プロローグ

 年齢は、わたしよりも明らかに上だとわかる。恐らくは二十二、三歳くらい。


 女子のわたしでもその気になって突き飛ばせば、割と簡単に押し倒せるのではないかと思えるくらい細身の体型をしていて、その上に季節外れの黒い薄手のコートを纏っている。


 色白で、体躯に合わせているかのような細い目を更に細めて周囲を見回すその姿に、わたしは恐いという感情や警戒心よりも、何故か綺麗な人だなという感情が一瞬だけ早く湧き上がった。


 細く白い指を顎へと当てて、男の人は何かを思案するような様子を見せていたが、やがて彷徨わせていた視線をわたしへと固定し、不思議そうに首を傾げる仕草をした。


「これはまた珍しい。こんな所に、生きた人間がいるとはね」


「……は? え?」


 まるで珍獣でも見つけたような口振りで呟く男の人に、わたしは返す言葉も思い浮かばず、ただおろおろとすることしかできない。


 そんなこちらの態度はさほど気にする風でもなく、男の人は足音を立ずにゆっくりとした動作で近づいてくると、一メートルほどの距離を空けて足を止め、絵画でも鑑賞するような眼差しでわたしを観察し始めた。


 あまりにも不躾なその態度に若干の不快感が込み上げたものの、文句を口にするきっかけを掴めず、わたしはただ見られるがままに立ち尽くしているだけだったが、やがて


「……なるほど」


 何かに納得したのか、男の人は短く呟きをこぼすとようやくわたしから視線を逸らして、すぐ横にある空き地へと顔の向きを変えた。


 そこからまた数秒間、男の人は雑草以外は何もない空き地をジッと眺めて、合点がいったと言いたげに何度か小さく頷く仕草をしてみせた。


「やはり、きみがトリガーになっているんだな」


「え?」


 わたしに向き直り、男の人は意味不明な言葉を放ってくる。


「きみ、名前は?」


「あ……えと、瓜時かじ陽奈乃ひなの、ですけど」


「瓜時さん、か。では、瓜時さん。きみに一つ質問するが、きみはここ最近、頻繁にこの空間へ迷い込んだりはしていないか?」


 そう問われて、わたしは驚きで顔を強張らせた。


 この何も変化が起こらない無人の空間に人が現れたこと自体初めての出来事なのに、男の人はわたしが既に何度もここへ入り込んでしまっていることを言い当ててきた。


「は、はい。二週間くらい前から、突然ここに迷い込むようになってしまいまして。あ、あのぉ……ひょっとして、あなたはここがどういった場所なのか、ご存知なんですか?」


 突如として現れた、どこの誰かもわからない相手である以上、警戒心は抱いたまま、わたしは質問を返した。


「ああ。こうして実際に巻き込まれるのは、初めてだけどね」


「――っ! そ、それじゃあ、ここからすぐに抜け出す方法とかも知っていたりするんですか?」


 あたかも当然といった風に答えてくる男の人の返答に、わたしはつい身を乗り出しそうになる。


「もちろん。抜け出す方法も、この空間へきみが迷い込んでしまう原因も、全てわかるよ」


「わたしが迷い込む原因? 何ですか、それ。偶然か何かで巻き込まれているわけじゃないってことですか?」


「それはそうだろう。まぁ……正確に言えば、本当に単なる偶然や不運で迷い込んでしまう人も、ごく稀に存在しているのは事実だけど。少なくとも、きみはそうじゃない。明確な目的があって、ここに呼ばれている」


「呼ばれて? ……って、誰にです?」


 この謎の空間には、今までずっとわたし一人きりだった。


 呼ばれていると言われても、肝心の主はいったいどこにいると言うのか。


 そもそも、こんな不可思議な場所へ呼び込む存在が、普通の人間とも思えないけれど……。


 色々な疑問と不安を頭の中で混ぜ合わせながら返答を待つわたしの耳に、男の人の静かな声が流れ込む。


「さっきから、そこにいるだろう? 見えにくいのかもしれないが、集中しながらよく目を凝らして見ることが大事だ。相手は、ずっときみのことを見ているぞ」


「え?」


 言いながら、男の人が細い指で示したのは、先ほどまでわたしが見つめていたただの空き地だった。


 人はおろか、何一つ目ぼしい物すら存在しないその場所に、わたしをここへ迷い込ませる犯人がいると言われても、どこを見てもそれらしい人影は――。


「――ん?」


 いた。


 わたしが立つ位置から、右斜め前。生い茂る雑草の隙間から、ジッとこちらを見つめる目が二つ。


 それと目が合った瞬間、わたしはまるで頭の中に突風が吹いたかのような鮮烈な感覚に襲われ、それと同時に忘れかけていた遠い記憶が沼の底から射出されるかの如き勢いで蘇ってきた。


「……まさか、あなた……よしふみ?」


 忘れかけていた幼き頃の記憶から抽出された、懐かしい名前を口に出す。


 わたしに名前を呼ばれると、茂みに隠れるようにしていた相手――よしふみは、嬉しそうに目を細め、幼い頃に聞いた声と変わらない懐かしい声を返してきた。

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