第3話 『駅のベンチに座るひと』

深夜の駅は、終電が発車したあとの静寂に包まれ、その空気には独特の落ち着きが漂っている。


ホームに立てば、時間が止まったような感覚に囚われる。


人影はほとんど消え、改札の向こうにはわずかな清掃員の姿が見えるだけ。


駅員が静かに業務を終える音が、遠くから響いてくる。


それなのに、僕はなぜかよくこの時間帯のホームに足を運ぶ。


理由はない。


ただ、この場所が僕を引き寄せる。


ここに座ると、どこか心が穏やかになるような気がして。


あの老人を初めて見かけたのも、そんな夜だった。


彼は駅のベンチの端に腰掛け、深く線路を見つめていた。


ぼんやりとした姿勢は、何かを待っているようにも見えたが、それ以上にそこに「佇む」こと自体が目的のように感じられた。


毎晩、同じ場所で、同じような姿勢。


気になりながらも、僕は声をかける勇気がなかった。


しかしある夜、とうとう彼に話しかけてしまった。


「……こんな時間に、毎晩ここにいるんですね?」


彼はゆっくりと顔をこちらに向けた。


その表情は穏やかで、目の奥に長い時間を刻んできたような深さが宿っている。


そして静かに笑みを浮かべ、こう答えた。


「君こそ、何をしにここへ?」


その問いに少し戸惑いながらも、僕は正直に答えた。


「さあ……ただ、なんとなく。」


「同じだよ。私も“なんとなく”ここに座っている。」


それきり、言葉は止まり、また静寂が戻った。


だが、それが居心地の悪いものではないのが不思議だった。


その夜を境に、僕たちは少しずつ言葉を交わすようになった。


老人との会話はいつも予想外だった。


彼は時に昔の思い出を語り、またある時には未来の話をすることもあった。


「この駅はいずれ無人になる。改札もすべて自動化され、人の姿はますます消えていくだろう。」


彼の言葉はまるで未来を見てきたかのようだった。


「そんなことが、どうしてわかるんですか?」


「わかるとも。なにしろ、私はこの未来から来たんだからな。」


冗談めかして言う彼の笑顔に、僕は思わず笑みを返した。だがその言葉にはどこか、不思議な確信が含まれているように感じられた。


それから、彼は時折未来のことを語るようになった。


街がどう変わるのか、新しい建物が立つ場所、消えゆく店。


それらを淡々と話す姿は、まるで見聞きした出来事を報告するかのようだった。


そして、驚くことに僕自身のことも語り始めた。


「君は、もうすぐ大きな決断をすることになるだろう。迷いながらも、進むべき道を選ぶ日が近い。」


まるで心の中を見透かされたような感覚に、息を飲んだ。


「どうして……そんなことが?」


「未来は風のようなものだよ。目を凝らして遠くを見渡せば、少しは感じ取れるものさ。」


その夜、彼はいつもより長い時間ベンチに座り続けていた。


彼の言葉が耳に残り、僕は自分が何かを見落としているような気がしてならなかった。


そして翌日、彼の姿は忽然と消えていた。


まるで最初からそこにはいなかったかのように、彼が座っていた場所にはただ静けさが残るだけだった。


それでも、僕は終電後の駅に通い続けている。


彼がもう一度現れるような気がしてならないのだ。


どこか未来の地点で、再び交わる日が来るのではないか。


その期待だけが、僕をこのホームに引き寄せる。


老人が語った「風のような未来」に、僕自身の足跡を刻むために。

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