第2話 『コーヒーと君の話』
深夜のカフェには、時計の針が少し遅れるような、不思議な時間が流れている。
静寂の中、カップが置かれる微かな音や、コーヒー豆が挽かれる香ばしい香りが漂い、人々の思考を包み込むような空間だった。
ここに集まるのは、どこか心に隙間を感じながらも、それをそっと抱えたい人たち。
僕もその一人で、夜更けのこの場所に、何度となく引き寄せられてきた。
理由は特にない。
眠れない夜があったり、頭を整理したい時があったり、ただ温かいコーヒーが欲しい時もある。
でもいつだって、このカフェの柔らかな灯りと、店主の控えめな微笑みに、僕は心を救われていた。
彼女が現れたのは、ちょうど一ヶ月前のことだ。
夜が深まるとともに、決まってカフェの扉が静かに開いた。
彼女はいつも同じふわりとしたスカーフを巻き、軽やかにカウンター席へと歩んでくる。
そして穏やかな声で
「カフェオレをください」
と注文するその姿が、次第に日常の一部になった。
最初に声をかけたのは、僕らの席が偶然隣り合った夜だった。
「眠れないの?」
と、思わず言葉がこぼれた。
彼女は一瞬驚いたようにこちらを見つめ、その瞳にはほんの少しの戸惑いが浮かんだ。
しかし間を置いてから、小さな微笑みがこぼれる。
「うん。夜のほうがね、考え事が捗るの」
その一言を皮切りに、僕らは少しずつ言葉を交わすようになった。
彼女はよく、本を読んでいた。
その細い指先が時折ページをめくるのを見るのが、なんとなく心地よかった。
そして、時にはノートに何かを書き込んでいた。
「何を書いてるの?」
と、ある夜、思い切って聞いてみた。
彼女は手を止めて、小さく肩をすくめる。
「ただの思いつきよ。物語の断片とか、その日あったこととか」
その答えに僕はそれ以上踏み込まず、ノートの中身を覗こうともしなかった。
それがきっと彼女の、誰にも触れさせたくない大切な空間なのだと感じたからだ。
「君は?」
と逆に尋ねられた時、僕は少し困ったように笑った。
「僕は……何も考えずにコーヒーを飲んでるだけかな」
彼女は「それも、悪くないね」と、少しおどけたように微笑んだ。
その笑顔に、胸の奥が温かくなるのを感じた。
こうした何気ない会話が続き、時間は静かに流れていった。
そして一ヶ月が過ぎた夜。
カフェが一層静寂に包まれた時間帯、彼女はいつもの席でカフェオレを飲みながら、ふと呟いた。
「ここに来るとね、少しだけ安心するの。特に何かがあるわけじゃないけど、こうして誰かと何でもない会話をしていると、少しだけ救われた気持ちになるの」
その言葉に、僕は微かに驚きながらも頷いた。
「僕も、同じだよ」
彼女はその答えに一瞬驚いた表情を見せ、それから目を細めて小さな笑みを浮かべた。
「じゃあ……また、同じ時間に」
「うん。また、同じ時間に」
その時、店内の壁にかかる時計は、深夜二時を指していた。針の音だけが、深夜の空気を静かに刻んでいる。
不思議と穏やかな気持ちでカフェを後にするたびに、僕はこの小さな瞬間が、実はとても大きな意味を持っているのだと感じずにはいられなかった。
彼女の言葉とその笑顔が、この場所をさらに特別なものに変えていたのかもしれない。
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