てにをは合わせ

白河雛千代

高校生編

第1話

「理路整然と生きてきた」と自称する青年、新田にった 葉乎はをはその日、土手に寝転がりながら、ぼんやり空を眺めていた。

 彼の視界のはるか彼方、悠久の青い空には、同じようにぼんやり雲が漂っている。

 一見、自由、無軌道な動きに見えてその実、そのモーションは極めて繊細、微細に周囲の変化に即応して生まれたもの。

 空だって自由ではない。

 航空機ならば天候やジェット気流、高度で定められた航空路——空の道と呼ばれる定型ルートが存在するし、その都度、運行管理者の提出する飛行計画書で厳密に計算し尽くされているから、時に何十機と飛び交うことになっても、旅客機は互いに衝突することも、体勢を乱されることもなく、安心、安全に人を含めた内容物を目的地まで運べているのだ。

 雲も同じである。

 その日その時間の太陽の位置や、そのためにできた空気そのものの密度に重さ、温かさ、飛行する生き物の数や動きやその身体の大小、それらすべての要素が幾重にもつらなって気流となり、条件が重なった最果ての姿が、人の目にはあのふわふわの綿菓子のような形に見えているというだけ——かつて地上から蒸発した水分子が、上昇気流に乗って途中の変化を経て寄り集まって、葉乎の視界の遥か彼方で、山のような雲となり、そして今、浮かんでいる——。

 うん、美しい。

 九月の強い日差しと冷たい風がときどき目に沁みて、涙が出そうになるくらい、

 この世は実に、つじつまが合っている。

 空を見上げる時、雲は自由でいいなぁとか、空を自由に飛びたいなとか人はよくいうけれど、葉乎の所感はそうではない。

 自由ではなく、だからこそそこに、偶然では説明しきれない整ったこの世界の様式美、事象の収斂さを見て、感嘆する。

 この世界は生き物のみならず、微細な粒子の一粒にいたるまで、膨大な途中計算とそこに至る奇跡の一歩から連なって出来ている。

 神とはいわば、人類が未だ知り得ない物理法則だとはよく言ったもの。

 だから、今の状況がつじつまに合っていないように思えたなら、それは自分が合わそうとしていないか、あえて外れようとしているか。

 もしくは、自分がそれを認められないだけ、ということになる。

 もしこれで終わりなら。

 葉乎は痛む胸を抑えて、考えた。

 それはこの世の導いた結論——として受け入れなければならないだろう。

 簡単に言えば、そう、その程度の縁だったのだと。



 葉乎はおよそ一年前、高校時代から付き合っていた彼女にフラれたばかりだった。


 

 それこそ幼稚園の頃から知っている。

 家が隣で学区も同じ。気がつけば同じ通学路を共に登校し、同じクラスで給食を食べ、中学に入ると同じソフトテニス部に入って、別のクラスになっても学級委員でまた顔を合わせた。適当に自分の学力に合ったランクの、比較的友達も多く、家からも程よく近い、そんな条件で選んだ高校にも、ヤツがいた。

 一緒に行こうぜと言っていた友達は皆、落ちて、なぜか自分とヤツだけが受かった。

 入学式にも普通に登校したかったのに、親が車を出すとか言い出して、お隣さんだからと一緒にいくことになり、校門前でヤツ共々下ろされた。当然ながら、これは同級生、先輩のみならず、大半の教師をも勘違いせしめて、苦節十六年ついに解禁となったかのように恋バナに飢えた高校デビューの悪魔たちからの、格好の餌食にもなった。

 中学のソフトテニス部でごりごりに扱かれた経験から、体育会系はもうこりごりと思い、三日三晩かけて選び抜いた文化系は茶道部の和室にもヤツがいた。

 ヤツこと葉乎の幼馴染——天王寺てんのうじ ことが。

 部活中——。

 お座敷の上、厳かに瞼を閉じて、背筋を綺麗に伸ばしたまま茶筅ちゃせんでくるくるお茶を立てながら、琴は言った。

「あのさ、ちょっと。いい加減にしてくんない? ストーカーか、アンタは」

 着物姿で、普段背に垂らしたストレートロングは器用に玉にして後頭部に留め、おまけに雅なかんざしを刺している。

 隣でまったく同様にしながら、葉乎も言った。

「全部、そのままそっくりお前に返すわ。ストーカーって男ばかりのもんでもないからな。ショタという言葉もある。まるで同じ容疑でお前を訴えてやる」

 彼もまた将棋や囲碁界のプロが着ているようなしぶい袴に袖を通している。もともと短髪なので、ちょんまげにするということもなく、普通だった。

 ちゃかちゃか音を立てる手元がだんだん激しくなって、琴はすぐさま言い返した。

「は? じゃあ聞くけど、アンタ、入部届、いつ書いた?」

「決まってんだろ。プリントもらって先生の話聞いて、すぐ書いた。そのあとの休み時間」

「はい勝ったー。私、もう朝から決めてたから。プリントもらって、後ろの人に渡して、振り返った瞬間にもうばきばきにペン握りしめてた」

 ちゃかちゃかちゃかちゃか。

 葉乎の手元も同様に激しくなる。もはや朝の卵かけご飯の動きである。

「は? 何言ってんの。俺なんか入学式の時点で、『あ、茶道部あんだ。いいじゃん。茶道部。俺の青春、これしかねー』……って心に決めてたから。誓ってたから」

「あ、それなら私、ここ受けるって決めた日に一緒に決めてたんだわ。何なら茶道部があるから、ここに決めたまであるし。はい、ついてきてんのはアンタのほう」

 いよいよ葉乎は茶筅を振り抜いて——。

「おいお前、嘘つくなよ。今、朝からって言っただろ。ついてきてんのはお前のほう——」

 ——四方に抹茶を飛ばしながら、抜いた茶筅を琴の眼前に突きつけた矢先。

 ぴしっ——と、着物を着た、目つきの悪い、どちらかといえばぼったくりバーなんかで守銭奴やってる方が似合う妖怪のような顧問のおばあちゃん先生が、扇子を折りたたんで座敷に下ろし、対面の二人を睨んで言った。

「お前ら、茶道部って何するとこか知ってっか? 茶道だよ、茶道。心を落ち着かせるためにあんだよ。それがなにお前ら。始まってから一瞬たりとも口喧嘩やめねーし、落ち着くどころかヒートアップしてんじゃねえか。なに? 喧嘩売ってんの? 由緒正しき茶道の歴史に、幼馴染二人で殴りこみですか?」

「すみませんでした……」

 そう言って、すごすごと頭を下げるタイミングまでぴったり重なって——二人は即座に隣を睨んだ。

「おいお前、いい加減にしろ。何? 見計ってんの? う◯はの血でも引いてんのか、この猿真似やろー」

「それ私の方だから。真似されてんのはわたし——あ」

「はい、かかったー。俺がカ◯シ。お前、再◯斬な」

「ちょ、それ、ずるい。再◯斬がどうこうってより、アンタがカ◯シなのが無理!」

「いい加減にしろや、お前ら、これ無限ループじゃねえか。これじゃイザ◯ギだよイザ◯ギ」

「先生、混ざってどうすんすか」

 顧問の先生はもう呆れていたし、他の部員はもっと冷めていた。二人の動向にはもはや関せず、厳かに瞼を閉じ、お椀を両手ですくうようにもって、お抹茶を上品に啜りながら、そう呟くのだった。

 別の日の教室の一角——。

 琴の隣の席に直接腰を落ち着けた同級生が、啄んだイチゴ牛乳のストローを口元で跳ねさせるや、人差し指を立てて力説した。

「私らからしたら——それもう本当に、ムカついてるからね。最高にムカつくから。朝から何回、見せられてると思ってんの、夫婦めおと漫才。爆発しろじゃない、◯ね。もう◯んでくれ、二人で。刑事ドラマのクライマックス、残り五分くらいのシーンのごとく、宗谷岬に飛び込んで散ってくれよ頼むから」

 琴の同級生——相馬そうま 紗織さおりはそう言うと、再び酸素吸入でもするようにイチゴ牛乳のストローを音を立てて啄んだ。

 琴はだらっと寝そべっていた上体を起こして反論する。

「ねぇ、ひどくない? 何度も言ってんじゃん。ガチでマジの腐れ縁。ぜんっぜん、そういうのじゃなくて。付き纏われてんだって。むしろ、助けてって感じ。毎朝学校来てさ、アイツの顔みるたび吐き気してんだから、こっちは」

 琴がそんな風にこれ見よがしに話していれば、教室の反対、窓際では男子のグループが。——葉乎は友人の席の足元に座り込み、パイプの隙間から向かいの女子のグループを睨め付けて、

「あの野郎、好き勝手言いやがって——俺なんか行きの電車内で毎日催してるっつーの。吐き気我慢しながら毎日来てる。たぶん、そろそろ過労で倒れる」

「はははは。◯ね、陽キャ。何度、同じ話聞かせんだよ。しかも、お前ら揃って二人分だからね、こっち聞かされてんの」

 スマホのカメラ機能を鏡代わりに髪を調整する友人——成沢なるさわ 史彦ふみひこを隔て、そんな感じで、聞こえよがしに悪態をついた。

 学校の帰り道すら、ばったり巡り合ってしまうことは珍しくなかったので、葉乎は自然と近辺のコンビニは使用しなくなり、かと思いきや、二、三駅離れたコンビニでリプトンのパックを取ろうとしたところで、偶然出くわした琴の指先と触れ合ったりするのである。

 自宅は隣なので、帰りのバスも同じになる。吊り革に掴まって、半ば類人猿のようにぶら下りながら、もう人生の大半を諦めたように琴は言った。

「もういや……ほんとやだ……なんなの、あーマジでキモい。普通に吐きそう」

 すると、葉乎も同様にして、己が星の背負いし宿命に疲れ果てた顔で言った。

「……ありえなくね。あーマジでつかれる……休まるときがねえんだけど……」

「ぜぇんぶ、こっちのセリフだから。アンタさ、私がリプトンの紅茶飲むために毎日何駅遠回りしてると思ってんの……」

「俺もそう思ってんだよ……そしたら、そこにお前がいるんだよ……」

 夕暮れのバス車内。

 赤みのさした陽が、車内に深い影を落とす一方、目元はいやに眩しくて、琴は目を細める。

「……紗織たちもさー、ひどくない? なんも分かってないんだもん。事態の深刻さが……。運命の赤い糸がつながりすぎた人間の気持ちなんか……」

「あぁ、ね。それは俺も思ってたわ。こっちはマジで悩んでんのによー。どいつもこいつも他人事だと思って、馬鹿にしてきやがって……」

「ね! 本当、分かんないんだよ……私たちの悩みは、私たちにしか——」

 電車に比べて、バスはよく揺れる。運転手の当たり外れにもよるけど、キツい時は吊り革なんて飾りで、結構足に力が入るもの。

 その時も、バス停に留まるため急にブレーキがかかって、言いながら琴は体勢を崩していた。

「——わっ!」

 しかし、

「おっ——と」

 まったく平然として、葉乎はそれを受け止めていた。

 というのも、なんとなくである。それまでに培った経験則から、琴の直前の体勢から、その前の流れから……なんとなく、こんな風になりそうだと状況が先に浮かんで、葉乎は前もって身構えていたのだった。

「気、つけろよ」

「あ——うん、ごめん」

 若干しおらしくなって自分の胸から起き上がる琴を見下ろすと、葉乎は勝ち誇ったように笑って、

「お前、お喋りに夢中になってすーぐ足元が疎かになんだから」

「……な! アンタだってそういう——あ」

 目を見開いて言い返そうとしてから、琴は葉乎の背後の人影に気がついた。

 すぐに葉乎の背を押し込めるようにして、

「ほら、アンタ邪魔になってる」

「え——あ、すみません……」

 葉乎は言いながら、足元のバッグを詰め、身体を窓の方に逸らして、背後の通路に道を開けた。

 それもなんとなくである。葉乎がお調子乗りで油断大敵なとこがあるのは子供の頃から知っているから、自分のついでに葉乎の周囲までも広く見据える癖が、琴にはついているのだ。

 琴の腕がさながら交通誘導の警備員のように葉乎の背中を撫ぜて、そのきわを他の乗客が過ぎ行き、再びバスが走り出すと、琴は鬼の首を取ったかのようにほくそ笑んで言った。

「アンタってほんと、人をバカにするのに夢中で周りが見えてないよねー。足元が……なんだっけ?」

「ぐ、ぬ……このクソアマ」

 バス停に降りて、近くの公園を進む道すがらもまた同じ。しかし二人はいつも、通りのど真ん中を分厚く隔てて、端と端を好んで歩いた。

 やがて対岸に投げかけるように琴が言う。

「ねぇ、なんでついてくんのー? ストーカーなの? 通報していい?」

「お前がついてきてんの。俺じゃない。通報したら逮捕されるのお前だから」

「いや私、家こっちだし」

「俺の家もこっちにあんだよ。知ってんだろが」

 互いに道の外側を向きながら——けれども唐突に、肩の力が抜けて。

 二人同時に吹き出した。

 今日に始まったことではない。

 二人が産まれてからというもの、この神に仕組まれたかのような不思議な縁は毎日のように絶えることなく続き、なぜか二人を巡り合わせて止まない。

 怒っても、悩んでも、絶望しても、喧嘩しても、次の日にはまたリプトンのパックの前しかり、バス停しかり、相手の行動を読んだつもりで避けて通った道の曲がり角しかりで巡り合わされるものだから、当事者としても呆れるしかなくて、

「もうさ……はぁ? なんだろうね、これ……マジで」

「ほんと意味わからん……どうなってんだよ」

「ほんとヤバくない? 私たち」

「俺たち……ほんと——」

 二人はたまに、自分たちのことをこうたとえた。

 良くも悪くも、運命の神に愛されすぎてるんだと。

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