握手会

田中大牙(タイガーたなか)

第1話

 一人のアイドルがいた。

 彼女自身は全くの無名に等しいが、所属しているグループ名を聞けば誰しも覚えがあるだろう。ひところブームになった大所帯で知られるグループだ。

 今回語るのは彼女、いや彼女を推していたあるファンの話だ。

 このグループに関して特に悪名高いのが例の『握手券商法』だろう。

 私はこの握手会に魅せられた一人だ。

 ふとしたことから興味を持ち、この奇妙な世界に一時足を踏み入れた。最初は偏見交じりだったが、実際に己の身で体験してみると愉悦と好奇心の方が遥かに優り、たちまち魅入られてしまった。

 そしてこのグループに夢中になり追いかけたが、いつしかその情熱は不思議と消え失せてしまい、全く興味が無くなってしまった。

 これは私が熱心な、いわゆる『オタク』だった時代に体験した一種の『レポ』である。


 あれは三、四度目の握手会の時だったろうか。私は会場の隅で座り込み、そして静かな感動に打ち震えていた。

 初めて『認知』というものを体験したのである。

 認知とはメンバーから顔を覚えられ、「また来てくれましたね」と話しかけられるような関係になることを指す。オタクなら自分の『推し』から認知を貰うことは至上の喜びといっていい。

 その認知を、私はつい先ほど体験した。

 まさか認知されていると私自身は思っていなかった。というのも、前回の握手で何度か『ループ』(同じメンバーに何回も握手に行くこと)はしたが、その時手応えをあまり感じなかったのと、また半年以上空いた為、たとえ認知らしきものを得ていたとしても完全に切れているだろうと思っていたからだ。

 実はこれが私の心の中に暗い影を落としていた。その間足繁く通っていれば、今回あたり認知を貰えたかもしれないのに。沈んだ気持ちで、握手に向かった。

 私の順番が来てブースに入ったところ、出し抜けに向こう側から明るい声で言われた。

『久しぶり!』

 この時の気持ちをなんと表せばいいだろう――。

 一瞬何のことやら脳が認識せず、間抜けた声で思わず聞き返した。

「覚えているの?」

 勿論ですよ――私の手を握りこみ、そう返してきた。

 後はどんな言葉を交わしたか記憶が無い。気付けば握手が終わり、ふわふわとした気分で退場レーンを浮ついた足どりで歩いていた。

 そして大勢の人でごった返す中、会場の隅にしゃがみこみ、自分の手を見つめ、先ほどの出来事を頭の中で反芻していた。

 オタクにとって、やはり推しからの認知を得るとは特別な体験なのだ。おそらくその瞬間は一生の物になる。

 さて、握手券がまだ残っていた。

 握手会は部制となっており、一部で一時間半という風に時間が定められている。握手券もその部に対応したものしか使用できず、その部で使い切れなければ只の紙切れと化す。

 私はその時、当日指名券というものを持っていた。これはメンバー事前指定で無く、当日枠が完売していないメンバーに限り自由に握手ができる券だ。誰しもが知る人気メンバーには使えないが、まだ人気の出ていない若手など、その時に興味を持ったメンバーにふらっと行ける。

 だが、その時の私にとって取り立てて興味のあるメンバーがいなかった。先ほどの体験が鮮烈すぎたこともある。できればまた推しに行きたかったが、その部では完売しており使用できなかった。

 行き場を見失い、広い会場をさまよっていたが、気付けば一周し足が推しのレーンに戻ってきた。

 ふと隣のレーンを見ると、全く人が並んでいないことに気付いた。

 そのレーンのメンバーは私の推しと劇場やコンサートでユニットを組んだこともあり、多少興味があった。おまけに今なら並ばずに行ける。そう思うと足が誘い込まれた。受付まで向かい、当日券を差し出す。

 だがここで意外な言葉を聞いた。「当日券は使えません」と言うのだ。

 入り口まですごすごと引き返した。そこでレーン入り口のメンバー名が書かれている張り紙を見た。当日券が使えるメンバーには星印が表示されているのだが、確かにそれが無かった。

 狐につままれたような気分だった。私の推しはレーン一杯に人が並んでおり、これが完売というのは理解できる。しかし全く人が並んでいない(これを『過疎る』と表現するのだが)メンバーが同じく完売とはどういうことなのだろう。奇妙な光景だ。

 首を捻りながら、時間も差し迫ってきたので、仕方なく近くの適当なメンバーに駆け込んだ。結局喋ることもないので「はじめまして」という凡な会話で終わった。


 さてアイドルオタクとして初めての認知を得たわけだが、ここから握手会というゲームは面白くなる。

 私は握手会が終わったその日、すぐさま次回の握手会のCD――推しの握手券の追加購入を決めた。さすがに財政を圧迫気味なので握手券の購入を控えるつもりだったが、事態は変わった。早くも次の握手に行きたくてたまらなかった。

 そうして私はよりいっそう握手会に打ち込むようになった。

 その後、三回ほど握手会へ参加した。推しとの会話も連続性が出てきて、変化に富んできた。自分の中でも良対応をいくつか得た。握手の後、そういったレポをツイッターにすぐさまあげていった。こうすることでメンバー本人が休憩時間に目を通し、次の握手でそこからさらに会話が発展することもあるためだ。またこのやり方はアカウント名も自然と認識してもらえる効果がある。

 ところで、あの彼女のレーンをその後も意識して見てみたが、やはりいつも人がおらず『過疎』っていた。並んでもせいぜい数人、十人いくことはかなり珍しいい。それでいて完売という不思議な状況が何回かあった。

 気になった私は情報を集めていくことにした。

 まずネットの匿名掲示板に目を通した。『過疎』メンではあるものの、単独スレが立っていたので覗いてみた。書き込みは少なかった。現場で実感した通り、オタク自体少ないのだ。

 書き込みを見ていくと、完売に関する謎について少し触れられていた。スレの住民の推測によれば強オタ(強力なオタク)が買い占めているのだろうということだった。これについては私も同意だった。ありそうな可能性というとそれぐらいしかない。

 握手会は1部から7部に分かれている。件のメンバーは人気が無く枠も一つか二つしか無い為、買占め(それに近い行為)は比較的容易であると思われる。

 まあ大方そんなところだろう。だがここで次の疑問が出てきた。その買占めしているオタクの存在を誰も知らないというのだ。

 これは奇妙だった。それだけ買占めしたオタクなのに、現場で誰もその姿を見ない。まるで透明人間だ。

 大量の枚数があればループするだろうし、または複数枚を一気に出す『まとめ出し』を行う。まとめ出しについてはよくオタクが百枚一気出しなどやり、ネットで話題になる。まとめ出しについては長くメンバーと話したいというのもあるが、ここまで来ると他のオタクに見せつけることが目的といっていい。熱心(または厄介)なオタクとして周囲にアピールしたいのだ。

 スレを最後まで目を通したが、それ以上の有益な情報は得られなかった。オタクは本当に重要な情報はネットに書かない。現場で直接このメンのオタクたちから話を聞くしかないだろう。


 次の握手会の時、例の『過疎』っている彼女のレーンに向かった。推しのレーンの前にオタクが集まり会話をしているのは握手会でよく見られる光景だ。彼女のオタたちに直接話を聞いてみることにした。

 数人のオタクに私は話を聞いた(ちなみに話を聞くと匿名掲示板に書き込んでいたオタクもいた)。買占めているオタクの存在は彼らの間でも疑問ではあったが、しかし深く気にしてるわけではないようだった。その中の一人は言った。

「そりゃ使うのが面倒くさくなったんじゃないかな。俺だって捨てることよくあるもん」

「でも数百枚買って、使わないというのは考えにくいと思いますが……」

「今の時代、金は持ってる人間が持ってるし、そんな金持ちが買ってる。そんなところだよ。理解しにくいけどさ」

「本当にそのオタは来ていないんですか? ずっとここで彼女を見てるわけではないんでしょう?」

「そうだけど、なんだかんだで皆ここが居場所というか集合場所みたいになってるし。オタも少ないしループやまとめ出しする奴がいたらさすがに分かると思うよ」

 その時、その彼女の握手を終えたオタクが出てきた。黒いパーカーのフードを目深に被って俯きがちに歩き一目で根暗と印象付ける青年だった。

 私は彼に声をかけようとしたが、その雰囲気を察知されたのか、こちらを避け足早に立ち去ってしまった。

「典型的なコミュ障ってやつだな。ああゆうのはよくいるよ。こっちが話しかけても迷惑そうにしたりするしさ」

 他に彼女のオタクはいないか聞いたが、ここにいるのがほぼ全てじゃないかという答えだった。そんなに熱心なオタクはいないらしい。結局それ以上の情報を掴むことはできなかった。


 その後もネットで情報収集を続けた。いろいろ質問もしたが、有力な情報は得られなかった。グループ全体の知名度となると大きいのに、彼女個人となると誰も知らないし興味がないのだ。そのグループのオタクですら。

 そのうち次の握手会が迫ってきた。握手会の数日前、一人のオタクからフォローされた。プロフィール欄には何も無く、ツイートはメンバー、運営などのリツイートが主だった。現場の知り合いではないと思われる。私は何か引っかかるものがあり、フォローを返した。

 数分後、DMの通知が届いた。それに目を通し、私は驚いた。


 握手会当日。横浜の某会場。

 その日の握手を終えて、私は待ち合わせ場所へ向かった。観覧車を眺めながら、待っていると、声をかけられた。振り向くと、以前に見たあの黒いパーカーの不気味な青年だった。

 数日前、私をフォローしてきたのは彼だった。私が彼女のオタクについて調べまわっていることを、彼が知ったからだ。狭い界隈だからすぐに相手も気付くわけだ。

 付近のファミレスに移動した。最初は沈黙が続いたが、私の方から口火を切った。

「いったいどうして私に話をしようと?」

 彼が私に接触を持ちかけてきたのは、あの握手券買占めについて打ち明けたいという理由だった。

 彼は会話が苦手なようで、向こうから話したいというのにも関わらず聞き出すのに苦労した。しかし大体のことが分かった。

 彼自身についてだが親元でいわゆるニートのような生活をしてきた。だがある日両親が事故死。幸いに、というのも変な話だが多額の保険金が下りた為暮らす分には困らず、家で働かず一人で生活を続けていくことができた。

 両親が亡くなったが、特に社会に出て行きたいという気力も湧き上がってこないところ、ネットでたまたま彼女の画像を見て惹かれ、そのグループに興味を持った。

 何もせず時間があり余っていた彼にとって、そのグループの膨大な情報量を追いかけることは格好の時間潰しになった。日夜ネット上に無数に蓄積されたアーカイブを渉猟し続けた。

 しかしそんな彼でも握手会というものの存在には疑問があった。やはりアイドルはステージで勝負すべきではないかという考えが根強くあったし、握手会の対応がメンバーの人気を左右するという現実にも違和感が拭えなかった。

 とはいえやはり握手会自体には興味があった為、意を決して握手券を購入した。せいぜい一枚か二枚だ。認知されることに興味がない、というより具体的に想像ができなかった。むしろ実際に現場に行かないと他人のレポなど理解しにくい点がある為、勉強の意味合いが強かった。

 それが三回目か、四回目の時、向こうの方から「また来てくれましたね」と声をかけられた。

 彼はこれに衝撃を受けた。まさか認知というものが自分にあるはずがない。そう思いこんでいた。

 (これに関して私なりに分析すると、それだけ彼女のオタクが少なかったということが挙げられるだろう。また彼は自分のことを目立たない人間だと卑下していたが、その極端な卑屈さが故に逆に周囲から不気味に目立ってしまっていることにまるで気が付いていない)。

 握手を終えた後、彼は味わったことのない感情に包まれていた。それまで応援しているという感覚はまるでなかったのだが、それが反転した。自分が彼女を応援している、自分が他人の人生の一部として関わっているのだという実感を初めて手にした。先ほどまで彼女と握手していた手に、彼女の手の感触がまだ残っているのが感じられた。

 その感覚にいつまでも浸っていたく、握手会の終わりまでずっと会場に残っていた。

 だが幸せな感情は長く続かなかった。帰路に着き、彼は次第に不安に駆られた。時間が経てば、自分の中でこの感覚も風化していく。今日は認知があったとしても、彼女も自分のことを忘れてしまうかもしれない。あの一瞬を特別なものとしてずっと残しておきたい。

 そこから彼はおかしな考えに至った。それが握手券の買占めだ。彼女を他のオタクと握手をさせないことで記憶を上書きさせないようにしたい。そう考えたのだ。

 馬鹿げたアイデアだった。しかし一度その考えに取りつかれたら、頭から離れなくなってしまった。そして実際に行動に移した。オタクが少ない彼女の券を買い占めるのは思った以上に容易かった。大量に買い占めた券を使うことは考えなかった。度を越えたループ、まとめ出しにより彼女から厄介なオタクと思われたくなかったからだ。

 しかしいくらなんでも本当に全てを買い占めることは不可能で、他のオタクが握手に行くことを完全に止められるわけでない。資金も限界に近づいていたどこかで終わりにしなければならない。最後の告白の相手として私を選んだわけだ。

 こうして話は終わった。


 ……以上がこのレポの顛末である。

 その後、彼がどうしたか知らない。しかし彼女の握手券の完売という現象についてはその後ぱったりと無くなった。

 だが、それで彼女の元へ握手に行くオタクが増えることはなかった。いつも人は並ばず、常に『過疎』っていた。

 そのうち彼女は卒業を発表し、グループを去っていった。 グループにいたときと同じで、卒業したときも大して話題にはならなかった。

 握手会から彼女のレーンはなくなった。あのレーンの前にいたオタクらはそれぞれ新たな推しを見つけ、他のメンバーの前へ移動していった。私はレーンの前で仲間と談笑している彼らをその後何度か見かけ、そのたびにあの孤独な青年の姿をふと思い出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

握手会 田中大牙(タイガーたなか) @taiga_tanaka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る