人物の影と何かしら話し込んでいるが、それもごく近い私には聞こえなかった。


 ただの連絡通路とは思えないほどに広いこの場所には、観劇後の熱量のようなものはまるで残っていないようだ。Aの舞台と同じような寒々しさだけが残っていて、私は手持ち無沙汰の右手を手すりに掛けることもできず、壁にあてることもできず、ただ左手に持った紙袋を右手に持ちかえた。


 列は長い停滞の後に一人分の前進をすることを繰り返していた。停滞の間隔は不均等で、間髪を入れず進むこともあれば、まるで動かないこともあった。


 どれほどの時間、ここに並んでいただろうか。この暗がりでは、腕時計も役には立たなかった。携帯電話は観劇の前に預けてしまったから、時間を確認する術はなかった。せめて、ここへ並ぶ前に受け取っておくべきだった。


 そのとき、大きな蛇が身じろぎするように列が蠕動した。

 今度の前進は顕著だった。少し早足になるくらいだった。

 列の先頭で何があったのかは分からないが、とにかく、私は急速にAの楽屋に近付いているようである。薄闇の中、大蛇が地面に腹を擦り付けるような音がして、私はいくつもの扉の前を通り過ぎた。楽屋の名札には誰の名前も掲げられてはいなかった。当然だ、今日はAの独演会なのだから。


 列は唐突に止まった。


 途端に音は消え失せた。見渡しても、周りの景色は先ほどと全く変わらなかった。一歩たりとも列は進んでいないように思えた。


「ずいぶん動きましたね」


 思わずそう言ってしまってから、私は自分の声が闇の中に溶けて消えたのを感じて急速に恥ずかしくなった。通りの真ん中で裸になったような気持だった。

 苦し紛れに辺りを見渡しても、茫洋とした間接照明があるだけだった。


 前に向き直ると、一つ前に並んでいた男がこちらを振り返っていた。

 私はぎょっとしたが、向こうはつまらなさそうな顔をしているだけだ。

 やせ型の男で、えんじ色の上下に黒いシャツを着ていた。革靴はこの暗さでも余さず光を反射して輝いている。彫像のように固められた髪が濡れたように鈍く浮き上がっている。

 私はこの男を好きになれそうにはなかった。


「この公演の最大のテーマはなんだと思う?」

 私はすぐには答えなかった。

 すると男は小鼻の片側を微かに引き上げて――つまり、一般的に軽蔑と取れるような動作をしてから声に喜色をにじませながら語り始める。

「素人には一見無秩序に見えるだろうが、あれは明確にアルトーの残酷演劇の理念を現代的に再解釈しているものだね。特に、あの第二幕の咆哮――言語の意味機能を停止させ、観客の身体に直接訴えかける、まさにフーコーの脱構築に通じるものだった。実にフランス生まれの彼らしいよ」

 こちらの理解を測るように数拍の間を置いてから、男は私が口を挟む前にまた話し出す。

「“意味”ではなく“音響”、“言語”ではなく“生理”で語ろうとしているんだよ。近年のヨーロッパ演劇ではよく見る潮流ではあるが、彼はそれを、あえて混濁させた動線と、非演技的な動作で試した。単なるインポートではないんだよね。陳腐化を許さなかったのさ」

 満足したのか、男はぬらぬらとした舌の先を出して自分の唇を舐めた。その両目はまだ私の反応を探るように爛々としている。

「まさに、その通りですね」

 私がそう言い終わる前には、すでに男は鷹揚に頷き始めていた。

「孤高の天才だよ、彼は。この列を見ればわかるように、時代の寵児だ。演劇の歴史の転換点……そこに立ち会えたという自覚がある人間が、ここにどれほどいるかは、まあ、分からないがね」

 列は動かない。

「王への謁見のようだろう。実際、そのようなものだ。彼に屈した人間がここに残っている。それは決して卑屈であることを意味しないがね。賢明な人間が、めいめい、いただくべき冠のありどころを知ったというだけさ」

 そういうと、前に並ぶ男は手にした革の鞄を少し掲げて見せた。

「ここには、新しく立ち上げる有線の局の計画書が入っている。これが、おれの掲げる王冠ということだよ。これまでの、スノッブに向けた、つまり有閑階級向けの演劇チャンネルなんかではない。本物の演劇のために開かれた窓さ。もちろん、舞台演劇をただ放映するためではない。脱構築の先、逃れられない再構築を、既存の枠組みの否定という形で、今こそテレビジョンという媒体に仮託するんだ」

 男は爛々とした目を私の手元の紙袋へ向けた。

「同じようなことを考えているなら、それは諦めた方がいい。なにせ、おれの後に並んでいるんだからな。あんたのそれには何が――」


 その時、またずるずると音を立てて列が動き始めた。

 その音を聞きつけたのか、男は微塵も未練を感じさせない様子で振り返って、そして黙々と列に続いた。私もそれに続く。

 列が止まっても、男が振り返ることはなかった。

 私はまた紙袋を持ちかえた。持ち手の部分が、いつの間にかかいていたらしい手汗で少し湿っていた。


 静寂の中で、私は第二幕の咆哮を思い出していた。耳の奥にそれを再生しようとしても、記憶は模糊としていた。

 ついさっき観たはずの第二幕だが、咆哮ばかりが思い出せなかった。

 それどころか、観劇自体がもう十年も前のことのように思えてならなかった。

 途端に地面が抜けたような気がして、固い椅子で不意に眠ってしまったときのように、私は肩を跳ね上げた。


「列が進んでいますよ」

 後ろから声がして、我に返る。

 えんじ色の背中が少し前を行くのを見てから、私は慌てて足を進めた。

 列はまた随分と速く進んでいた。

 長い列にしびれを切らした人々が、一斉に列を抜けたのだろうか。一人でも逆方向へ戻る人間がいたら、私もこの列を抜けようと思った。

 しかし、少しずつうねりながら長い廊下を進む列とすれ違う人間は一人もいなかった。先の見えない闇に、人の背中がどんどんと吸い込まれていく。


 列が止まって、私は不意に振り返った。

「また随分進みましたね」

 私は彼女を知っていた。

 知り合いということではなく、彼女はよく知られた舞台女優だった。少しばかり、テレビドラマとか映画に出ていたこともあったはずだ。少なくとも、この列に並んでいるような人間なら、彼女のことを知らないはずはない。彼女は、落ち目だった。


「少し疲れていますか?」

 薄闇の中でも分かる、訓練された嫋やかさだった。

「いえ、考え事を……」

 私の困惑を知ってか知らずか、彼女は落ち着いた様子で身体の前で重ねた両手を組み替えた。その手には小さなクラッチバッグを携えている。

「わたしも疲れています」

 彼女は微笑んだ。

「だって、あの素晴らしく情感に溢れた劇でしょう? 今まで、手に汗を握るなんて、昔の人の考えた大げさな慣用句だと思っていたのに、わたし、行儀悪くも膝で手を拭いたんですよ」

 私はまた列が動いていないかが心配になって、半身になって列の進行方向のほうを見遣った。列は進んでいない。前の男は、そのまた前の薄影と話し込んでいるようだった。

「情感に満ちていましたか」

 振り返って、私は首肯と捉えられる程度に訊いた。

「ええ、とても」

 彼女はそれを首肯ととったようだ。まるで、そこに疑念を挟む余地はないというような雰囲気だった。

「春の夜風のような第一幕ですっかり心を掴まれてしまったの。そこで油断していたらあの第二幕だもの。郷愁、別離、肯定……やさしくて、力強くて、あの若さなのに、どうしてあの境地に至れたのかしらね」

「まったくですね」

 私は頷いた。

「彼とは、前に一度共演したことがあったの。彼はまだ見習いのような形でわたしたちの劇団に少しの間在籍していて、そのころから片鱗があったような気がするわ。彼は、そう、プラタナスの葉が好きと言っていたわ。ほら、イギリスの生まれでしょう? 街路樹のプラタナスが、きっと懐かしいのでしょうね」

 そこまで言うと、彼女は少し照れくさそうにして声をひそめた。微かな所作で、彼女はクラッチバッグを掲げた。

「先日ロンドンへ行ったときに、プラタナスの葉を手に入れて、それで栞を作ったの。彼は忙しくなるでしょうから、少しでも孤独がまぎれればいいと思って」

「そうですか」

 彼女は私の手元に視線を向けた。

「そういえば、あなたは何を――」

 そこまで言って、彼女は私の背後を見越すようにした。「列が」。

 私は軽く会釈をして、前へ進み始めた。


 列は止まらなかった。

 私は進む先の闇を見つめたまま、ただ機械的に足を進めていた。しばらくしても列が止まらないので、私は目を閉じた。ざりざりと廊下を進む足音が一つになって、私は自分が大蛇の鱗の一枚になったような気がした。

 目を閉じても闇は闇のままだった。咆哮も、春の夜風も浮かばなかった。


 ぱたりと音が止んで、私は歩みを止めた。

 目を開くと、ちょうどえんじ色の背中が、扉を開けて薄明りの中へ消えていくところだった。

 廊下の行き止まりに、その赤い扉はあった。

 中から鍵の締まる音がして、それきり楽屋前は静まり返っていた。

 私は左手に持っていた紙袋を、右手にそっと持ちかえる。

 赤い扉の銀色のドアノブを見つめて、二時間も観ていたはずの劇の内容を思い出そうと努めた。

 家から駅まで続く長い上り坂の風景がまざまざと思い浮かんで、やはり春の夜風も、そして咆哮もなかった。

 振り返ると、彼女はそのまた後ろの薄影と話し込んでいた。

 私はまた振り返って、赤い扉をじっと見つめて、劇の内容を思い出そうとした。

 右手に持った紙袋を左手に持ちかえる。

 扉はついに開かなかった。

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並ぶ 可笑林 @White-Abalone

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