一瞬

白河雛千代

第1話

「僕、なんか苦手なんですよね、こういうの」

 内見の途中だった。仕事の関係で、というのは建前で、何か今の気分を変えたくて引っ越しを決意して、業者に通い、二軒目の物件。

 ドアの中央部分がガラス窓になっていて、中から乗場や昇降路の様子が見える作りになっている、そこのエレベーターに乗ったとき、私たちを乗せたかごの昇降に合わせて景色の明滅する窓を指して、付き添いの不動産業者の男の人が言ったのだ。

 明らかに口調がホラー調だったので、私は微笑してしまった。

「なんでですか」

「なんかこう、もしちらっと見えちゃったら最悪じゃないですか。こういう隙間って」

 付き添いの業者さんは、男の人とはいったものの、まだ素振りも見た目も青年そのもので、けれどきっと本意は私を脅かすことじゃない。単なる軽口のように、その時は思っていた。

「霊感とか、あるんですか?」

「いえ、僕は全然……ないんですけど」

「なら平気なんじゃないですか」

「それが霊感って、一度見えたら、それで一生ものって……そういう話、聞いたことないですか?」

 私がふるふると首を横に振ると、業者さんは実しやかに話した。

「今はない人でも、見えた瞬間から芽生えてしまうものらしいんすよ」



 その時はそれも内見の一興というか、不動産業の人って話が上手い人が多いから、その一環だと思って、私は事務所に戻る頃にはすっかり忘れていて、その二件目の物件に引っ越した。

 そうして瞬く間に一ヶ月、二ヶ月と過ぎて、三ヶ月が経ったある日のこと。

 いつものように玄関からエントランスに入り、エレベーターに乗っているとき、私はふとその業者の話を思い出してしまった。

 怖い話っていつもそうだ。最初に聞いたときには冗談半分、むしろ退屈を埋めたいばかりに自分から率先して盛り上げてしまったり、余計に見てしまうくせに、あとで一人になったときに限って、ふっと思い出して、目も瞑れなくなる。

 お風呂場でシャワーを浴びている時にふいに怖い話を思い出してしまって、後ろが気になりだす。目を開いた瞬間、そこにいるはずのない誰かがいることを妄想してしまう感覚。半ば期待でもしてるんだろうかってくらい、頭はどんどんと怖いことを考えて止まらなくなる……。

 この時もそんな気分だった。お風呂場ではまだシャンプーも流し切っていないうちから、ばっと無理に目を開けてみて、誰もいないことを確かめていつも安心している……この時も同じ気持ちで、対面のガラス窓をちらりと視界に入れた。

 しかし、私はすぐに何でもない、というふうに視線を逸らした。

 怖いスレを眺めて、適度なところでやめようやめようと思ううちに、ふと直感的に恐ろしい絵が目に入ってきてしまった感覚。

 私は脈を飛ばして跳ね出した心臓を内心で押さえつけるように固まったまま、エレベーターは間もなく五階についた。チンと音がなって、ドアが左右に開き、私は気持ちを置き去りにするように唇を硬く閉めたままかごを降りると、乗場を出るまで冷静に歩いてみようとして抑えきれずすぐ早足になり、建物の影から空が見えてくる廊下まで来てから、ようやく一息ついた。

 振り返ってみる。

 いつもの乗場が異様に不気味だった。

 時刻は九時過ぎ。月光と電灯だけが薄く照らしだす影と微妙な明るさが、異様に不気味に見えてしまった。

 次の朝はエレベーターの前で一度躊躇しながら、普通に降りて出勤したが、その時はなにもなかった。

 問題は帰宅後だ。

 その日も帰りは九時過ぎだった。習慣というのは恐ろしいもので狙ったわけでなくとも、だいたい同じ頃合いになってしまう。疲れながら帰宅して、マンションの敷地に入った瞬間に、私は昨夜のことを思い出して、ためらった。

 いっそ階段を使おうかとも思う。けれど、こんな歳になってオバケが怖いとかいうのも情けないような気がして、私はエレベーターに乗った。

 別の階の人だろうか。その日は別に同乗者がいた。私は入ってすぐのボタンの前に陣取り、五階を押す。

 昨夜は確か……そうだ。タイミングの関係からもほぼ間違いない。あの男の子がいたのは三階だと思う。かといって、変に意識すると余計に出てきてしまいそうでもあって、私は平静を装ってただ前を見ていた。

 エレベーターのかごは二階で止まることなく進み、しかしあろうことか、三階で止まった。

 私はじんわりと滲みだした汗を感じながら、けれど気のせいだ。何かの見間違いだとして、ちらと乗場を見た。

 同乗者は二人だった。二人。

 一人は普通の中年男性。その後ろから隠れるようにして、男の子が入ってくる。

 おかっぱの男の子。少し俯いていて、硬くランドセルのストラップを握りしめている。

 昨夜、ちらっと見てしまったものと同じものだ。

(乗ってきた……)

 私を含めて、同乗者は四人だ。私はボタンの前に陣取っているから、他の三人とも背後にいる。

(やだなぁ……ほんと、お願い、勘弁してよ……)

 こんなときばかり都合よく神に祈るうち、かごが五階について早々、私は逃げるように出て、ほとんど駆け足で乗場を抜け、廊下も振り返らずに自室の前まで進んだ。

 ノブの鍵を開けて、回して、けれどやっぱり気になった。そうして何もないことを確認するように、ゆっくりと視線を廊下に向けた。

 廊下の端である。エレベーター乗場の壁から、男の子が顔を半分出してこちらをのぞいていた。

 卒倒するかと思った。

 私は間もなくノブを回すと、急いで部屋の中に入り、硬くドアを閉めて、靴を放り出すように脱ぎ、居間の灯りをつけたところで身構えるように玄関を振り返った。

 けれど部屋の中までは入ってこないようだ。しばらく私はそうして緊張したまま立ち尽くし、やがて崩れるようにその場に座り込んだ。

 もう限界だ。こんなところには一日だっていられない。

 私は翌日の朝には不動産業者に連絡を入れて、事務所の方に掛け合った。しかし、その電話対応からして何か妙だったのだが、私が事務所に赴くと係の人が、ようこそ、いらっしゃいませと、出迎えたのだ。

 私は違和感を振り払うように狭い事務所内をカウンターに進み出て、勢いよく腰を下ろすや、詰め寄った。

「あのマンション、おかしいんです。妙な男の子が……エレベーターで……」

 今回、私の接客を担当したのは女だった。その女はしかし、妙に解せないというふうに首を傾げて、しまいにこう言った。

「あの……大変失礼ですが、お客様は初めてのご来店でございますよね」

「は?」

「いえ、ですから。そのマンションというのも……ええと、もう一度ご住所ご確認してもよろしいでしょうか」

「だから——」

「……うーん」

 タウンページのような書物のページをぺらぺらとめくりながら、

「少々お待ちください」

 女はそう告げると、一度パーティションの裏に下がり、そこで何がしかを確認したのち、再び戻ってきて重々しそうに話した。

「お待たせいたしました。その……大変申し上げにくいのですが……」

 しかし、女の話はまったく信じられないものだった。私は立ち上がり、初めてお店で怒号した。

「この人じゃ話にならないわ! 前の担当の人、ええと確か、二十代前半くらいの男の人出してください! 彼なら覚えているはずで……」

「申し訳ないのですが、そのような人、うちにはおりませんので……」

 彼女の話はこうだ。

 たしかに以前は紹介していた物件に同じ住所のものはあった。しかし、二年も前に起きた火事のために事故物件となって入居者が寄りつかなくなり、既に取り壊されている。騙されていると思うなら、自分の目で確かめてみてください。

 そして今、私は自宅のマンションのエントランスがあったところに来ている。

 建物は解体されて、今はどこかの会社のコンテナ置き場になっているようだ。

 私は狐に摘まれた感覚で、スマホを見ると、現在日時が三ヶ月戻っていた。

 つまり、今日は、あの不動産業者の青年と初めてこの地に内見に来た日で、時刻なのである。

 気が狂いそうになりながら、私はそれ以前の住居に帰ろうと駐車場を後にする時、再び視線を感じて、振り返った。

 おかっぱの男の子が、コンテナの一つから、顔を半分だけ覗かせていた。

 かと思いきや、それはもう一つ遠くのコンテナの模様が重なって見えただけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

一瞬 白河雛千代 @Shirohinagic

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ