夢の残響と緑の部屋 1
桜宮愛梨は、バイト先のコンビニのバックヤードで、棚に並べる前のカップ麺の山をぼんやりと眺めていた。
時計は午後三時を過ぎたところ。秒針のカチカチと進む音が、静かな空間に小さく響いている。
外は薄曇りで、春の陽気とはいえどこか肌寒く、窓の外を通り過ぎる人々のコートやマフラーがまだ冬の名残を漂わせていた。バックヤードの蛍光灯は少しチラつき、薄暗い壁には商品の在庫リストがテープで貼られている。
愛梨の手には、さっき客が文句をつけて返品してきたスナック菓の袋が握られていた。
袋の角が少し潰れ、黄色いパッケージに印刷されたキャラクターが歪んで見える。
彼女はその袋を無造作にバックヤードに持っていくと、深いため息をついた。
「人生何が起きるかわからないって言うけどさ……こんな底辺で安定してるのも、ある意味予想外だよね」
現在、二十九歳。声優を目指して上京してから約十年が経つ。
彼女の夢は、幼い頃に見たアニメのヒロインに憧れたことから始まった。
テレビから流れる明るい声、感情を揺さぶる演技――『私もあんな風になりたい』と、愛梨が決意したのは小学五年生の時だった。
中学では演劇部に入り、初めて舞台に立った時の拍手は今でも忘れられない。
高校では放送部で主にナレーションを担当し、文化祭等のアナウンスで『声がいいね』と褒められたことが自信になった。
大学には進んだものの、メインは勉強よりも上京することが目的だった気がする。お年玉の貯金等を握りしめて養成所に入ったあの頃は、確かに希望に満ちていた。
オーディションにも何度か引っかかった時期もあった。
アニメのモブキャラで『キャー!』と叫んだり、深夜のラジオCMで『今すぐお電話を!』とテンション高く喋ったりした。
初めて自分の声がテレビから流れた夜は、嬉しくてアパートで一人、枕に顔を押し付けて叫びながら喜びを爆発させた。
でも、それも長くは続かず、デビューできたのは端役ばかり。
名前がクレジットに載ることさえ稀になっていき、やがて仕事は途切れ、養成所の同期たちが次々と事務所に本所属していく中、愛梨は仮所属から準所属までには行けたもののそこで取り残された。
結局、生活のために始めたコンビニバイトがメインの収入源になった。週四日、一日数時間のシフト。時給は最低賃金ギリギリの収入だった。
夢はどこか遠くに霞み、日常は単調な繰り返しに埋没していた。
バイト先の店長は五〇代の無口な男で、愛梨のことを真面目だけど暗い、と評していた。
客からは『もっと笑顔で接客しろ』と小言を言われることもあり、特に忙しい夕方には『袋に詰めるのが遅い』と苛立たれることもあった。
でも、愛梨にはそんな気力はない。
笑顔を浮かべるたびに、自分の夢が遠ざかっているような錯覚に襲われるからだ。
今日も、返品騒ぎを起こした中年女性に『ちゃんと確認してよ』と睨まれたわけだが。愛梨は『すみませんでした』と機械的に謝るだけだった。
その声は低く、気だるげで、自分でも嫌になるほど感情がこもっていなかった。
身長百四十八センチのロリ体型。
童顔で、バイト先でもよく高校生と間違われる。髪は肩まで伸びた黒髪だが、手入れが行き届かず、毛先が跳ねて絡まっている。
愛梨の声はいわゆるアニメ声とか萌え声とか呼ばれる類のもので、甲高さの中に柔らかく甘いニュアンスが混ざっているかなり特徴的なものだ。
もっとも、今現在はダウナー系のトーンが混じっているせいで、今ではやる気がない、と誤解されることの方が多いが。
鏡を見るたびに思う。こんな体型じゃ、ヒーローにもヒロインにもなれなず、せいぜい妹キャラ止まりだと。
養成所時代、講師に『声質が個性的だね。独特の落ち着きがあるし、可愛い系も狙えるしいい声だ』と言われたことがあったが、その〝可愛い〟がいつしか足枷のように感じられるようになっていた。
愛梨が上手く上に行けなかったのは愛梨よりもロリ声が格段に上手い先輩が少し上にいたこともあるだろう。運の悪い役割被りだ。
せめて、十歳ほど離れていれば出演料を含め様々な部分で差が出るため、愛梨にもチャンスがあったのだろうが、その先輩はすでにネットやラジオで可愛い声の持ち主として絶賛売り出し中だった。
愛梨自身ももっと個性を磨くなり、付加価値を高められればよかったのだが、バイト・大学・養成所という生活サイクルをうまく回すだけで精一杯だった。
服はバイトの制服以外、古着屋で買ったパーカーとジーンズばかりだ。
今日着ているグレーのパーカーは袖口が擦り切れ、ジーンズは膝に薄い染みが残っている。
流行りのファッションなんて縁遠く、化粧も最低限。大半はマスクをしているし、その方が楽だから。
財布には千円札が二枚と小銭が少ししかない。月末まではあと五日。
どうやってやりくりしようかと考えるだけで疲れる。
バイトが終わり、愛梨は制服のエプロンを脱いでロッカーにしまい、くたびれたカバンを肩に掛けた。
ロッカーの扉には誰かが貼ったアイドルのシールが剥がれかけていて、それが妙に虚しさを際立たせる。
外に出ると、冷たい春の風が愛梨の頬を撫でる。遠くでは電車の音が聞こえた。
駅までの道のりは徒歩で約一五分。
愛梨の住むアパートは築三〇年を超える木造二階建て。
家賃こそ安いものの、外階段は錆びつき、軋む音が毎回不気味に響く。
部屋は六畳の1Kで、フローリングには傷が目立ち、壁も年季が入って薄汚れている。
風呂は狭いユニットバスで、シャワーの水圧が弱く、冬場は特に寒さが堪える有り様だ。
家具はシングルベッドと小さな折り畳みテーブル、プラスチックの衣装ケースだけ。
テレビはないが、古いノートパソコンがテーブルの上に鎮座していた。
ネットはポケットWi-Fiを使っており、速度が遅く重い動画はカクカクすることもある。アパートの窓からは隣のビルしか見えず、薄汚れたベージュのカーテンが虚しそうに揺れていた
帰宅した愛梨は、靴を脱ぐのも面倒で玄関に放り投げ、スマホを充電器に挿してベッドに倒れ込んだ。
(あー、このまま寝たい……けど、お腹すいた――なんかあったかな?)
冷蔵庫には適当に突っ込んだインスタント味噌汁の袋が三つと、昨日の半額シール付き弁当が残っているだけ。
(ないよりましか……)
弁当の蓋を開けると、冷えたご飯と少し硬くなった唐揚げが寂しげだ。
風呂に入る気力もなく、弁当を電子レンジに入れて温めている間に寝巻き代わりのヨレヨレのTシャツに着替える。
Tシャツには昔好きだったアニメのキャラクターがプリントされていて、色褪せたその姿が愛梨の現状を映しているようだった。
(もう全部やめようかな……)
チンされて一応温かくなった弁当をモソモソと食べながら、愛梨は内心でそんなことを考える。
声優の仕事などすでに半年以上やっていない。本当に事務所に所属しているという感じだった。このままレッスンを続けたところで仕事が来るとも思えない。
事務所を辞めるならバイトも辞めて実家に帰ってしまおうかとも思ってしまった。
(うう、帰れる実家があるだけマシと思うべきか。帰ったらどうなるかわからないから嫌だと思うべきか……)
そんな昔気質の家ではないが、このまま帰ればお見合い+花嫁修業なんてこともあり得るかもしれない。
(そうなったら、そうなったと考えるしか無いか……はあ、今から急に仕事の連絡なんて来ないかな)
半ば現実逃避でそんなことを考えると、スマホが短く振動した。通話アプリの通知のようだった。
愛梨が思わず仕事か!? と自分のスマホを引ったくるように掴んで開いてみるもがっくりと肩を落とす。
仕事の連絡ではなく、身内からの連絡だった。差出人は母親だ。
(お母さん!? なんで!?)
便りのないのは良い便りなんていうが、特に仲が悪いわけでは愛梨たち親子は用事がなければロクに連絡を取らないタイプだった。
(まさか、帰ってこいとか? それなら、それでちょうどいいかもしれない)
母親に伝えることも覚悟してアプリを開いてみるも全然予想していた内容と異なっていた。
〝アンタの連絡先、
そんな文章に続けて、手を上げたちびキャラのスタンプが表示されていた。
それを見た愛梨も適当なスタンプで返事をしておく。すでに教えてしまったという事後連絡ならわざわざ文章を打つ必要もないだろう。
(心音って誰だっけ? 聞き覚えはあるんだけど……)
弁当を食べ終わった愛梨はベッドに横になりつつ、母親が自分の連絡先を教えた〝心音〟という名前の少女が何者なのか考えていた。
ゴロゴロと転がる中で愛梨は過去のことを思い返していた。
そういえば、昔、親戚の集まりであったことがあるかもしれない。
でも、それ以外にも何か……。
(あったよう……)
ベッドで考え込むうちにうたた寝をしてしまった愛梨を起こしたのはまたもやスマホの通知だった。
目を細めて画面を見ると、差出人は〝心音〟――
〝愛梨ちゃん! 久しぶり! 元気だった? 急だけど、明日会えないかな? 大事な話があるの!〟
メッセージにはハートとキラキラの絵文字が並び、その陽気さが画面越しにも伝わってくる。愛梨は一瞬眉をひそめた。
(久しぶりの連絡にしては急なうえに馴れ馴れしい。この感じ――思い出した)
短いメッセージにも人間性というものは宿るものだ。
愛梨は完全に心音のことを思い出していた。
心音とは幼い頃によく遊んだ仲だが、ここ一〇年近く会ったような覚えはない。
母方の叔母の娘である心音は、愛梨の再従姉妹という遠い親戚だ。
愛梨達の家は今の時代ではやや珍しく正月には親戚が多く集まる。
大人たちこそ忙しそうだったり、世間話をしている傍ら暇だった子ども組は何人かのグループに分かれて遊んだり、一人でゲームをしている子もいた。
そんな中、心音は愛梨と九歳ほど離れていたものの、子供の頃二人で過ごした時間が多かった。
年上の自分に物怖じせずに『絵本読んで!』と言い放ってきた心音に苦笑しつつも、当時でできる限りの演技力で朗読したところ、
『……すごい! 愛梨ちゃん! 魔法みたい!』
と満面の笑みで喜んでくれたのだ。
(そうだ、あれが声優を目指す最後の後押しになったのかもしれない)
今にして思い返して見れば、愛梨にとって心音が自分の声で喜んでいるのがものすごく嬉しかったのだ。
そんな思い出が頭をよぎるが、今となっては過去のことだ。誇れるような声優にも慣れていない自分に突然の連絡。
どこか裏がある感じがするも考えるのも面倒くさい。
「……何だよ、大事な話って。借金のお願いとか?」
愛梨は半分冗談で呟きながら、気だるげに返信を打った。指がスマホの画面を叩く音が、静かな部屋に小さく響く。
〝明日ならバイト終わりの夕方でいいよ。まさか借金の連帯保証人とかじゃないよね。私、お金ないから無理だよ。その他に何かヤバい話なら先に言っといて〟
送信ボタンを押すと、すぐに既読がつき、心音からの返信が飛んできた。
〝ヤバくないよ! 私が愛梨ちゃんに変なことするわけないじゃん! 超いい話! じゃあ明日六時に駅前のカフェ〝フェリチータ〟で! 楽しみにしてるね♡〟
「いや、知らんて。はぁ……陽キャって疲れるね」
再び適当な返事を打つと愛梨はスマホを枕元に放り投げ、グデっと態勢を崩して目を閉じる。
(そういえば、前からこんな感じだったけ……)
心音は絵本を読んでいるときも、『次! 次!』とせがみ、愛梨が疲れてくると『もうちょっとだけ!』と笑顔でねだる。
そんな関係がどこか懐かしくもあり、面倒でもあった。
眠りに落ちる間際、愛梨は心音の「大事な話」が何なのか、ぼんやりと考えていたのだった。
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「わっ、返事はやーい。ふふっ、楽しみだね愛梨ちゃん。絶対に私が――」
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