立ち往生

Mad Fruits Company

1


 高く上がったフライが落ちていくのをぼんやり眺めている。


 腰掛けた土手は朝の雨の名残でまだ湿っており、ジーンズにじっとりと染みを作っているだろうが、そんなことは気にならない。


 側らに置いたコンビニの袋からビールを一本取り出し、プルタブを開けた。小気味のいい音。良く冷えたビールは口内の切り傷に染みた。


 名前も知らない草野球チームの試合。ゲームの流れなどどうでもよかった。というよりもそもそも、試合を見ているわけではない。この場所で呆けるための、いわば口実。


 生温い夏の風。応援席から飛ぶ野次。金属バットの快音。歓声。


 ポケットからくしゃくしゃになった一枚のハガキを取り出す。実家から転送されてきた、母校の同窓会の案内だった。手元に着た時には行くつもりなど微塵も無く、捨てたつもりになっていたのだが、荷造りの最中に見つけ、それが今や僕の唯一の蜘蛛の糸なのだ。


 日時はすでに二日後に迫っており、返信では間に合わぬので、つい今しがた記載されていた幹事の電話番号に直接かけてみた所、飛び入りでも歓迎だとの事だったのでほっと一安心、胸を撫で下ろしたところなのである。


 着信音。


 ポケットの中で携帯電話が鳴っていた。


 ついこの間まで電源を切ったまま、押入れの隅に放り込んだままにしていた物だ。半年前、解約して放ったらかしにしていたのだが、「もう外に出られるなら連絡がつかないと不便だ」と沙耶が契約してきてくれた。


 メールの差出人はやはり沙耶で、「早く帰ってきて」とだけあった。


 荷造りの途中、足りなくなったゴミ袋を買いに出かけた帰りだったのだ。


 文面だけ見れば恋人の帰りを待ちわびる女の催促に見えるが、このメールの意味は当然そんな良いものではなく、つまりさっさと帰ってきて支度を済ませて出て行け、という意味なのである。


 返信はせずにのろくさと立ち上がる。どうせ家はすぐそこだ。十分もかからない。


 十九の時この街に来て五年。沙耶と暮らし始めたのは二年前。


 僕がいよいよ廃人同然にぶち壊れたのが、半年前。


 本当に突然だった。夕方、いつものように路上ライブに出かけ、何曲か歌った。誰も立ち止まらず、誰も振り返らず。駅前の喧騒の一つとして僕の声はいつも通りに素通りされて、だからそんなことが理由だとは今でも思ってない。もうずっとそうなのだ。日常のひとコマ。僕はそのまままた何曲か歌い、適当な所で切り上げてアパートに帰る。冷蔵庫を開けてビールの一本も取り出し、一気に飲み干してその勢いのまま眠りに落ちる。その日もそうやって終わるはずだったのだ。


 歌の最中、ぱつん、とはじける様に、目の前から色が消えた。音も消えた。何が起こったのかを考える暇は無かった。恐怖。漠とした恐怖がしかし猛烈に僕を襲った。 


 唐突に世界に音が戻る。


 目の前を通り過ぎていく女子高生の笑い声が、今の自分への嘲笑に聞こえた。電話しながら歩くサラリーマンの目は、何よりも汚い物を見る侮蔑に満ちているように見えた。ベビーカーを押す母親の姿。学校のチャイム。混線した電話の様に色々な音が脳に直接飛び込んで来る様だった。場所も何も関係なく、現実に聞こえている音なのかも曖昧だ。


 話し声。きっと僕の事を悪く言っているのだ。ビルの合間から見える夕日が怖い。電線にとまるカラスの鳴き声は、早く死ね、早く、早くと急かす呪詛で。目に映る全てが僕を嘲笑い、罵り、憎悪している。電柱の影に誰かが隠れていて、ずっとこっちを見ている。殺される。どこかでくすくす笑い。悲鳴。


 急速に膨れ上がった恐々とした空想は、僕の心を瞬く間に蝕み、気が付けばその場で失禁していた。そのままそこに蹲り、がたがた震えながら耳を塞いで目を閉じた。


 そのままそうしていると、今度は全部が虚しくなってきて、そのまま動けなくなった。


 何もしたく無い。誰の声も聞きたくない。聞こえないはずの雑踏がうるさい。何もかもが面倒だ。息もしていたく無い。このままここで、野垂れ死んでしまいたい。漏らした小便に濡れた股間が気持ち悪い。嫌な臭いまでしてきやがる。


 行き過ぎる人の幾人かは、尋常ではない僕の様子に声をかけてくれた様だが、しっかりと塞いだ耳には何も届かず、結局警察に引きずられる様にして連れて行かれるまで、僕はずっとそうしていた。


 どういう風に連絡がついたのかは解らないが、明け方になって沙耶が僕を迎えに来た。


 その間ずっと警察所の椅子の上で目を閉じ膝を抱えていた僕は、彼女の目の前に現れた事に気が付かなかった。


 ただ強烈に頬を張られた痛みに、ぐずぐず目を開けると、沙耶に抱きしめられていた。


 仕事明けのままここに来てくれたのだろう。いつものきつい香水と、酒と煙草の臭いがした。


 朝焼けの街を沙耶に手を引かれて歩き、アパートに帰ってからも、彼女は何も聞かなかった。黙ってインスタントのラーメンを二人分作り、一つを僕の前に置いた。


 手を着ける気力は当然無く。僕は、ただ目の前に置かれた器を見つめていた。


 彼女は一人でそれを食べ終えると、寝支度をさっさと済ませて一人でベッドに入った。


「お昼過ぎたら起きるから、病院行こうね」


 短くそれだけ言うと、明るくなった外の光を、カーテンで遮断した。


 僕はそのまま、薄暗い部屋で眠っていたのか、それとも起きていたのか、ただぼんやりと時間の経過を感じていたと思う。


 既に頭の中には何も無く、巨大な空っぽだけがでん、とその中心に居座っているのを感じた。




 沙耶とはバンドを結成して三度目のライブで知り合った。出順が終わり、他のバンドを見る気にもなれず、バーカウンターでビールを飲んでいると派手な女が馴れ馴れしく声をかけてきた。それが沙耶だった。


 短く切った髪は明るい金色で、ライブハウスの騒音の中、怒鳴るように話さなければ何を言っているのか解らない場所で、それでも彼女の声はよく通った。声に凛とした張りがあるのだろう。自分の様にもごもごと話す人間にとっては酷く羨ましい声質だった。


 彼女の手にある火の付いた煙草の煙に混じって、甘ったるい香水の匂いがぷん、と鼻をくすぐった。濃い化粧で作られた様な顔はお世辞にも美人とは言えなかったが、仕草の端々に愛嬌のある少女らしさが垣間見え、それがなんとも可愛らしい女だった。何より、小柄に似合わず男好きのする、いい身体をしていたのだ。


 他人の好意に慣れていない僕は、彼女の言葉一つ一つにいちいち動揺し、曖昧に相槌を返し、気が付くと彼女の部屋で朝を迎えていた。自分の隣に全裸で眠る彼女を見て、寝ぼけた頭で考えた事は「うまく転がり込めるかもしれない」だった。


 その頃の僕はといえば、恋だ愛だに没頭出来るのは、確たる物が自分の中に無いから他人に求め、つまりきちんとした自己を形成出来ていないからそんな愚かな事にのめりこむ事が出来るのだと考えていた。


 一夜明けて彼女と軽薄な言葉を交わす自分に反吐が出そうになりながらも、ただそれだけの事で彼女に好意を持ち始めている自分がますます嫌いになった。


 その日から僕は沙耶のアパートに居候していたのだ。ワンルームに二人暮らしは少々窮屈で、けれど互いの呼吸を感ぜられる程度の、初めての他人との距離に、僕は不思議と安心を感じていた。


 曖昧なままの僕達の生活の中で、沙耶に愛されていたかどうかは解らない。ただ彼女は僕の音楽が好きだと言った。僕は愛されてはいなかったかもしれないが、確かに、許容されてはいたのだ。


 彼女は家からそう遠くないガールズバーで働いていた。日が暮れると仕事に出かけ、夜遅く、明け方近くに帰ってきた。僕は彼女の部屋からバイトに行き、ライブに行き、彼女の部屋で眠った。時々二人で昼間からビールを飲んで、泥酔の中で一日中性交した。沙耶が部屋で育てていた胡散臭いハーブを吸い、気分が悪くなり一晩中二人してトイレで吐きまくった。彼女はよく笑ったし、僕もそれに釣られる様に、笑う数が増えた。


 生活費は概ね彼女に頼っていた僕は、好きな様に金を使い、暮らした。


 ヒモだとか屑だとか言われる事も、どうでも良かった。恥じらい等は生まれてこの方の長い付き合いだったし、誰かに何か言われていちいち落ち込む程、僕は自分が好きではなかった。


 沙耶はそれについて特に咎める事もしなかったし、「申し訳ないと思うなら、私のためにもっと音楽をやって」などと言ってまた笑う。


 それに応えようとしたわけでもないが、だから僕もこれまで以上に音楽に打ち込んだ。ライブも沢山やった。嫌いだった路上でもやる事が多くなった。動員も少しずつではあるが増えていった。半年経ち、一年経ち、また半年。


 そんな矢先の事だったのだ。


 


 宣言どおり昼過ぎに起きた沙耶に半ば引きずられる形で、僕は病院に連れて行かれ診察を受けた。勿論部屋から出るまいとじたばた抵抗したが、何発か引っ叩かれ、目元までニット帽を深々と被らされ、ずるずると引っ張り出されたのだ。


 部屋に戻ると処方された色とりどりの薬を眺め、いくつかを飲み込んだ。


 劇的に何が変わるわけでもなかったが、ようやく訪れた眠気に身を任せ、そのまま泥のように眠り続けた。


 そこからの僕の生活は、二週間に一度沙耶に連れられて病院に行き薬を貰う。それ以外は部屋に篭り、誰にも会わず、沙耶以外には誰とも話さず。当然アルバイト先のビデオ屋にも一切行かなくなり、けたたましく鳴り続ける携帯電話が煩わしくなり電源を切って押入れに放り込んだ。


 起き上がる事も出来ない無気力に、一日中天井を眺めて過ごした事もあった。朝からしこたま酒を飲み泥酔し、便所に駆け込んで反吐をぶちまけ、空っぽになった胃にまたアルコールを流し込む。一瞬正気に戻れば激しい自己嫌悪に任せ、インターネットの掲示板に死にたい死にたいと書き込んでは、阿呆の様に涙を流し、かと思えば次の瞬間には十代のあどけない少女の痴態に情欲を燃やし、ただひたすら自慰に耽っている。


 そんな僕の生活に、沙耶は呆れた顔はするものの、やめろとは言わず。「今は、まぁ仕方ないよね」と言って苦笑するばかり。それに気をよくした僕は、ますます怠惰の極みに落ちていった。


 時々彼女はアルバイト雑誌を持ってきて、こっそり部屋に置いておくのだが、僕がそれに目を向けることは一度たりとも無かった。


「ね、見て。倉庫整理だったら、簡単な作業だけで人と話すことも少ないらしいよ」


 などと冗談めかして見せてくるのには閉口したが、その度に「いや、そういった仕事は大体が派遣元から一人責任者が出て、朝夕に召集して何やかやと相談するに決まってるんだ。今の僕じゃあ、混乱させてしまうだけだよ」なぞ曖昧にごまかして逃げ続けてきた。


 捨てられる事無く次第に高く積まれていく様々なアルバイト雑誌を見て、僕はもっと早く気付くべきだったのかもしれない。


 音楽などは当然どうでも良く、バンドのメンバーとも一切連絡を取り合っていなかった。沙耶の財布から金を抜き取り、その日の酒と煙草を買う。有り余った時間を黙々とテレビゲームのレベル上げに費やす。


 しかしそうしたデカダンの日々もついに先日終わりを告げたのだ。


 事の起こりから半年が経ち、おっかなびっくりではあるがそこそこに一人で外にも出られる様になっていた僕が、いつも通り早朝からコンビニへ大量の酒を買いに行き、急な土砂降りの雨に閉口しながら部屋に戻ると仕事から戻ったばかりであろう沙耶が、ずぶ濡れのまま部屋の真ん中にぼうと立っていた。


「…何やってんの?」


 明らかに怒気を孕んだ彼女の声に僕は何も言えず玄関に立ち尽くしてしまった。


「コウ、もう外出られるじゃん。いい加減ライブしなよ。新しい曲作ってよ。聴きたい」


「いや…、外といってもまだあまり、それにライブなんて…無理だよ。まだ怖い」


「しろよ! 愚痴愚痴と言い訳ばっかりしやがって、いい加減にしやがれごく潰し! もう沢山! あんた今日まで一度でも自分からまともになろうと頑張った? ずっと見てたよ。仕方ないなって、かなりの部分で、許してきたよ? でも間違いだった。口先ばかりで死にたい死にたい言いやがって、そら死ねよ! 部屋好きに使っていいから、見ててあげるから死ねよ! 歌わないならお前に価値なんて何にもないんだよ屑!」


 悲鳴の様な声で怒鳴り散らし、部屋の隅に立てかけてあった僕のフォークギターを引っ掴み、沙耶は僕の横っ面を思い切り殴りつけた。


 中が空洞とはいえそんなもので殴られては、不摂生と引き篭もりでひょろひょろの僕の体はひとたまりも無かった。もんどりうってすっ飛び、壁に頭を強かに打ちつけた。


「馬鹿にしやがって! 馬鹿にしやがってきちがい野郎!」


 激情のままに目茶苦茶に僕を殴りつける沙耶を、必死で頭を守りながら呆然と見つめる事しか出来なかった。部屋には、僕を一度打つたびに激しく鳴る、ギターの弦のたてるビンビョンという奇妙な音が絶え間なく響いた。


 山積みのアルバイト雑誌が音を立てて崩れるのが見えた。


 瞬間。ああ、あれは沙耶の我慢の徴だったのだ。いつまでも捨て無かったのは、僕にそれを教えるためだったに違いない。


 きちがい! きちがい! と喚きながら僕を殴る沙耶に、深く同情した。


 僕は何をしているんだろう。好きでもない商売女に散々に罵倒され、どころか今にも殺されんばかりに殴られ、無抵抗にただ身を任せている。傍から見れば本当にきちがい染みた光景だろう。


 沙耶の手が急に止まり、自分が薄笑いを浮かべている事に気付いた。


 沙耶はギターを放り出し、「出て行って」と吐き捨てるように呟いて、風呂場に消えた。


 力なく窓の外を見ると、雨はあがった様だった。

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