Stare at me
kyの友(雀商店)
stare at me
トントン、と戸をノックする音。リーオっ、と言う可愛らしい声が聞こえて、少年は目を覚ました。
明るさからして、時刻は八時くらいだろうか。太陽はすでに昇り切っている様子で、小鳥の鳴き声が聞こえていた。少年は、寝過ごしたかな、と思いつつ、手をついて上半身を起こす。瞼をこすりながら、入っていいよ、と少年は言った。ドアの開く音がして、窓の少ない小屋の中に、明るい光が射し込んだ。風は思いのほか暖かく、タンポポと菜の花の香りがした。もう春なのか、と少年は思った。
「リオ、おはよ」
ドアを開けた少女が、トットットと足音を立てて入ってくる。少女が言うのを聞いて、少年もまた、
「おはよう、エマ」
と返した。少年は布団から出て、やかんに水を入れ、コンロにかける。少女の白くて上質そうな服とは対照的に、少年の服は黄ばんでいて、形も貫頭衣のようだった。
「……エマは、紅茶いる?」
少年は聞きながら、少し欠けたティーポットに茶葉を入れた。
「ううん、大丈夫。……朝ごはん、紅茶だけなの?」
と少女が言う。食器棚はお世辞にも綺麗とは言えず、ソーサーとティーカップ以外の食器は埃をかぶっていた。少年は、うーん、としばらく考えてから、
「まあ、お砂糖入れるし」
と答えた。
リオが紅茶を飲み終えると、二人は外に出た。よく晴れた、遊ぶにはちょうど良い天気だった。蝶々がたくさん飛んでいて、エマの話通り、花がたくさん咲いていた。二人は、花の蜜を吸ったり、草の上に寝転んだり、鬼ごっこをしたりして遊んだ。鬼ごっこと言っても、二人だけしかいないので、追いかけっこに近いのだが。この広い、地の果てまで続いていそうな草原には、二人以外の人影がほとんどなく、いくつかの小屋と、丘と、遠くに大きなお屋敷が一つある以外、特に目立つものもなかった。リオの遊び相手はエマだけだし、逆もそうだ。昔から、そうだった。
太陽が真南より少し西側に傾いたころ。リオとエマは、シロツメクサのたくさん生えているあたりに来ていた。
「リオ、できた?」
「もうちょっと……うん。できたよ」
二人の手には、それぞれシロツメクサの花冠が握られていた。
「やっぱり、リオ、上手だね」
「エマのも、素敵だよ」
リオは、どうぞ、と言うと、エマの頭に自分の作った花冠を乗せた。エマは、フフッ、と笑って、どう?と聞いた。
「うん。よく似合ってる」
リオが満足げにそう言うと、今度はエマが、ポン、とリオの頭に冠を乗せた。
「えっ……いや、僕は、いいよ」そう言って、リオは冠を取ろうとする。
「リオも、結構似合ってるよ?」
「そう……?」
「うん。リオ、かわいいと思う」
「ん……じゃあ、まあ……」
言いつつ、リオは冠を乗せなおす。エマは手を伸ばして、冠から落ちてリオの前髪についた花びらを払った。
「次は、何する?」
リオがそう聞くと、エマは空を見て時間を確認した。
「リオ」
「うん」
「あのね、明日のことなんだけど」
エマはリオの方に身を乗り出し、にやりと笑った。
「街に、下りてみない?」
……街に?リオは少し戸惑った様子で、
「えっ……なんで?」
と聞いた。少なくとも、リオが知る限りでは、二人は一度も街に降りたことなどなかった。
「たまには、そういうのもしてみたいし」
軽い調子でエマが言う。
「怒られないの?」
「お父様に知られたら、絶対怒られるでしょ?」
エマの顔は笑っていた。
「だから、二人だけで、内緒で」
「……どうやって?」
「図書館に、お屋敷とお庭と街の地図があるのを見つけたの。今から取りに行こ?」
エマが立ち上がり、リオの手を取る。こうなるとなだめても聞かないということはリオも十分承知していた。リオは、エマに引かれるままについていった。
スークス邸は、貴族であるスークス家が代々所有している宮殿だ。その敷地の中には、スークス一家が住んでいる屋敷のほか、広大な庭や、いくつかの離れ家などがあり、リオの住んでいる小屋もその庭に建てられている。エマ・キデナ・スークスは、そのスークス家の当主の一人娘だ。
リオは歩きながら、お屋敷に行くのは久しぶりだなぁ、と思っていた。リオは以前にも何回か、こうしてエマと図書館に本を取りに行く事があった。大抵は植物図鑑かお伽噺で、二人の遊びに使う物だ。おかげで、外の世界との接触がほとんどないリオにも、多少の学や常識や自意識というものがある。今回の地図も、ある意味、遊びに使うものと言えるかな……と、リオは思った。
「じゃあ、リオは、ここで待ってて」
屋敷の裏につくと、エマはそう伝えた。
「?警備の人も居ないし、バレないと思うよ?」
「最近、機械で見張ってるらしいの。ほら、あれ」
エマが指差した先には、壁から生えた円筒形の機械があった。その先の方付いている黒い円が、目に見えなくもない。
「わかった。じゃあ、待ってる」
リオのことを知っている者は、少なくともスークス家の中にはエマ以外居なかった。仮にリオが屋敷に入ったら、周りからしてみれば不法侵入である。リオは、このようにして待たされる事が多かった。
パシャッ、という音が聞こえて、リオは飛び上がった。咄嗟に音のした方を見ると、そこには長身の、三十ほどとみえる男が立っていた。落ち着いた色の、かしこまった、それでいてどことなく華やかなスーツを着ていた。脇に大きな本を抱えていて、どうやら彼も図書館に来ていたようだった。
「えっと……それ、なんですか?」
男は、四角い機械を持っていた。その真ん中には、先ほどの機械の物と似た黒い透き通った円があった。
「これは、カメラという物でね。景色を書き写す事ができる機械なんだ」
機械の下の方から、一枚の紙が吐き出される。男はその紙を手に取って眺め、ほう、と言ってポケットにしまうと、リオの隣に座った。
「君はリオくん、で合ってるかな」
「なんで名前を…」
「陰から、話してるのを聞いてたんだ」
男はわざとらしく胸を張った。その動作は、どこかひょうきんにも見えた。
「僕の名前はチャーリー・フォリス。よろしくね」
リオは、流されるままに差し出された右手を握りつつ、この人は何なんだろうと思っていた。
「ところで……」
と、フォリスが言った。
「君は、吸血鬼なのかい?」
えっ、と戸惑うリオに、フォリスは先ほどのカメラから出てきた紙を見せた。そこには、撮られたはずのリオは写っていなかった。彼は脇に持っていた本を開いた。
「この本によれば、吸血鬼はカメラに映らないらしい。視覚的な情報を錯乱させる能力がある、と書いてある」
「多分何かの間違いだと…」
リオがそう言うと、フォリスは胸元から銀色に光るペンダントを取り出した。リオがさっと目を伏せるのを見て、フォリスは笑いながら十字架を服の中にしまった。
「別に僕は君を教会に差し出そうとしてるわけじゃないから、安心してね」
リオはまだ不安だったが、とりあえずその言葉が本当だと信じることにした。
「でも、何でわかったんですか?」
「だって、エマくんと話す時、首元ばかり見ていたからね」
「えっ」
リオが口を覆い、耳まで赤くなってうろたえているのを見て、
フォリスはにやにやと笑った。
「噛みたいなら、噛めばいいじゃないか」
「…そんなわけにも…」
「そうかな?」
フォリスは立ち上がり、演説をするかのように話し始めた。
「すぐそばに相手がいて、しかも柔らかな首を曝け出している。周りにはほとんど人がいないし、万が一見つかったとしても、吸血鬼としての能力を活用すれば逃げることは容易い。こんな状況で、彼女を襲わないなんて言う選択肢があるかい?」
どうだい?と言うように、フォリスは首を傾けた。
「……本気で言ってます?」
「本気だよ。実際、僕は何回も似たようなことをしてる。なかなか良いものだよ。仮に問題が起こっても、ほら、僕はそれなりに名の知れた貴族だから」
フフン、とフォリスは笑った。
「いいかい、君を縛っているのは何だと思う?さっき話したように、理論的にそれは十分可能だ。とすると、あとは君自身の問題だね。足枷になってるのは、君の羞恥心だけなんだ」
リオは正直うんざりしてきていた。
「何でわざわざそんな話を?」
と、少し棘のある声で言う。
「手遅れになる前に助言をしておこうと思ってね」
「手遅れ?」
「おや、まだ言われてないのかい?」
フォリスはさも意外そうな顔をして言った。
「ミス・スークスはもうすぐ、僕と結婚するんだ。もう十二になるから、お父さんとしては、そろそろ嫁がせないと面子が立たないってことらしいね」
まあ僕は知ったこっちゃないけど、と言うフォリスの顔は、これまたわざとらしく困った顔をしていた。
「おっと、こんな時間か。そろそろ僕はお義父さんと話さなきゃいけないんでね、今日はこの辺で」
彼はそう言うと、困惑するリオをよそに、さっさと去って行った。
「リオ、取って来たよ」
エマは、分厚くて重そうな本を持って戻ってきた。日は西側に大きく傾いていて、間も無く赤くなり始めようというところだった。
「あ、うん、ありがと」
リオはそう言ってエマの方を向いた。
「あのさ……」
「ん?」
「……ううん、何でもない」
彼の話が本当だと言う確証はない。そう自分に言い聞かせる。
「えっと、遅くなってごめんね。図書館の奥の方にある本だったから。司書さんに聞くわけにもいかないし」
エマはいそいそとページをめくる。
「あった。これが、お庭全体の地図。確か東側に…あ、これ。ここから、街に抜けられるみたいなの」
昔は実際に使われる道だったらしいけど、今は木と草が生えてしまっていて、でも柵が開くようになっているから…とエマが話すのに、リオは一生懸命頷いていた。
「……で、リオはこの道を通って、日が東南東に来る辺りに、この広場に居て欲しいの」
「……えっ?一緒に行くんじゃないの?」
「待ち合わせ、ってのをやってみたいなって」
エマはたいそうそれを楽しみにしているようだった。
「大丈夫だよ。リオの家からは、まっすぐ日の出の方向に歩けば良いだけだから、ね?」
「……うん、わかった」
エマは、満足げにうなずいた。
「じゃあ、時間も時間だし、そろそろ帰るね。また、明日の朝」
「また、明日」
エマの言うとおり、もう帰る時間だ。
空は赤くなっていて、カラスの声が聞こえていた。
リオは起きてすぐに家を出て、時刻を確認した。太陽は、その体をまだ半分は地平線の下に沈めていた。少し早すぎたかもしれないし、少々眠いな、とリオは思った。何せ昨晩は考える事が多すぎて、よく眠れなかったのだ。とはいえ、今から二度寝して起きられなかったら、エマに会うのも遅れてしまう。それは絶対に嫌だった。
少し肌寒かったので上着を着て――と言っても、普段着ている黄ばんだ布をもう一枚重ねるだけなのだが――、エマの言った通りに日の出の方向を目指して歩くと、森が見えて来た。確か、この森の先に柵があるんだったな、とリオは思った。
話通り、柵が開くようになっているところがあったのでそこを抜け、さらに草の茂った道を歩く。道というよりも、道だった物と言った方が近いかもしれない。それくらい背の高い草に覆われていた。両脇に見える本物の森よりかはずっとマシだが。
森を抜けると広場に出た。太陽はもう出切っていて、時刻は六時半くらいだろうか。広場にはパラパラと人がいて、何かを話していたり、書いていたり、ベンチで寝ている人もいた。
リオは、周りの人たちがみんなしっかりした服を着ているのが気掛かりだった。当たり前といえばその通りだが、リオの物のような、おおよそ服とも言い難い服を着ている人などいなかったのだ。そういえば、エマと読んだ本にも、こうやって待ち合わせをするような時にはそれなりの服を着ていく物だと書いてあった気がするな、と思いつつ、他に服がないんだよなぁ、とため息をつく。周りと比べてしまうと、どうしても自分の服装というのは気になるものだ。仕方がないので、リオは視覚を錯乱させる能力を使って、少し自分を目立たなくすることにした。
しばらく経って、リオはエマを見つけた。どうやら彼女は別の道から来たようで、リオが通ってきた道とはちょうど反対側の、大通りに面した道から歩いてきた。リオはエマと目が合いそうになって、反射的に目をそらした。普段とは違う、着飾った様子のエマを見て、見惚れてしまっているのが、どことなく、恥ずかしかった。
「リオ!」
エマが駆け寄ってくるのを見て、リオはますます赤くなっていった。
「リオ、お待たせ」
エマは黒いコートと、膝丈の蒼みがかったスカートを着ていた。化粧までしていて、普段よりもどこか大人っぽく見えた。
「そのお化粧、自分でしたの?」
「うん。お茶会なんかのときにお化粧してもらうんだけど、その道具を使ったんだ」
すごいなぁ、と言うリオに、エマはありがとう、と返した。
「……なんか、ごめんね」
「何が?」
「服。これしかなくって」
そう言いつつリオは、妬みに似た劣等感を覚えた自分に腹が立った。服がいくら違おうが、それで嫌な気分になる理由は無いじゃないか、と自分に言い聞かせる。私はその服結構気に入ってるんだけどな、とエマは呟いた。
「そうだ、じゃあ、今からお洋服買いに行かない?」
「えっ、でもお金……」
「持って来てるから大丈夫。お父様からちょっと盗んだの」
今何て?と耳を疑ったリオの裾を引き、ほら、服屋さん探しに行こ、とエマは言った。
道行く人に尋ねながら迷い歩いて行くと、それらしい服屋にたどり着く事ができた。小洒落た音楽がかかっていて、香水の匂いがした。
「僕に合う大きさの服、あるかな……」
と言うのも、リオはまだ身長が150センチほどしかなかったのだ。この大きさではまだ大人用の服は大きすぎるだろう。そして、この店に子供用の服は見当たらなかった。エマはしばらく考え、女性用の服を着てみたら?と提案した。
「リオ、細いし似合うと思うよ。婦人服にも、男の子が着て違和感ないの、結構あるし」
そう言うと、戸惑うリオの背中を押して、エマは店員に声をかけ、要望を伝えた。出自からして、多分彼女はこういった店は慣れておらず、勝手がわかっていないはずなのだが、どうやら持ち前の大胆さでどうにでもなるようだ。やっぱりエマは強いなぁと、リオは舌を巻く。どの様にしたいですか?とリオも店員に聞かれ、いろいろ言ってみるものの、自分の言葉がちゃんと伝わっている気がしなかった。あたふたするリオの様子を、エマは微笑みながら眺めていた。
服選びは難航した。何せ、吸血鬼だと知られたらここに居られなくなるので、リオは鏡を積極的に避ける必要があったのだ。その上自分の姿を確認できないので、何を着ても「似合っていますよ」と言う店員の言葉を頼りに服を決めなければならず、おかげで選び終わった頃には店内の時計はもう十時を指していた。
「じゃあ、これで……」
「そのまま着て行かれますか?」
「あっ、はい、そうします」
リオが選んだ服は、白いシャツ、黒色のコート、ジーンズと、エマのものとよく似た色味のものになった。似せたみたいになっちゃったな、と後悔するリオに、カモの子は親を追う、か……と店員が呟いた気がする。
「エマ、どうかな」
リオはうつむき気味にエマに問いかけた。
「うん、似合ってるよ」
「なんか、お揃いみたいで、ちょっと恥ずかしいな…」
「確かに、お揃いだね」
嬉しそうにそう言うと、エマはにっこり笑って、リオの手を取った。
「さ、どこ行こっか?」
「えっと……とりあえず、公園でも散歩してみる?」
「うん、そうしよう」
エマは手をしっかりと握って、リオより先に歩き出した。
リオは、昨日フォリスに言われたことをなるべく考えないよう努めていた。が、やはり気になって仕方がない。しかし、そのことについてエマに聞くのも怖かった。そもそも、街に出ようなんて言う提案をしたのも、最後の思い出作りという意味でなのではないだろうか?そう思うと、無性に不安になって、やはり彼はエマの話にうなずき返すことしかできなかった。
「……あ、やっぱり」
二人は、ふらふらと街を歩きながら、公園を探していた。先ほどまでエマは、どこか上の空のリオに、昆虫の足の動き方についての考察を披露していたところだった。
「ほら、あの警備員さん。ここまでも数人見かけたけど、多分、私のこと探してるんだと思う」
エマがそう言うので、リオもその警備員に注目してみる。確かに、似たような制服を着た人を何回か見た気がするし、ミス・スークスがどうのこうの、という言葉を聞いた覚えがある。空耳かなと思って無視していたが。
「ちょっと君たち、いいかい?」
警備員に声をかけられ、リオは少し焦った。
「はい、なんでしょう?」
平然と受け答えをするエマにも驚いた。あのエマが今日に限ってハイヒールを履き、少し化粧をしているのは、単におしゃれというだけでなく変装の意味もあったのかもしれない、とリオは思った。
「子供二人だけでお出かけかい?」
「はい」
「しかも男女でとは。またずいぶんとませた子たちだ。ちょいとお嬢さん、顔をよく見せてくれるかな?」
リオは、エマの自分の手を握るのが、少し強くなるのを感じた。警備員はエマの顔をまじまじと見て、そして手元にある紙に写された顔と見比べる。
「人探しですか?」
とエマが言う。
「ああ、スークスさんの娘がいなくなったんだ。毎日のようにどこかへ行く子で、それだけなら許されてるらしいんだが、なんと今朝は街のほうへ出て行ったらしくてな。誘拐でもされたら大変だし、婚姻も近いんで、大騒ぎになっとるよ」
警備員は、まったく困った話だ、とため息をついた。
「んー、やはり似て見えるな。ミス・スークスの顔を知ってるものを呼ぶから、少し待っててくれないかい?」
「あいにく、用事があるんです」
「すまんな、でもそういうわけにもいかん」
警備員はそう言うと、無線機を取り出し、連絡を取り始めた。
エマは、リオの手を引いて走り始めた。
「おい、待て」
警備員が追いかけて来る。
「逃げられました、ええ、今アルモント通りです、茶色いコート着てる二人組です」
角を曲がり、角を曲がり、路地裏に逃げ込む。右に曲がり、左に曲がり、狭い道を抜け、見られないうちにひとつ隣の道に入る。さらに少し走り、エマはきょろきょろと周囲を見渡した。
「うん、撒けた。……アイスでも食べたいね」
コートを着て走るのはやはりかなり暑かったらしく、エマも汗をかいていた。ところで、アイスって何だろう、とリオは思った。
「はい、お待たせ」
二人はなんとか公園に着いてしばらく散歩をし、ついでに、途中で運良くアイスの屋台を見つけられた。
「ありがとう」
リオはコーンに入ったアイスを受け取って、その冷たさに驚いた。冷蔵庫を知らないリオにとっては初めてのもので、まるで脈絡のない夢を見ているみたいだな、と彼は思った。しばらく、二人は黙々とアイスを食べていた。
公園の時計は十一時半を指していた。鳩が数羽居て、年配の男性が、そこにパンを撒いていた。溜池の水面が、少し動いているのが見えた。カア、と間の抜けたような声が聞こえて、何羽かの小鳥が、木からガサガサと飛び立った。
「エマ、結婚するの?」
言ってしまった、とリオは思った。警備員にその話をされた時から、ずっと口に出そうか思い悩んでいたのだ。全部勘違いなら良いのにと、そうリオは思った。
「うん」
やわらかな日が差していた。小鳥の鳴き声が、耳障りに聞こえた。
「遠くに行くの?」
「……でも多分、たまには帰ってくるよ」
それを聞いても、リオはやはりどこかモヤモヤした。
「相手はどんな人?」
それがあのフォリスだからなのかな、とも思った。あんなやつがエマの側にいるのは嫌だなと思っているのかもしれない、と。
「……綺麗で、優しい人。お父様は、有力な貴族だって言ってた」
リオは一瞬信じられなかったが、思い返してみると、ぱっと見の印象は綺麗だった気がする。うまく演じればそうも見えるのだろうな、とどこか納得が行った。何はともあれ嫌な奴だ。しかし、仮に相手が童話に出てくるような王子だったとして、自分は仕方が無いと思えただろうか。
「あ、リオ、口元拭かせて」
えっ、と声に出す前に、ウェットティッシュで口をぬぐわれる。
「口元真っ白で真面目な話するもんだから、なんかちょっと気になっちゃって」
エマに笑いながらそう言われて、リオはなんだか少しムッとした。
「お昼ごはんの前にアイス食べたのは、失敗だったね」とリオが言う。二人は街を歩きながら、次にすることを探していた。
「リオが少食なだけだよ」
エマは一口リンゴを齧った。これは食べ歩きと言うもので、普段は行儀が悪いからと許してもらえず、結果エマの憧れの一つになったらしい。
どうしてエマが、スークス家のお嬢様なんだろう。リオがそんなことを考えたのは、これが初めてだった。そうでなかったら、ずっと一緒にいられたのかな、と。
ふと、リオは聞いた。
「ねえ、エマ。貴族としての暮らしって、どんな感じなの?」
思えば、自分は貴族としてのエマをほとんど知らなかった。
「どんな感じ、かぁ…」
エマが悩み始めたのを見て、リオは、ちょっと失礼な質問だったかな、と思った。
「あえて詩的に表現すると、鏡を見る生活、かな」
「……鏡?」
エマは、たまにこうやって難しいことを言う。きっと難しい本をいっぱい読んでいるからだろう、とリオは思った。
エマは頷いてこう言った。
「鏡を見て、他人の顔色を伺って。理想の"ミス・スークス"に近づくように、お化粧をして、表情を作って、自分を調節するの」
大変そうだな、とリオは思った。なんだか、お芝居をするみたい。リオがそう言うと、
「確かに、似てるかも」
と言って、エマは少し笑った。お芝居といえば、エマは「ローマの休日」という芝居を気に入っていた気がする。たまに、二人でその真似をすることもあった。あれも、お姫様が男の人と街に出るお話だ。
お芝居は好きなんだけどなぁ、と、エマは軽く言い、あと三口ほどしか残っていないリンゴを齧った。
二人は街を周り、書店やホームセンターなど、いくらか気になった店を訪ねた。駄菓子屋では「おや、若いカップルだこと」とおばちゃんにおちょくられ、リオは真っ赤になったし、写真屋に行っていろんな衣装で二人の写真を撮りたいとエマが言い出した時には、それを引き止めるのにも苦労した。途中で何回か警備員に追いかけられたりもしたが、その度にエマは上手く彼らを撒いた。
劇も見に行った。とは言っても、公園にあるほぼ野晒しの舞台での劇だったが。どうして大劇場に行かないの?とリオが問うと、リオ暗いところ苦手でしょ、とエマは答えた。途中から見て途中で飽きたのでなんという劇なのかはわからなかったが、全体の印象としてはやたら血の気の荒い恋愛ものという感じで、斬り合いや罵り合いのシーンがやけに多かったようにリオは感じて、あまり好みではないかなと思った。
午後三時半ごろ。二人は喫茶店に寄ってお茶を飲む事にした。エマもリオも紅茶が好きで、何かが欲しいと普段めったに言わないリオも、エマに頼んで茶葉を家に置いてもらっているほどだ。毎日この時間には、一緒にお茶をする。それはこの日も変わらなかった。
リオは、自分がエマの足を引っ張ってばかりなのが気がかりだった。朝わざわざ服を用意してもらったり、逃げる時に手を引いてもらったり。そのことを言うと、エマは笑って、大丈夫、私も楽しいよ、と言った。しかし、やはりリオは不安だった。
「ちょっと、お化粧直しに行ってくるね」
そう言って、エマは席を立った。エマは紅茶とスコーン、リオは紅茶のみを頼んでいて、今ちょうど、その品が届いたところだった。お化粧直しか、色々大変なんだな、とリオは思った。
「こんにちは、リオくん。偶然だね。座ってもいいかな?」
そう言いつつ、返事を待たずにエマの席に座ったその男は、フォリスだった。
「なんでいるんですか?」
「いちゃいけないかい?」
フォリスは、エマの紅茶に鼻を近づけ、においをかいだ。
「心配いらないよ、君たちがここにいることは、僕がくる前に既にバレてるから」
「えっ?」
「店に迷惑がかからないように、この外で、警備員が待ち伏せしてる。監視カメラの映像を確認したら、ここに入るエマくんが見つかってね。僕はアイス屋の所からつけてたけど」
なんて奴だとリオは思った。
「それで、エマくんとのデートは順調かい?」
ニヤニヤと笑いながらフォリスが問いかける。まるで、いくら順調に進んだとしても最後は僕がもらうんだよ、と煽っているかのようだった。
「帰ってください」
「待って待って、僕は確認をしに来たんだよ」
「なんのですか?」
「一つ目は、今までどうだったのか。二つ目は、これからどうするのか」
どうする、と言っても……と、リオはうつむいた。
「またエマくんに手を引いてもらって、情けなく逃げるのかな?臆病なリオくんは」
完全に煽っていた。
「どちらにせよ、先延ばしになるだけ。結局、エマくんは僕のものになる。そうじゃないかい?」
「……帰ってください」
「ふーん、また先延ばしか」
フォリスは、馬鹿にしたように笑った。
「ま、良いんだけどね、せいぜい楽しんで」
じゃ、と手を振って、彼は席を立ち去った。
「お待たせ」
エマが帰ってきて、席に座り、スコーンを割った。
「……どうしたの、リオ?なんか嫌そうな顔してるけど」
あ、お茶が好みじゃなかったなら、今からでも別の場所行こうか?と言うエマに、リオは、
「ううん、大丈夫」
と、なるべく心配させないよう返事をした。ふぅん、とエマは紅茶を啜る。
「ほら、その……お化粧ってたいへんそうだな、って」
そう思っていたのも、嘘ではなかった。顔色の悪い直接の理由は、もちろんフォリスだが。
「あ、なるほどね」
そう言って、エマは声を出して笑った。
「どうしたの、エマ?」
「ううん、何でもないよ」
笑いながら言うエマを見て、何か変なことを言ったかな、とリオは思った。エマは、紅茶をもう一口飲んで、咳払いをした。
「そうだね、お化粧って、結構大変だね。なんか、変に気使わせちゃって、ごめん」
「あ、それはいいんだけど…僕の前でまで鏡見るの、嫌じゃないのかな、って」
貴族の生活は、鏡を見る生活。そう語るエマが、その生活を喜んで受け入れているようには見えなかったのだ。
「全然嫌じゃないよ」
エマは嬉しそうに答えた。
「でもそっか、何で嫌じゃないんだろ……」
エマはしばらく、黙ってスコーンを食べて、その事について考えている様子だった。
「……うん。やっぱり、それかな」
エマが紅茶を啜り、満足気にそう呟いたので、リオは戸惑った。
「えっと……それで、なんでなの?」
そう聞くと、エマは笑った。
「今はまだ、秘密」
「……いつになったら、言ってくれる?」
「それも秘密」
紅茶冷めちゃうよ、と言って、エマはスコーンを齧った。リオは唸って、紅茶に口をつけた。思ったより良い香りで、温かかった。
二人が紅茶を飲み切った。エマはクロテッドクリームのついた指先を舐める。その所作があまりにも自然だったのでリオは気づいておらず、むしろどこか魅惑的なものを感じていすらしたが、これもまた、貴族としてのミス・スークスには許されない行為だった。
「さ、次はどこ行く?」
そうエマはリオに聞いた。
「あのさ、エマ」
「ん?」
「さっき、エマがお化粧直しに行ってた時、」
……何と説明しようか。
「……誰かが、『外に警察みたいな人がいる』って言ってた」
自分はフォリスと会ったことがある、などという話をしていたらキリがないと思い、リオはそう言うことにした。
「多分、待ち伏せされてるんだと思う」
リオがそう言うと、エマは喫茶店を見渡した。正面以外に扉がないか探しているのだろう。リオも一生懸命抜け出す方法を考える。
喫茶店のドアが開く。リオがそちらの方を見ると、警備員が数人、歩いて入ってくるのが見えた。どうやら、なかなかエマが出てこないのに痺れを切らして、ついに入ってきたようだった。
「……どっちにしろ、お別れしなきゃいけないのは、おんなじだよね。リオ、一緒にいると、リオまで捕まっちゃう。だから、私が連れていかれるまで、ここで待ってて」
「えっ、でも」
……もっと一緒に居たいのに。そう言ったら、エマに迷惑かなと、リオは一瞬、考えてしまった。
「あっ、お嬢様!」
どうやら、その一瞬のうちに、見つかってしまったらしかった。リオは抵抗する間もなく、エマに机の陰にしゃがみ込まされた。
「またね、リオ」
小さな声でエマは言った。
お嬢様、なぜこのようなところに?たまには、街に出てみたいと思ったの。何かいけないことがあって?当然です、誘拐でもされたらどうするんですか!明日には結婚式なんですよ!……そんな会話が遠くに聞こえて、続いて、喫茶店のドアが開き、閉まる音がした。チリンチリンという鈴の音、お客さま、大丈夫ですか、と問う声と、しゃがんだ自分の肩に載せられる手の感触。
リオには結局、何もできなかったのだ。
ガチャリ、と小屋のドアを開ける音がした。こんな真っ暗な時間に、それもノックもなしで。リオのむしゃくしゃした気持ちの矛先は、自然とその来訪者に向かった。きっとろくな客じゃないだろう。その予想は大方当たっていて、そこにいたのはフォリスだった。
「危ない、危ない、間に合って良かったよ」
フォリスはまた大袈裟な言い回しでそう言った。間に合って良かった、と言いつつもゆったりとした足取りで。リオの手には、天井から吊るされた、先が輪っか状になった紐が握られていた。
「おおよそ予想通りの展開のようだね」
「放っておいてください」
「若い男の子が人生を棒に振るところを、黙って見放せる大人がいると思うかい?」
フォリスが言うとどうもしっくりこないセリフだ。
「ま、冗談は置いておいても、自殺なんかするもんじゃないよ」
冗談だったのか。やっぱりこいつといると調子が狂う、とリオは思った。
「どうでも良いでしょ。もう僕に、生きる意味なんてないです」
「エマ君がいなくなったからかい?重い男はモテないよ」
君に言っても無駄だろうけどと、そうフォリスは言った。リオはため息をつき、うつむいた。
「そもそも、そんな未練ばかりの状態で、彼女と離れることになった原因は何だい?」
「……僕が何も、できなかったから」
「できなかったんじゃないだろう、何もしなかっただけだよ。僕は別れがつらくならないよう、ヒントを与えたのに」
フォリスはリオの周りを歩いて回る。
「君は本当に馬鹿だ。悔やんでばかりで、何も行動を起こせてはいないじゃないか。結局、進展の一つすらなかったんだろう?」
彼は馬鹿にしたように笑った。
「初めに言った通りだね。余計な羞恥心が邪魔をして、自分が本当にやりたいことができずに、結局手遅れになるんだ」
「……それで、何しに来たんですか?」
リオが呆れ気味に聞くと、フォリスはすっと斜め上を向き、その後ため息をついて、
「最後の助言をしに来たのさ」
と言った。
「首吊り自殺は、君が本当にやりたいことかい?」
リオは何も言わなかった。フォリスは、リオの顔を覗き込む。
「そんなことをしたら、きっと君は後悔する。死んだら後悔もできないけれどね。じゃあ、どう考えるか。君が一番したいことをすれば良いんだ。もし、社会的な制約や、物理的な制約を、全て無視できたとして…そのとき、君がしたいことは何だい?」
そう言うフォリスの顔は挑戦的で、しかし、どこか真剣さを感じさせた。
「……エマを、攫いに行きたい」
リオは小さな声で、しかし確かに言った。フォリスは頷き、そう言うと思った、と言った。
「残念なことに、エマくんは今、自分の部屋から一歩も出られない状況なんだ。鏡と監視カメラを駆使して、部屋の外は死角がないように監視されている。そこに飛び込んでエマくんを攫うのは至難の業だ」
「え、でもそれって……」
フォリスはわざとらしく指をパチンと弾いた。
「そう、吸血鬼以外ならね。ミスター・スークスも、まさか侵入者がカメラに映らないとは思ってもいないだろう」
なかなか愉快だろ?とフォリスは言った。
「エマを連れ出すときは?」
「薔薇は鏡に映らなくなっても、その香りが失われるかい?」
リオは一瞬、何のことかわからなかった。が、少し考えて、それがエマを吸血鬼にすることを意味するのだとわかった。
「そんなこと、して良いんですか……?」
「どちらにせよ、本人に聞いてみないとわからないじゃないか」
さ、他に必要なものは?とフォリスは聞く。
「えっと…あとは、招待です。僕、吸血鬼なので」
うん、とフォリスは頷き、ポケットから封筒を出した。
「えっ、それ……」
フォリスはリオの言葉を手で遮った。
「さあ、仮にこの場に、エマくんからの招待状があったとしたら……君は今話し合ったことを、実行するかい?」
リオは少しうつむいて、数秒黙り込んだ。
「はい、します」
フォリスは、リオの顔をじっと見た。
「絶対だね?」
「……はい。」
リオは力強く答えた。もう、後悔はしたくなかった。
フォリスは、よし、と笑って、リオに封筒を差し出した。
「これ、本当にエマからなんですか?」
「女性っていうのは、鏡に映らないところに、何かしら恐ろしいものを持っているものでね。僕もあの少女には度肝を抜かれたよ」
細かいことは後でエマくんに聞くと良いよ、と言って、フォリスは戸惑うリオの背中を押した。リオは混乱を隠せないながらも、明確な意志を持って、走っていった。
コンコン、と扉をノックする。どうぞ、と言う、可愛らしい声が扉の中から聞こえて、リオはドアを開けた。
「リオ、やっと来てくれたね」
部屋の時計は、もう十一時三十分を指していた。
「……ごめんね、こんな遅くなっちゃって」
「ううん、時間ぴったり」
エマはベッドの脇の机の上に置いてあったティーポットから、傷ひとつないティーカップにお茶を注いだ。
エマの部屋にたどり着くのは、思っていたよりずっと簡単だった。招待状には屋敷の地図が同封されていたし、何より衛兵が一人もいなかったのだ。あとからリオがエマから聞いた話では、エマが衛兵の陰に隠れて逃げる可能性がある、とフォリスが提言したせいらしかった。より正確に言えば、エマがフォリスにそう提言させたせいだ。
「エマ、フォリスとはどう言うふうに話をつけてたの?」
そうリオが聞くと、エマは笑って、
「あの人、元々結婚するのが嫌で、一人で自由でいたかったらしいの。だから、今回の計画はあっさり受け入れてくれて」
と話した。
「……一緒に逃げるつもりなら、最初からそう言ってくれれば良かったのに」
リオは唇を尖らせて、不満げにそう言った。
「それじゃつまらないでしょ?」
エマはクスクスと笑った。本当に意地が悪い。でも、そんなところも好きだな、とリオは思った。
「僕が吸血鬼だってことは、いつから分かってたの?」
「ずっと前から。リオ、よく私の首元見てるでしょ?」
リオは今度も耳まで赤くなった。
「……そんなに見てた?」
「うん、見てた見てた」
エマは、楽しそうにそう言った。
「なんか、ごめん」
「大丈夫。気にするようなことじゃないし」
リオのカップが空になったのを見て、エマは、二杯目飲む?と提案した。リオが、お願い、と差し出したカップに、暖かい、華やかな香りのお茶を注ぐ。
「そういえば、昼間の話の続きなんだけどね」
「ん?」
「ほら、なんで今日のお化粧は嫌じゃなかったのか、ってやつ」
エマは少し笑って、こう言った。
「だって、リオは私のこと、ミス・スークスとは思ってないでしょ?」
「…そうだね。エマはエマだから」
二人は目を合わせて、ケタケタ笑った。無邪気に、そうあるように。
紅茶を飲み終えてなお、エマとリオの話題は尽きなかった。昔のこと。今日のこと。将来のこと。やっぱり、エマの隣にいる時が一番幸せだと、リオは思った。
「ちょっと、寒くなってきたね」
エマは寝巻きの様なものを着ていて、相当薄着だった。おまけに大きめのサイズなので、襟が大きく開いていた。その寝巻きのシルエットは、リオが着ている服のそれとよく似ていた。エマはティーカップを机の上に置くと、よいしょ、とかけ布団を引き寄せ、ベッドに座っている自分と、その隣に座っているリオの肩にかけた。二人とも布団に入れるようにと、エマがリオに近づく。リオは、自分の顔がほてるのを感じて、エマから視線を逸らした。布団からは、いい匂いがした。明るくて妖しい、春の宵の様な匂いで、リオはあごの下がむずむずするのを感じた。
「……ねえ、エマ」
しばらくして、リオが言った。
「本当に、噛んで良いの?」
リオは心配そうにそう聞いた。
「もし吸血鬼になったら、もう二度と人間には戻れない。正体を隠して、疎外感を感じながら生きなきゃいけない。……それでも、良いの?」
「うん、良いよ」
エマはリオの方を向いた。リオもつられて、エマの方を見る。
「自分を隠すのは、とっくに慣れてる。それに」
と、エマは照れくさそうに笑った。
「私には、リオが居るでしょ?」
エマの瞳には、リオの姿が、確かに映っていた。
運命で結ばれ合う、主人公とヒロインの様に。鏡越しに見つめ合う、実在と鏡像の様に。
リオにとってのそれはエマだけだし、エマにとってのそれはリオだけだ。昔から、そうだった。そして、これからも。
エマは立ち上がって、リオの方を向いた。
「さ、リオ。噛むの、噛まないの?」
明るく、可愛らしい声。それが質問でなく命令であることは、リオにもわかっていた。リオは、にやけた口元を隠して立ち上がった。エマの服はダボダボで、首元が大きく開いている。リオは、エマをギュッと抱き寄せた。とてもいい香りがして、リオの頭の中を満たす。リオは瞬きをして、口で小さく息をした。口を近づけ、一瞬躊躇い、そしてもう一度口を近づけて、首元を唇で覆った。柔らかな肌。少し、牙で触れてみると、エマは小さく笑って、
「くすぐったい」
と言った。その艶やかな皮膚を破るのが少し怖くて、リオは、目でエマの方を向いた。エマが頷く。なるべく痛くないようにと、リオは気を遣って牙を当て、プツンという感触がするまで動かした。暖かくて、甘い、血の味がした。
スークス邸は、朝から大騒ぎだった。当主の一人娘であるエマ・キデナ・スークスが消えたのだ。どの監視カメラを確認しても、昨夜から一切の変化は見当たらず、ただエマの部屋からエマが消えたこと以外には、何もわからなかった。
「ミスター・フォリス、本当にすまない」
「いえいえ。しかしまあ、不思議なこともあるものですね」
では私はこれで、と言って、フォリスは去っていく。その手には、誰も写っていない、夜の庭園の写真が握られていた。
Stare at me kyの友(雀商店) @kytomo
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