2

細々とした私物もあらかたゴミ袋に放り込み終わり、いよいよこの部屋に僕の物は数える程になった。


 さして変わらない部屋の様子に、自分の存在など、この生活においてもさしたるものではなかったのだろうという気持ちが沸き起こりかけるが、いや。何を今更。


 そもそも、僕などは誰にとっても何か益や華を与える存在にはなれはしない。そんなことは十二分に理解していた。枷や障りにしかなれない厄介者。だからこその、今である。


「ぼうっとしてないで。ゴミ、もう無いの?」


 鏡台の前で忙しく化粧をしながら、沙耶が吐き捨てるように言った。仕事に出かけるにはまだ相当早い。どこか出かけるのだろうか、と考えかけてやめた。彼女が何処へ行こうと、もう僕には関係の無いことなのだ。


「後でアレを忘れたなんて言ったって、知らないからね。何か残し物を見つけたら、すぐに全部捨てて、燃やしてやるから」


 二年一緒に暮らした女に、返す言葉も無く俯くしかない自分にも、もう嫌気すらささなくなって久しい。彼女の言うことは全てもっともであるし、これまでの彼女の我慢を思えば、ますます申し訳ない気持ちばかりだ。


「…うん。ごめん」


 いつも通りに、短くそう言うのが精一杯だった。


 思えばこの二年、沙耶には掃いて捨てるほどの謝罪はしたが、殆ど一度も、感謝の言葉を述べた事の無い事に思い至る。


 沙耶の短い舌打ち。


 僕は今日、この家を追い出される。


 いや、追い出されるなどと被害者面した言い方は間違いだろう。僕は僕自身の行いによって当然の帰結としてここを出て行かざるを得ない状況に陥ったのだから。これは報いであり、彼女こそが真に被害者と言える。


 ふと、自分の物とは別の大きなゴミ袋が目に入った。燃えないゴミに分類されたその袋の中には、沙耶自身のものであろう化粧品の空き瓶や何かと一緒に、僕のやっていたバンドの、唯一のCDが入っていた。


 僕は黙って、開きっぱなしになっているその袋の口を結んで閉じた。


「鍵、ここに置いておくから」 


 少しの着替えしか詰まっていないボストンバッグがやけに重たい。 


 ギターケースを背負うと、沙耶が目の前に立っていた。何か言うべきかと逡巡するが、最早自分に出来る最善は、一刻も早くここを出て行くことで、僕などが彼女にかけるべき言葉は何も無く、彼女の方から僕にかける言葉も既に無いと言うことに思い至り、早々に出て行こうと歩き出そうとした所、「これ」という沙耶の声に足が止まる。


 彼女はむっつりした顔で、黙って一万円札を何枚か僕に押し付けるように渡した。


「これまで貸したお金も、勝手に使ったお金も、返そうなんて思わなくていいから。端ッから期待なんてしてないし。その代わり、もう二度と、本当に一生私の前に顔を見せないって約束して。お金、ろくに持ってないでしょ? だったらこれ、欲しいよね? 約束してよ。そうしたら、あげる。次、顔見たら多分私、あんたを殺すから」


 ここで彼女を張り倒し、「いい加減にしやがれこのスベタ。お前の股ぐらで稼いだ汚ェ金を、なんで僕がへこへこ受け取らなきゃならねぇんだ」とでも言えたなら、僕もまだ捨てたものではなかったのだろう。


「…約束するよ」


 僕は出来るだけ小さな声でそう言って、金を受け取り財布にしまった。この声が彼女の耳に届かなければ。曖昧に聞こえていれば、また、などと我ながら惨めッたらしく浅ましい打算を込めて。「ありがとう」。


 部屋を出て駅に向かう。


 どぶ川沿いのワンルームを振り返る事も無く、といってそこに格好のいいものなど何も無く、真実あるのはただボロボロの負け犬がすごすごと逃げていく様である。


 ポケットの中の、ハガキを、縋るような気持ちで握り締めた。






 長旅に痛む尻をさすって、駅前の商店街をぶらぶらと歩く。何年経とうと、目に入る限り、町はちっとも変わっていない様子だった。


 四方みな山、山、山の盆地である。歩いている人よりも田畑の方が多い、何も無い田舎町だ。大昔には城があり、城下町だったということで、一応は観光地でもあるようだが、何軒かあった土産物屋はすべて閑古鳥で、およそ成功しているとは言えない様子。


 時刻は既に午後四時を少し過ぎ。夏の日は長いとはいえ、暗くなった町で宿を探し歩き回るのは御免だ。早々と宿を決めるべく、動く事にする。


 駅から少し歩いた八幡神社の側に、観光案内所があった。中に入ると五十がらみの女性が、付けっぱなしになったテレビから僕に目を移した。


「あら、こんにちは。どこかお探し?」


 愛想良く話しかけてくれるが、どこか訝しむ様な風が見え隠れしているように感じた。 着古したTシャツにジーンズ、肩にギター引っさげた僕の格好は、観光客というには少し汚すぎたし、地元の人間ならこんな所に用事など無いだろう。「どこかお探し?」と尋ねた彼女の顔に、不審の色が混じっていても無理からぬ話である。


「しばらくここいらに留まろうと思いまして…、ええと、宿の紹介は、やってますか」


 もごもごそう言いながら帽子を目深にかぶりなおした。思ったより上手く話せるもんだな、と少し驚いた。相手と歳が離れているおかげかもしれない。自分と縁遠い土地であるということも手伝っての事だろう。


「ええ、ええ、やってますよ。あなた運がいいわ。今日はもう誰も来ないだろうと思って早めにシャッターしちゃおうかと思っていた所」


 悪戯っぽく笑って、カウンターの前に腰掛けた。僕も向かいに用意されていた椅子に座る。


「お兄さん、学生さん? 今は夏休みか何かで?」


 いいえ、違います。一緒に住んでいた女に追い出され、途方に暮れていると、近く同窓会があるとの事なのであわよくばそこで金を借り倒してやろうという腹積もりで、はるばるここまで来ました。とは言えないので、曖昧に「ええ、まあ、そんなもんです」と答える。「出来れば、あまりお金のかからない所がいいのですが…」。


 おずおずと希望を口にして、彼女の顔を窺う。呆れられただろうか。「録に金も無いのに宿を紹介してくれなどと図々しい。裏の八幡さんの軒下でも借りなッ」と、悪し様に怒鳴られるのではないか。


 しかし彼女は笑顔のままで、「ええ、ええ、解ってます、学生さんなら。民宿で、いいかしらね」と、目の前のパソコンを操作した。


 紹介された宿は案内所から歩いて二十分程の、大きな公園の側にあった。森林公園と名前のつけられたそこはかなり広大な面積であるらしく、僕が住んでいた頃にこんなものがあったかしら、と首を傾げていると、5年程前に出来たらしい事が入り口の掲示に書いてあるのを見つけた。


 若葉荘というその宿は全部で五部屋程の小さな民宿で、素泊まりなら一日三千円。前払い制であるとの事なので、一先ず三日分と言う事で金を払った。


 部屋に通されると、「御用事あれば仰って下さいね」と愛想無く言って女将は早々と部屋を出て行き、僕は一人になった。


 飯を食いに外に出る気にもなれず、見るつもりの無いテレビをつけようかと思ったら壊れているらしく、ちっともつかない。四畳半の部屋の畳は醤油で煮しめた様な色をしており、申し訳なさそうに掛けられたカーテンもヤニで激しく黄ばんでいる。沙耶と会う前に住んでいた部屋を思い出し、唐突に、ふりだしに戻った様な錯覚。


 喧しい音を立てるエアコンから出てくる風も、嫌な臭いがするので、気晴らしに窓を開けると風が心地いい。外には広い芝生のグラウンドが見えるばかりで、人は一人も居ない。 今更感傷も何もあったものではないが、取り合えずひと心地ついた。煙草に火をつけ暫くぼんやり外を眺めていたが、言い知れぬ気だるさに襲われ、半ばほど残してさっさと揉み消し、布団を敷いて寝転がった。


 じりじりと蝉の鳴き声ばかりがうるさく、他に音のない部屋で天井を見つめているうちにいつのまにか眠りに落ちた。


 


 昼過ぎて、女将のドアを叩く音でようやく目を覚ました。


「アァよかった。来て早々、コレやったのかと思いましたよ。お客さん、そういうんじゃないでしょうね?」


 そう言って首を括るジェスチャー。


 せかせかと布団をあげながら僕を見る女将の目はいかにも胡散臭そうな物を見るような風で、僕は少しむっとして「死ぬだけなら、なにもこんな所まで来なくてもいいでしょう」と煙草に火をつける。


「そうですけれどね、心配なもんですよ。こっちには、観光で?」


 こんなボロ宿今更自殺の一人二人出たところでさしたる問題でもなかろうが、と内心で毒づきながら「同窓会の報せが来たんです」。女将が開けた窓から吹き込んでくる風が気持ちよかった。


「アラ! お客さん、地元?」


「一寸の間、住んでたんです。高校の間だけ」


 そう言うと急に女将の顔が緩み、声から警戒するような色が失せた。こんな時期にふらふらやって来る得体の知れない余所者から、一応の目的と俄ではあるが住民であった事を知って安心したのだろう。現金なものである。仮にも客商売ならどんな相手にも愛想は振りまくのが筋ではないか、とも思ったが、自分の身なりや年齢を考えると、どうやっても胡散臭さは否めないので仕様の無い事だと変に納得した。


「高校ッていうと、崇香? 七鹿?」


「崇香です」


「お兄さん、出来る人なのねェ。大学生?」


 否定して今の自分の事を語ったら、前以上に不審に思われる事は間違いなかったので、ここでもやはりそういう事にしておいた。


 女将は何やら言いたげだったが、そろそろ出かける身支度をするので、と言う事で出て行ってもらった。


 同窓会は六時からと言うことだったが、時計を見るとまだ一時を少し過ぎたところで、こんな町で五時間もどう時間を潰したものかすっかり参ってしまった。


 仕方なくふらふらと公園を散歩していると、親子連れをいくらか見かけて気が滅入ってきた。もうあの時のような妄想に苛まれる事は少なくなったが、それでも油断すれば誰かの嘲笑が聞こえてくる様な気がしていた。水飲み場で残っていた薬をいくらか飲んで、芝生に寝転がった。


 ちっとも柔らかくなく、草はやたらと硬く、おまけに青臭い精液の様な嫌な臭いまでしたが、お構い無しに手足を伸ばした。


 空は快晴で、日曜の午後は極めて穏やか。陽射しが少しきつかったが、ゆったりと全身に浴びる陽光は気持ちが良かった。


 ふと少し離れた場所に洒落た、大きな建物がある事に気が付く。


 立ち上がり、見に行って見ると図書館である。どうも僕の住んでいた頃にあった図書館が、この場所に建物も新たに移転した様である。丁度時間を潰すにはいいと思い、中に入るとクーラーの冷気が心地よく迎えてくれた。


 文学の書架の前で適当な本を見繕っていると、「コウちゃん?」と声をかけられた。


 振り返るとこの図書館の司書らしい格好をした若い女。後ろで一纏めにした長い黒髪が揺れる。一見清楚風な彼女の側らにはこれから補充するのであろう大量の本を積んだワゴンがあった。


「やっぱり。相原耕太くんでしょお? 崇香で一緒だったのに、覚えてないのぉ?」


 嬉しそうに声をあげ、ハッとしたように口元を押さえる。舌ッ足らずな感じの喋り方、どこか聞き覚えがあったが、しかし名前は出てこなかった。


「ええと…」


 突然の事に辟易していると、彼女のつけている名札に目がいった。『川島』と書かれたそれに、ようやくポンコツの記憶力が仕事を始めた。


 彼女は同級生の一人で、確か吹奏楽部の部員だった。僕の所属していた写真部の部室とはすぐ近くだったこともあり、それなりに話をした仲だった。


「あ、川島さんか。二年三年、の途中まで一緒だった?」


「ほのかでいいよぉ、気持ち悪いなぁ。そうだよ。こっち居るって事は、同窓会来るんでしょ?」


「うん。一応、そのつもり」


「私も五時で仕事上がりだからぁ、良かったら一緒に行こうよ」


 願っても無い申し出だった。僕は今日の会場について、イマイチ場所をきちんと把握できていなかったのである。


「じゃあ、この辺で適当に時間つぶしてるから。終わったら声かけてくれよ」


「了解。ここ、二階に喫茶店あるからそこにいなよぉ。年中空いてるから、何時間いたって文句言われないよ」


 そう言ってくすくす笑いながら、「それじゃ」と一言、ワゴンを押して書架の合間に消えてしまった。 


 僕はといえば、久々の、クラスメイトとの再会に、思いのほかすらすらと言葉が出てきた事に驚いていた。先飲んだ薬のお陰か、宿を出がけに引っかけたビールのお陰か。後ろ向きな性根は生来の物としても、僕は僕が思っている以上に、もしかすると回復しているのかもしれない。と気をよくしていた。


 ほのかの言った通り、喫茶店はガラガラで、僕以外に客は一人、コーヒーを前に老紳士がぼんやりと新聞を読んでいるだけだった。


 僕もそれに習い、先ほどの書架から持ち込んだ何冊かの本をテーブルに置いて、コーヒーを注文すると、ぼんやりと文字を追いかけ始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る