第一章 息潜の日々
第1話:いつもの日々、いつもの夜
カチャリ。
玄関のドアが開く音がした。
時計の針は午後十一時四十分を指している。
いつもより、少し遅い。
台所の電球が、わずかにチカチカと瞬いていた。蛍光灯が寿命なのかもしれない。でも、そんなことは言えない。「無駄な金使うな」と怒られるのがわかっているから。
コツ、コツ、コツ。と、聞こえてくる足音。
わたしは目を閉じて、心の中で数を数えた。
——三歩、四歩、五歩。
間が空く。今日は——また、悪い日だ。
叔父さんの足音には、機嫌がいいときと悪いときの違いがある。機嫌がいいときは、すぐに靴を脱いで、そのままくたびれたソファに倒れ込む。でも、機嫌が悪いと、こうして玄関で立ち止まる。
靴を脱ぐ音がしない。玄関に、重い沈黙が落ちた。わたしはソファの端に座ったまま、静かに息を潜める。変に動けば、それだけで気に障ってしまう。
やがて、叔父さんがリビングに入ってくる。不機嫌な叔父さんと目が合ってしまう。
「……チッ」
舌打ち。嫌な夜の始まり。
「おい、ガキ」
「……はい」
短く呼ぶ叔父さんに、できるだけ小さく、でも聞こえるように答える。部屋の照明は暗めにしてある。明るいと、「眩しいんだよ」と怒られるから。でも、暗すぎると「陰気くせぇ」と言われる。そんなに細かい調整ができないのに、気分でそんなことを言われてしまう。
「なんだ、この部屋」
わたしは、一瞬で部屋の様子を確認する。もう癖になっている。見渡してはみたけど……特に、散らかっていない。テーブルの上もきれい。床にも何も落ちていない。でも、叔父さんの機嫌が悪い日は、理由なんて関係ない。
「ごめんなさい」
すぐに謝る。謝るタイミングは間違えない。じゃないと、「遅ぇんだよ」と怒られるから。けど、わたしの言葉を無視して、叔父さんはテーブルの上に缶ビールを置く。プシュッと開ける音がする。飲みながら、じっとわたしを見ている。目線が合ってしまう。
「……何、睨んでんだ?」
わたしは、慌てて目を伏せた。だって、そんなことしてない。睨んでなんかない。でも、「言い訳するな」と言われるから、何も言わない。
「チッ……生意気なガキが」
ビールを一口飲んで、叔父さんはソファにどさっと座る。ここで下手に動くと、「何コソコソしてんだ」と言われる。だから、じっと待つ。ただ、じっと。
「飯」
「……はい」
短い命令。もちろん、わたしに準備しろという言葉。立ち上がり、台所に行く。外から、夜の風の音が聞こえた。
時計の針は、午前零時二十分を指している。出された食事は、全部食べられるようになった。じゃないと、「贅沢なガキだな」って怒られるから。
お腹が空いても我慢できるようになった。じゃないと、勝手に食べると余計に怒られるから。だから、叔父さんの分を用意して、自分の分も少しだけ取る。
「……おい」
じっとこっちを見る叔父さんに、わたしの手が止まってしまう。自分の分を取りすぎた……?
「それ、全部食うのか?」
「……はい」
「チッ……育ち盛りだからな」
それで終わり。何か言い返せば、「口答えすんな」と言われる。だから、食べる。箸を動かしながら、わたしは少しずつ息を整える。大丈夫。今日は、このまま静かに終わる。
……大丈夫、きっと。
「おい」
何かに気づいたらしい叔父さんが、箸を止める。
「酒、ねぇぞ」
「……買いに行きます」
「早くしろ」
財布を取り出した叔父さんが、中から一枚のお札を投げつけてきた。千円札。四つ折りにされ、床に落ちたお札を、すぐに拾い上げる。立ち上がるときも、音を立てないように、慎重に。
自分の部屋から、わたしの財布を持ち出し、無くさないようにする。もし無くしたら、とんでもなく怒るから。お金の事には、すごくうるさい。だから、大事に財布にしまう。
——ドアは、ゆっくり閉められるようになった。じゃないと、「ガキのくせにうるせぇんだよ」って怒鳴られるから。だから、そうする。いつも、そうしてる。
* * *
冷たい夜の空気。コンビニまでの道は、人通りが少ない。街灯が照らす地面には、夜露が反射して光っていた。
わたしは、コンビニの前で少し立ち止まる。隣の家の明かりが点いているか確認するために。だって、本当に助けてほしいときに、誰もいないかもしれないから。
——今日も、真っ暗だった。
自動ドアがゆっくりと開く。店内は明るくて、ほんのり暖かい。雑誌を立ち読みしている大学生。スマホをいじる会社員。ふと、奥のイートインから、二人の声が聞こえてきた。
「……なぁ、知ってるか? この辺でさ、急に“消える人”がいるって話」
「は? なにそれ、都市伝説?」
「まあね。不思議なのがさ、誰が消えたのか覚えてる人がいないってこと」
「……意味わからん。覚えてないのになんで”消えた”なんて話になるのさ」
「知らねぇよ。なんか記憶がすっぽり抜けたみたいな話らしくてさ」
「ふぅん……んで、警察とかは動いてんの?」
「動くわけないじゃん。手掛かりないんだから。バカバカしいとか思われてるんじゃねぇの?」
「確かに」
深夜のちょっとした与太話。意味のないくだらない話をできることが、まるで別の世界みたいで少し羨ましくなる。そんな、知らない世界の人たちを横目に、叔父さんのお使いをこなすため、ゆっくりと目的のものを探して歩き続ける。
見つけたビールをカゴに入れ、レジに持っていく。店員さんが、一瞬わたしを見た。年齢制限の商品を伝えるアナウンスが響く。でも、何も言わない、無言のやり取り。その間に他の客が出ていき、自動ドアが、カシャンと静かに閉まる音がした。
「袋いりますか?」
「いりません」
財布はポケットにいれて、ビールを受け取り、コンビニを出る。瞼が緩やかに落ちかけて、冷えたビールを額にあてた。なんとか眠気を押し殺して、さらに寒くなっていた外を再び歩き始める。そして、たどり着いてしまった家の前で、一度だけ深呼吸。
「ただいま戻りました」
「チッ、遅ぇよ」
叔父さんの前にビールを置くと、奪い取るかのように、勢いよく手に取る。でも、それ以上は何も言われなかった。
時計は、午前一時三分。わたしは、またソファの端に座る。叔父さんの手が届かない場所。ちょっとした安全地帯。でも、もうすぐ、ようやく今日が終わる。わたしは、今日も、ちゃんと静かにできた。
これが、息を潜める日々の夜。いつもの日々。
辛いと思うのは、やめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます