第6話 『雨の日の約束』

雨音が静かに街を包み込む夜。道を行き交う人々は皆、傘の下で息をひそめるように歩いていた。


交差点の手前で立ち止まった僕の視線が、ふと向かい側に吸い寄せられた。


そこに彼女がいた。


暗い空に紛れるような黒いコート姿。


信号の明かりがそのシルエットを静かに照らしている。あの日の彼女と同じ佇まいだった。


——いや、もう「彼女」ではない。


あの日の少女は、目の前の女性へと姿を変えていた。


心がざわめく。


懐かしさが胸を満たすと同時に、記憶の扉が音もなく開いていく。


あの日も、雨だった。


学校の帰り道。


制服姿の少女が、傘もささず、雨の中で空を見上げていた。


周囲の喧騒が遠のき、世界が彼女を中心に静止したかのようだった。


「傘、ないの?」


不意に声が出た。彼女は振り向くことなく答える。


「うん」


「濡れるよ?」


「……でも、雨の音が好きだから」


その答えは、彼女がどこか違う世界にいることを示していた。


僕はポケットに手を入れる。


そこには、母が持たせてくれた小さな折りたたみ傘があった。


いつもなら煩わしく感じていたそれが、この時だけは違った。


「これ、貸すよ」


彼女は振り向き、初めて僕を見た。


雨粒の中でその瞳は不思議な輝きを放っていた。


「え?」


「また、雨が降ったら会おう」


半ば照れ隠しのように、言葉を早口で紡ぎながら傘を手渡す。


その瞬間、彼女の指が僕の手に触れる。その微かな温もりを、僕はずっと覚えている。


それから何度も雨が降った。


しかし、彼女に再び会うことはなかった。


どこかで暮らしているのだろう、そう思うしかなかった。


けれど今、目の前に彼女がいる。


信号が青に変わる。


僕はそっと傘を閉じ、彼女の元へと歩き出した。


「……覚えてる?」


声をかけると、彼女は驚いたようにこちらを見た。


そして、ふっと微笑む。


「うん。ちゃんと、持ってるよ」


彼女の手の中には、あの時渡した傘があった。


雨に濡れることなく、きれいなままの姿で。


「また、雨が降ったら——会おうって言ったもんね」


その言葉に僕の胸の奥がじんわりと熱くなる。


記憶が雨音とともに鮮明に蘇る。


空から雨は静かに降り続いていた。


まるで、止めることなく、あの日からの続きを見せてくれるかのように。

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