現幻の境界に手を染めて
夢真
プロローグ:喪失
雨の音が響く夜、俺は家の中を走り回っていた。自分の家なのに、自分の家とは思えない。全てが異様に大きく、異様に広く見える。廊下を駆け抜けても、目的地にたどり着けないような錯覚に陥る。
だが、錯覚なんかじゃない。認めたくないが、現実だ。
思わず逃げ出したが、気がつけば行き止まり。壁に手をついた瞬間、足がもつれて、膝から崩れ落ちる。焦りすぎて、まともに動けない。胸の奥が痛いほど脈打ち、呼吸が苦しい。
(ちくしょう……どこに逃げれば……!)
背後を振り返る。暗がりの中、扉の向こうから足音が近づいてくる。
――ドン。
低い振動が床を伝ってくる。
反射的に顔を上げた。遠くの巨大な足音が響く。
――ドン……ドンッ……。
ゆっくりと、ゆっくりと、影が伸びる。そして、その影の主が、俺の前にやって来た。見上げるほどの影。その存在に、背筋が凍りついていく。
「お・じ・さん♡」
真澄、俺の兄のガキ。自分より二回りも小さかったはずのガキ。それがいまや、二回りも大きくなっている。……いや、違う。自分が、異常に小さくなっている。この小学生のガキに、小さく……させられた。
圧倒的な差。見上げなければ顔すら見えないほどの、絶望的な距離。それなのに、少女は遥か上からこちらを覗き込み、にこりと微笑んでいた。
「追いつかれちゃったね。ふふ……」
甘く囁くような声が、耳に突き刺さる。爪先が床を擦る音。ゆっくりと響く音が、いやに大きく感じる。何かを楽しむような、ゆっくりとした足運び。その動きに釘付けになる。目を逸らせない。
背筋に、ぞわりと冷たいものが走る。普段からコイツが着ているワンピースの影が、ゆらりと揺れる。
「いいの? 逃げなくて。それとも、追いかけっこはもうおしまい?……クク」
真澄は、冗談めかした口調で言いながら、いつものように笑顔を振りまいている。無邪気の中に、狂気を含ませながら。
スッ……
右足が、ぴくりと動く。ゆっくり、静かに、持ち上がっていく。それだけの動作のはずなのに、体の震えが強くなっていく。巨大な足裏が、俺の上に……視界いっぱいに広がる。
「ひっ……!」
「あはっ、かわいい~!」
思わずこぼれる悲鳴を聞いた少女は、満足そうに。ただ無邪気に、満足そうに笑った。ケラケラと軽やかに笑いながら、ゆらりと足を揺らす。それはまるで、獲物をいたぶる猫のようだった。
「そんなに怖がらなくてもいいじゃん。足、上げただけだよ?」
馬鹿な……このガキ、教団の中でどれだけ力をつけてやがったんだ……クソッ、あんな呪文、イカサマだろ……
頭が混乱し、考えがまとまらない。逃げるべきだ、動け。だが、どこに行けばいい。家具の影、そんなものはない。扉の外なんてもっと無理だ。この空間は、すべてこの少女の支配下にある。
「また踏みつけてあげようか?」
真澄が、いたずらっぽく首を傾げる。それは、今日の晩飯のメニューでも聞くかのような、あまりにも軽い口調。
「さっきはあんまり体重かけてなかったし……今度はどうしようかなぁ?」
軽やかな声とは裏腹に、その言葉は冷たい刃のように耳に突き刺さる。踏みつけられたときの感覚が、鮮明に蘇る。
さっきは……さっきはまだ、力を抜かれていた?
全く動けなかった。それなのに?
なら、もし、本気で踏みつけられたら……
ふっと、身体中の血液が止まる感覚がした。足が……手が……自分の体の一部が、負荷に耐えられず、ぐしゃりと……骨も皮も内臓も、全部ひとまとめに押し潰されて死んでいく悲惨な情景。
――怖い
いや……! そんなはずはない……!
相手はただのガキだ、ガキなんだ……ッ!
「く、クソっ……! ふざけんなッ!!」
ふり絞って出たのは怒鳴り声。だが、恐怖で震えている。声だけじゃない、脚まで震えている。そんな姿を見つめる真澄の瞳が、楽しげに細められた。
「ねぇ、叔父さん?」
甘えたような声色。しかし、その目には微塵の優しさもない。
「やってみても、いい?」
その言葉だけで、心臓がきしみついた。
「だめかなぁ?……もしやったら……どうなっちゃうかなぁ?……ふふ、うふっ……」
生命の境界が、ジリジリと近づいていく。雨の音が……なぜか遠くに聞こえた。
もし、あの時……この化物を引き取っていなかったら……
——————————
——4年前 葬儀場
「……真澄、ここだよ」
お姉ちゃんに手を引かれて、ひとつの部屋へ。静かだった。線香のにおいが鼻を刺している。黒い服の人たちが並んで座っている。誰も話さない。ただ、時々鼻をすすったり、ハンカチで顔を押さえたりしていた。
わたしも、その中にいた。目の前には、棺。お母さんと、お父さんがいるはずの場所。だけど、誰も彼らの名前を呼ばない。誰も「目を覚まして」と言わない。だから、わたしが言うしかなかった。
「……おかーさん?」
声を出した瞬間、周囲の空気がわずかに揺れた。
「おとーさん?」
誰かがこちらを見た。でも、すぐに目を逸らした。誰も、答えない。顔を見たくて棺の方へ歩き出す。そこにいるはずの二人に、手を伸ばそうとして……急に、お姉ちゃんに腕をつかまれた。
「行っちゃダメだよ」
「なんで?」
ぎゅっとつかまれた手を振りほどこうとする。けど、離してくれない。何を考えているのかわからない、ぼんやりとした表情のお姉ちゃん。だけど今日は、いつも以上に考えてることがわからない。
「なんでダメなの?」
少しだけ、声が強くなる。でも、お姉ちゃんも、周りの大人たちはまた黙った。目を伏せて、苦しそうに顔をしかめるだけ。
「ねぇ、おかーさん、起きてよ……ねぇ!」
必死に呼びかける。もっと声を出せば、もっと近づけば、ちゃんと聞こえるはずなのに。そのとき、誰かの腕がわたしを包んだ。ふわっとした温かい感触。でも、それはお母さんのものじゃなかった。わたしを抱きしめながら、その人はすすり泣いている。
「違う……おかーさん、起きるよ……ね?」
胸が、少しずつ冷えていく。
「なんでみんな泣いてるの?」
涙は出なかった。わたしが泣いたら、本当に何かが終わってしまう気がして、泣けなかった。
「変だよ、おとーさんも、おかーさんもいるのに……!」
でも、誰もわたしの言葉を聞こうとしない。その背後で、大人たちがひそひそと話し始める。わたしに、聞こえないように。でも、周りが静かすぎて、どうしても耳に入ってしまう。
「黒崎さんのとこの娘さんでしょ?」
「そうよ……真澄ちゃんも、真琴ちゃんも、まだ小さいのに……」
「姉妹一緒に育てるのが一番いいんじゃない?」
「でも、うちももう手いっぱいで……二人は無理よ。」
「私も仕事があって……子供を育てられる環境じゃないし……」
わたしは、そんな会話を、じっと聞いていた。
「……?」
——何を話しているんだろう。誰かが名前を呼んだ気がしたけど、それよりも、その言葉の意味がわからなかった。「育てる」って、何?「二人は無理」って、どういうこと?
蝕んでくる不安で、小さく服の裾を握る。でも、お姉ちゃんがいる。すぐ隣に。顔を覗き込みながら、その袖をつかんだ。すこしでも、安心したくて。
「……お姉ちゃん……」
「大丈夫だよ」
お姉ちゃんが、そっと手を握り返してくれたけど、その声は震えていた。
* * *
「あぁ? 俺がガキの世話? 無理無理、絶対無理」
静かだった場所が、少し騒がしくなってきた。知らない男の騒ぐような声。
「子供なんか預かったら、金も手間もかかるだろ。だいたい、なんで俺なんだよ。他にいるだろ」
声が大きい、男の人。黒い服を着た、不機嫌そうな顔の男。お父さんの弟。
「でも、誰かが引き取らなきゃ……施設に行かせるの?」
「……しょうがねぇ。どっちかだったら預かってやるよ」
叔父さんの言葉を、一瞬理解できなかった。でも、すぐに話が進んでいく。わたしの知らないところで、勝手に決まっていく。
「妹の方がまだ小さいし、扱いやすいだろ。姉は……まぁ、しっかりしてるんじゃねぇか。妹のことを心配できるぐらい大人ってことだ。施設でもやっていけるって」
わたし達の様子を見ながら、そんなことを言い出す叔父さん。もしかして、離れ離れになっちゃうの?……なんで?だって、わたしは……
「……お姉ちゃんと一緒がいい」
そんな当たり前の言葉。なのに、誰も反応しない。お姉ちゃんを見ると、小さく笑うだけ。
「大丈夫だよ、真澄。大丈夫、だから」
お姉ちゃんが、やんわりとほほ笑む。でも、どこかぎこちない複雑な表情。なぜか、心臓がぎゅっと縮こまった気がした。
真澄。わたしの名前。でも、もうそれを呼ぶお母さんは、もういない。お父さんも、もう……いない。
「ほらガキ、行くぞ」
手が、強く引かれた。わたしのことなど考えていないかのような、強い力。
「……お姉ちゃん……?」
もう一度、呼んでも、わたしの手はするりと離れた。抱きしめられることもなく、大人の手に引かれていく。もう、お姉ちゃんはこっちを見ていない。なんで、お姉ちゃんはこっちを見てくれないの?
何か言おうとした。でも、口から出たのは——
「……どうして……?」
誰も、答えなかった。
わたしは、家族を失った。
お姉ちゃんを失った。
もう、何もない。
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