第2話 貧にして楽しみ、富みて礼を好む
子貢いわく、貧にして
一
人はなぜ頑張るのだろう。頑張った先に、何が待っているというのだろう。
その答えはわからなかったけれど、私は頑張っていた。
空を飛ぶ私の目の前には、赤く光る眼、巨大なあごから覗かせる濃い緑色の鱗で覆われた肌、二足歩行する太い脚を持った怪獣がいた。
「今だよ、仁乃ちゃん!」
胸元にグリーンの大きなリボンのついた白い光沢のあるトップスに、リボンと同じ色のプリーツスカート、純白のブーツ、手袋にステッキという格好で私の前を飛ぶ陽葉梨が振り返って叫ぶ。
「うん! 力足らざる者は、中道にして廃す。
私が手にしたステッキから深紅の光線が放たれる。私が放った渾身の一撃は怪獣の肩口に直撃したが、怪獣はまったくひるむことなく、こちらへ向かってきた。
「あ、あれ?」
「黙して失業の徒を思い、因りて遠戌の卒を
私の失敗に間髪入れず陽葉梨が叫ぶと、グリーンの光線が怪獣に命中し、怪獣は喚声をあげて消えた。
私はほっとすると同時に、かすかな胸の痛みを感じた。
そのとき、怪獣の後ろを飛んでいた荘子の腕の中で、気を失っていた陶淵明が意識を取り戻した。
「またあなたたちか。この前話したことをもう忘れたというのか」
陶淵明が私と陽葉梨に刺すような視線を向ける。
「ごめん、陶淵明さん。私、やっぱり陶淵明さんの記憶を消したくない。記憶を消さずに陶淵明さんを助けたい」
この前と打って変わって堂々とした陽葉梨の口ぶりに、陶淵明の表情が険しくなる。
「どうあっても主張を変える気はないということか。いいだろう。私とあなたたち、どちらが正しいのかは最終的な勝敗が決めることだ」
そう言うと、陶淵明は荘子とともに飛び去って行った。
「今日はごめん、陽葉梨」
「気にすることないよ、仁乃ちゃん。最初のうちはそう簡単にうまくいかないものなんだから」
私の隣で陽葉梨がこともなげに言った。電車の走行音が会話の空白を埋めていく。文芸部の部室にいるときに怪獣の暴走が発生したので、帰りの電車の中では二人の魔法少女によって反省会が開催されることになった。といっても、反省すべきなのは私だけなのだけれど。
最近では陽葉梨と一緒に帰るのが日課になっていた。陽葉梨と話すのは楽しかったけれど、同時に魔法少女について話すのはある種のうしろめたさを伴うものだった。魔法少女として戦い始めてからというもの、私はずっと戦いで貢献できず、陽葉梨の足を引っ張っていたからだ。
「最初のうちって言っても、戦うのはこれでもう五回目だよ。私の攻撃、今日も全然効いていなかった。そろそろまずいでしょ。陽葉梨だって最初に魔法少女になったとき、今の私よりは強かったんじゃない?」
私が目線を陽葉梨に向けると、陽葉梨は遠い目をした。
「最初のころか……。全然弱かったよ。友達が記憶を消すのを止められなかったのは、そのせいなんだ」
陽葉梨の友達のことは前にも聞いたが、陽葉梨でも弱かったというのは意外な感じがした。自分が魔法少女として戦ってみるとわかる。今の陽葉梨の魔法少女としての力は、それこそ私なんて比較にならないくらい、とんでもなく強い。そしてそのことを意識すると、なぜか胸が痛んだ。
「陽葉梨でもそうだったんだ。じゃあ、どうやって今みたいに強くなったの?」
「魔法少女に変身する力のもとになるのは、魔法少女が心に抱えているもの――荘子さんに言わせれば『我執』ってことになるんだけど――で、古典を媒介に変身するっていうのは前に話したよね」
「うん。ってことは、抱えているものが大きくなったってこと?」
「それもあるんだろうけど、もうひとつ媒介となる古典の方も大事で、古典との親和性が高まるほど、魔法少女としての力も強くなるんだ。『我執』ばっかり強くなっちゃうと、それは怪獣の暴走にもつながるから、『我執』が強くなればいいってものでもないんだよ。バランスが大事っていうか」
「ふうん……」
ということは、陽葉梨は杜甫の詩を相当読み込んだのかもしれない。逆に言えば私は、まだまだ「論語」との親和性が足りないということなのだろう。
「勉強するしかないな」
「勉強、つき合おうか?」
「え、いいの?」
漏らしたつぶやきに思わぬ反応が返ってきて、私は身を乗り出した。
「もちろんだよ。仁乃ちゃんが強くなるのは私も嬉しいし。何なら、今やってもいいよ」
「え、今? どうやって?」
「『論語』は持ってる?」
「うん。これ」
私は鞄から取り出した「論語」を陽葉梨に渡した。
両手で受け取った陽葉梨がページをめくる。
「じゃあ、今から私が『論語』の言葉の現代語訳だけ言うから、仁乃ちゃんはその言葉を言ってね」
「なるほど。いいよ」
確かに、受験勉強でも知識を定着させるためにはテキストを眺めるだけではなく、どんどん問題を解くことが大事だ。現代語訳だけ聞いて論語の言葉をすらすら言えるようになれば、論語の思想が染みついたということになるだろう。陽葉梨が提案した方法は理にかなっている。
「いくよ……。知識や情報を得ても思考しなければ、どう生かせばいいのかわからない。逆に、思考するばかりで知識や情報がなければ、独善的になってしまう」
「学びて思わざれば、即ち
「正解。じゃあこれは? 昔の学徒は、自己を鍛えるために学ぶことに努めていた。今の学徒は、他人から名声を得るために学び努めている」
「うーん……確かそんな言葉があった気がするけれど、なんて言ったか忘れた」
「正解は、『古の学ぶものは己の為にし、今の学ぶ者は人の為にす』でした」
「それかあ。確かにそんなのあったな」
「じゃあ、次行くね。君子は和合するが雷同はしない。小人は雷同はするが和合はしない」
「あ、それはわかる。『君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず』」
「正解!」
やってみると結構面白い。冷静に、電車の中で論語の言葉を言い合う女子中学生ってどうなんだろうと思ったけれど、この際どうでもいい。
そのとき、私の頭にふと疑問が浮かんだ。
「そういえば陽葉梨は古典を読んでいるんだよね。それなら、論語の言葉をこうやって問題に出しても答えられる?」
「どうだろう、読んではいるんだけど、こんなふうにやったことないから……」
「試しにやってみようか。貸して」
私が手を差し出すと、陽葉梨は「論語」を律儀に両手で渡してきた。攻守交替。
「賢人は迷わない。人格者は心静かである。勇者は恐れない」
「知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず」
陽葉梨が淀みなく答える。
「すごい。じゃあこれは? 君子は口下手ではあっても、人の道はすぐ実践したいと願う」
「君子は言に訥にして、行いに敏ならんことを欲す」
「正解……」
さすが陽葉梨。でも、これはどうだ。
「道徳における中庸の位置は、この上ないものだ。しかし、人々は中庸を欠いて久しい」
「中庸の徳為る、其れ到れるかな。
陽葉梨があっさりと答えて、私は面食らった。
「すご……」
「意外と答えられるものだね」
陽葉梨が恥ずかしそうに笑う。私が一年間無為に過ごしているうちに、陽葉梨はきっとたくさん古典を読んだのだろう。私は陽葉梨の知識量に感心すると同時に、なぜかまたかすかな胸の痛みをおぼえた。
二
翌日の朝、駅から学校へ向かって歩いていると、陸上部員がグラウンドを走っているのが目に入った。駅から学校への通学路はちょうどグラウンドの横を通る格好になっているので、毎回の登校時と下校時にはグラウンドで部活に励む生徒たちを見ながら歩くことになる。
私がグラウンドの横を通ると、この前見かけた短髪の少女が短距離を走っているところだった。長い手足を生かしたしなやかなフォームは美しく、見ていて惚れ惚れするほどだった。何より、走っているときの少女の顔がとても楽しそうに見えた。
自分も、あんな風に頑張れたらいいと思う。この前は頑張っていない自分を見たくなくて、その言葉を胸の奥底にしまい込んだ。でも今は違う。一度頑張らなくなってしまったこんな自分でも、もう一度頑張ってみたい。
「どうかした?」
少女から急に声をかけられて、私はどぎまぎした。あまりにぼんやりとしていて、少女の方でも私に気づいてこちらに近づいてきているのに、気づいていなかった。
「あ、お邪魔してすみません。走っている姿がきれいだったので、つい見とれて……」
へどもどした答えを返す私を見て、少女がさわやかに笑った。
「邪魔なんかじゃないよ、ありがとう。でもそんなことより、そんなに緊張しなくていいよ。見たところ二年生だろう? 私も二年だから、敬語じゃなくていいよ」
「あ、うん……」
返事をしつつ、間近で初めて見る少女のことを私は観察した。髪型は短く整えられている。伸ばして着飾ろうなどとはこれっぽっちも考えていなくて、きっと走ることしか考えていないんだろう。体操着から伸びる日焼けした筋肉質の長い手足だって、一朝一夕に築かれたものではない。
「どうしたら……どうしたらそんなに頑張れるの?」
「え?」
「あなた、いつもこのグラウンドで走っているよね。なんでそんなに頑張れるの?」
急にこんな質問をして変に思われるかもしれないと思ったけれど、少女はとても真剣な顔つきで考え込んでいた。
「そうだな……楽しいから、かな」
「楽しいから……」
「うん。楽しいから頑張れるんだと思う」
楽しいから頑張る。私は自分の記憶をたどった。楽しいから勉強しようと思っていたときが、自分にもあった気がする。でも、それはもう遠い昔のことのような気がした。
「走るのは楽しい?」
「うん、楽しい。走っていると風と一体になれる感覚があって、それがたまらない。その感覚はいつもあるわけではなくて、うまくいったときにしか感じられないんだ。だからこそ、その感覚が来たときは本当に楽しい」
そこまで言ってから、少女の顔に影が差した。
「でも、ずっと楽しめるのは才能だよな」
「え……?」
「もともと、誰が一番速いか、どちらが速いかなんて二の次のことで、私は走るのが楽しければそれでよかったんだ。でも、競技である以上、どうしてもそういうものがつきまとってしまうからな。そういう中で純粋に走ることを楽しめたら、どんなにかいいだろうと思う」
「……」
チャイムが鳴った。
「すまない、話し過ぎた。私はもう行く」
「う、うん。またね」
私に手を振ると、あわただしく少女は去っていった。
最後に影が差した少女の表情がなぜか目に焼きついていた。また、あの少女とこうして話せるだろうか。
教室に着いてから、少女の名前を聞き忘れたことに気がついた。
その日の放課後、私は陸上部の少女とのやりとりを陽葉梨に話した。
「何のために頑張るか?」
陽葉梨は読んでいた本のページを閉じた。
「うん。あの子は『楽しいから』って言っていた。でも、『ずっと楽しめるのは才能だ』って。楽しいのが頑張る理由だったら、楽しくなくなったら頑張れなくなっちゃうと思って。じゃあ、『楽しいから』以外の頑張る理由があるのかなって」
ふと疑問に思って私は聞いた。
「陽葉梨は勉強も魔法少女も頑張っているよね。なんで頑張っているの?」
陽葉梨は黙って考え込む表情になった。まっすぐな目だった。
「……怖いから、かな」
ややあってから陽葉梨が口を開いた。
「前にも話したけれど、古典を読むのは自分の考えに自信がないからなんだ。もろい自分の考えも、古典に書かれた昔の人の考えに触れると固まる気がする。古典を読まないのは怖くて考えられない。読んでいないせいで自分の考えが固まらないのが怖い。どうしていいのかわからないのが怖い」
いつの間にか、陽葉梨の声は沈んでいた。
「勉強をするのもその延長で、勉強すれば知れたことを、勉強しないせいで知らないままになっちゃうことが怖いんだと思う。知っておくべきことを知らないせいで、どうしていいかわからなくなるのが怖い。そう思うと、勉強せずにはいられないんだ」
「そうなんだ……」
陽葉梨がそんな想いを抱えていたなんて知らなかった。私はどうだろうと考えて、今まで「何もしない」ことをしたいと考えてきたことを思い出した。どうしていいかわからなくなることを恐れる陽葉梨に対して、自分がひどく小さく思えた。
「真面目なんだね、陽葉梨は」
「……真面目なんかじゃない。怖がりなだけだよ」
「怖がりなだけでそんなに勉強しないでしょ。この前のテストの成績、学年何位なのよ」
陽葉梨の声があまりに暗いトーンだったので、私はあえて冗談めかして言った。
「三位」
「……え」
「この前は三位だった。かなり勉強したから……」
唖然とした。何だ、それは。そんな自信なさそうな口調で、それで順位が三位って。
「もう、そんなに暗く自分の順位を言う三位の人なんていないよ」
私は冗談らしい口調を続けたけれど、なぜか胸の奥でまた痛みを感じた。どうしてそんな痛みを感じるのか、わからなかった。
胸の痛みと同時に、私はある種の空恐ろしさを感じていた。前と違って、私も頑張りたいと思うようになった。でも、頑張る理由は何だろう。
陽葉梨は怖いから頑張っている。じゃあ私は?
そう思ったとき、世界から音が消えた。
「仁乃ちゃん」
「うん」
私たちは顔を見合わせると、私は論語、陽葉梨は杜甫の詩集を掲げて、魔法少女に変身した。
私は深紅の、陽葉梨はグリーンのコスチュームに身を包む。
教室の外に出ると、この前見たのと同じ、表彰台の置かれたグラウンドが周囲に広がっていた。この学校のグラウンドだけど、今の学校にあるグラウンドではない。陶淵明の記憶の中のグラウンドだ。そのグラウンドの中央で、一位、二位、三位の順位が書かれた表彰台に向かって怪獣が進む。
表彰台の上には、ぼろぼろになったスパイクがこの前と同じように置いてあった。
「やはり来ましたね」
怪獣の背後で冷たい笑みを浮かべつつ、荘子が言った。荘子の腕の中には、いつものように気を失った陶淵明がいた。
「陶淵明さんは自分で我執を捨てたいと思っているのに、あなたたちは彼女を止めるのですね。価値観の押しつけではないですか」
「確かに、押しつけなのかもしれない。でも、私は記憶を捨てずに陶淵明さんを助ける方法を見つけたい。陶淵明さんと話したい」
陽葉梨が凛とした口調で言う。
私は「どうしていいかわからなくなるのが怖い」と陽葉梨が話していたことを思い出した。今の陽葉梨は「杜甫」を読んで、もともと自信がなかった自分の考えを信じて進もうとしている。陽葉梨のことをあらためてまぶしく感じると同時に、またかすかな胸の痛みを感じた。
「黙して失業の徒を思い、因りて遠戌の卒を
陽葉梨がステッキからグリーンの光線を放つ。怪獣は頭を振ってその光線を弾き返した。
それを見て、なぜか肩の力が抜ける感触があった。
「力足らざる者は、中道にして廃す。
肩の力が抜けて、怪獣へ深紅の光線を放つ。怪獣は光線を受けると、苦しみに満ちた咆哮を上げてから消えていった。
私の攻撃を見届けると、荘子は意味深長な笑みを浮かべて、陶淵明と一緒に去っていった。
「終わった……?」
私がなかば放心して空を飛んでいると、陽葉梨が背後から抱き着いてきた。
「ちょっ、陽葉梨……」
「すごいよ、仁乃ちゃん!」
陽葉梨は満面の笑みを浮かべていた。
「私、怪獣を止められたの?」
「うん、仁乃ちゃんが止めたんだよ。すごいよ! もう立派に魔法少女だね。これで、次からはどんどん怪獣を止められると思うよ」
陽葉梨は自分が怪獣を倒したときよりも嬉しそうだった。
陽葉梨の温もりを背中に感じながら、自分が怪獣を止められたという実感がじわじわと湧いてきた。それは嬉しかったけれど、同時に私の胸にはほかの想いが生まれていた。
今まではできなかったのに、なぜ今回だけできたのだろう。そう思ったときに、不安をおぼえずにはいられなかった。
論語との親和性が高まって、力がついたのならいいだろう。だけど、そうではないような気がした。だとすれば、陽葉梨の言うようにこれからもうまくいく保証はない。
三
私が恐れた通り、陽葉梨の予言は当たらなかった。
私が初めて怪獣を止められた日から、私は怪獣を一度も自分の力で止められなかった。失敗すれば失敗するほど焦りがつのっていった。
陽葉梨は私を一度も責めなかった。私が失敗しても、陽葉梨は必ず怪獣の暴走を止めてみせた。失敗して落ち込む私を、陽葉梨は必ず「大丈夫だよ」「次はうまくいくよ」と励ましてくれた。そして、それらのことが余計に私を焦らせた。
そんなある日のこと、私は登校するとき、駅から学校への道を歩きながらグラウンドに目をやった。この前の陸上部の少女が走っていないかと思った。自分がうまくいっていない分、また彼女の走りを見たら元気が出るのではないかという思いもあった。
何人かの陸上部員が朝練しているのは見えたが、彼女の姿は見当たらなかった。歩きながらしばらくグラウンドを探して、それらしい人物がグラウンド脇に立つ体育館の裏手へ入っていくのが見えた。
今日は走らないのだろうか。そう思って見ていると、彼女は目元をこするような動作をした。まるで涙をぬぐっているかのようだった。
胸騒ぎがした。
彼女が入っていった体育館の裏手へと、私は足を急いだ。胸騒ぎが杞憂に終わるといいと思った。彼女のさわやかな笑顔が脳裏にちらつく。
楽しそうな彼女の走りを見て、自分もあんな風に頑張りたいと思った。彼女の走りは美しかった。あの走りを見ていると、自分の胸に渦巻く後ろ向きな気持ちが晴れていくようだった。その彼女が、走らずに泣いている? そんなことがあるのだろうか。
あの日、「ずっと楽しめるのは才能だよな」と言う彼女の顔に差した影を思い出す。ひょっとしたら、あの時からずっと彼女は心に何かを抱えていたのだろうか。
ようやく体育館の裏手にたどり着いたとき、私は自分の目を疑った。彼女が陶淵明の詩集を掲げて、よく見たことのある姿になったからだ。
胸元にオレンジの大きなリボンのついた白い光沢のあるトップスに、リボンと同じ色のプリーツスカート、純白のブーツ、手袋にステッキ。短く整えられた髪と、コスチュームから伸びる健康的で長い手足。
彼女は間違いなく私のよく知る陶淵明だった。
次の瞬間、世界から音が消えた。
気づくと私はあのグラウンドにいて、気を失った陶淵明はいつの間にかどこからともなく現れた荘子の腕に抱えられていた。
グラウンドの中央で、一位、二位、三位の順位が書かれた表彰台に向かって怪獣が進む。
そして表彰台の上にはぼろぼろになったスパイクが置いてあった。
「仁乃ちゃん!」
魔法少女のコスチュームに身を包んだ陽葉梨に制服の肩をつかまれて、私は我に返った。
「仁乃ちゃん、何してるの! 早く変身を……」
「あの子だった……」
「え?」
「陶淵明が、前に話した陸上部のあの子だった……」
陽葉梨は目を見開いたけれど、すぐに冷静な口調になった。
「ショックかもしれないけど、だからこそ私たちで助けよう、陶淵明さんのことを」
「……うん」
私は論語を掲げて魔法少女に変身した。陽葉梨が怪獣に向かって飛んでいくのを見て、私も後に続く。
怪獣は表彰台めがけて進んでいる。あの表彰台は陸上の短距離走の表彰台だったのだろう。
陶淵明、どうして? あんなに楽しそうに走っていたのに、陸上に関する記憶を消したいの?
そんなことを今考えても仕方ないことはわかっているのに、思考がさまよってしまう。
「仁乃ちゃん、しっかりして!」
「う、うん」
私の前を飛ぶ陽葉梨が振り返りながら言うのを聞いて、私は行き場を失った思考を振り払う。彼女のことを助けたい。わずかな言葉を交わしただけの間柄と言えばそれまでかもしれない。だけど、私は確かに彼女の走る姿に惹かれていたのだ。だからこそ、彼女のことを助けるのは私なんだ。陽葉梨に頼るのではなく、彼女のことを知る私が助けるんだ。
「力足らざる者は、中道にして廃す。
決意を込めて私がステッキから放った光線は、怪獣に難なく弾き飛ばされた。
私は顔から血が引いていくのを感じた。こんなときでさえ、魔法少女としての私の力はこれほどまでに弱いんだ。でも、どうしてだろう。
「黙して失業の徒を思い、因りて遠戌の卒を
気づくと陽葉梨がステッキから発したグリーンの光線がクリーンヒットして、怪獣は苦しみの声を上げて消えていった。
荘子の腕の中で陶淵明が目を覚ました。そうだ、こんなことを考えている場合じゃない。陶淵明と話さないと。なんで陸上に関わる記憶を消そうとしているのか、話を聞かないと。
「聞いて陶淵明、話があるの」
私が訴えると、陶淵明は私に刺すような視線を向けた。
「論語、あなたと話すことなど何もない」
陶淵明は私にステッキを向けた。それ以上近づくと攻撃するというサインだ。
「待って、陶淵明。私はあなたと戦うつもりはない」
「心遠ければ
陶淵明は私に構わず、ステッキからオレンジ色の光線を発射した。
「仁乃ちゃん、危ない!」
私の目の前に割って入った陽葉梨が手を広げると、バリアのようなもので光線を防いだ。
陶淵明は蔑むような目で私を見た。
「見たところ、杜甫に比べて力が全然足りないようだな。おおかた、古典との親和性が低いのだろう。そんな中途半端な思いで私の邪魔をするな」
投げつけるように言った陶淵明が、不敵な笑みを浮かべた荘子とともに飛び去って行くのを、私は呆然と見送った。
「仁乃ちゃん、けがはない?」
二人が去った後、陽葉梨が私のほうへ向き直った。
「ごめん、私、また足引っ張っちゃった」
「気にすることないよ。まだこれからだよ」
陽葉梨の励ましの言葉が、どこか空虚に響いた。
「どうしてこんなに結果が出ないんだろう」
誰に言うとでもなしに私はつぶやいた。偶然の一致というのだろうか。自分が口にした言葉に重なって、昔の記憶がよみがえって来た。
「どうしてこんなに結果が出ないのよ!」
リビングのテーブルをたたいて、母は吐き捨てるように言った。この日、私は第一志望から第三志望の学校までのすべてに落ちたことを知った。その言葉は私に向けられたものというより、行き場が定まらないまま、苛立ちのあまり抑えきれずあふれてきたものだった。
同じ場にいた父は言葉少なだったが、失望の色は明らかだった。気まずい沈黙が場に広がる。
涙は出なかった。ただただその場にいたたまれず、私は居場所のなさを「どうしてこんなに結果が出ないのか」という問いの答えを考えることで紛らわせようとした。
どうして結果が出なかったのか。模試の成績は良かったし、塾ではトップのクラスだった。それなのにどうして。
そのときは考えても答えが出なかった。
記憶が浮かぶ。
中学受験は、何の抵抗もなく始めることができた。自分がどこの学校に行きたいとか、そもそも中学受験したいかどうかとか、そういったことを考えないまま、「うちは中学受験をする」という両親の方針のもとで、気がついたら受験することが決まっていた。
小三の二月に塾通いを始めた時、学校が終わった後に遅い時間まで塾で勉強するのは大変なことに感じられたけれど、それよりも塾で新しい知識を教わることが楽しかった。今まで知らなかったことを知るのは面白く、できなかったことができるようになるのは嬉しかった。塾で受ける授業の時間はあっという間に過ぎていき、私が塾で好成績を収めるようになるのに時間はかからなかった。
最初に受けたテストの結果が思いのほか良く、両親は私の中学受験にますます熱を入れた。塾の宿題の他に、両親から課される学習課題の量はだんだんと増えていった。「今週はこの問題集をやっておきなさい」「このプリントを次のテストまでに仕上げておきなさい」と渡される膨大な学習課題を、私は今考えると驚くべき処理能力でこなしていった。こなしていくうちに、だんだんと勉強の喜びが「新しいことを知る喜び」から「テストでいい点を取る喜び」にすり替わっていくことに、幼い私は気づいていなかった。
膨大な学習課題をこなせばこなすほど、テストで高得点が取れた。テストでいい点数を取ると、両親から褒められた。「両親から褒められる自分はすごい」「塾で一番上のクラスにいる自分はすぐれている」という甘美な感覚が、麻薬のように私を支配していた。
同じ塾に通う生徒が化学や歴史の話で盛り上がっているとき、私はひとりで勉強していた。ライバルとなれ合う気はなかったし、勉強の中身の話をしようという気にもならなかった。
記憶が浮かぶ。
「何で勉強を頑張らなきゃいけないの?」
中学受験のために勉強し始めた頃、不思議に思って両親に聞いてみたことがあるのを、私は思い出した。
「勉強しておかないと、将来大変だからだよ」
生真面目な顔をして答えた父に、母も続く。
「お父さんは勉強していい大学に入ったから、こうしていい会社に入ったのよ」
「ふうん。じゃあ、いい大学に行っていい会社に入るのは何のため?」
「それは、やっぱりいい会社に入れば、安定した収入があるしね。お父さんはこう見えて結構お給料をもらっているから、こうして家を建てて、お母さんや仁乃と一緒に生活できているわけだし。それに……」
父は言葉を選ぶように言った。
「お金があるということは、ファッションなんだよ」
「ファッション? ファッションって、おしゃれすることじゃないの? お金と全然関係なくない?」
「そう、ファッションの意味のひとつはおしゃれをすることだ。じゃあ、おしゃれをするのは何のためだと思う?」
「それは、自分の好きな服を着たいからじゃない?」
父は首を振った。
「もちろんそれもある。だけど一番大きいのは、自尊心のためだよ」
「じそんしん? それってなに?」
「自尊心っていうのは、自分が優れていると思う心のことだよ。おしゃれな恰好の人は、周りの人から『あの人、おしゃれだな』と思われるだろう? おしゃれをする人は、そう思われたくておしゃれをするんだ」
「うーん、そうなのかなあ……。単に好きな服を着たいだけじゃない?」
「もちろん、好きな服を着たい気持ちもあるだろう。でも、特に高い服を着たいと考えている人は、周りから『あの人、高い服を着ていてすごいな』と思われたいから、そういう服を着ているんだよ。ファッションとは、そういうものさ」
「うーん、そうかあ……」
首をひねる我が子を見て、父は笑った。
「仁乃のクラスに、みんなから人気のある子や、尊敬されている子はいるかい?」
「え? うん、まあ」
「じゃあ、その子の人気があるのはなんでだと思う?」
「それは、運動ができたり、かっこよかったり、かわいかったりするから……」
父はうなずいた。
「そう、それがファッションだ。人より優れているところがあると、みんなから尊敬されるだろう? だから、みんな優れている自分を見せたくなる。そうして、みんなから尊敬されることで、自尊心を満たすものなのさ」
「なるほど……」
確かに、学校のみんなはそういうところがある。
「それで、大人になると、人より優れているかどうかは、持っているお金で測られるんだ。仕事で成功を収めてお金をいっぱい持っている人が尊敬される。だから、お金のある人は自分がお金を持っているということを見せたくて、高い車を乗り回したり、高級な服やら時計やら鞄やらを身に着けたりするんだ。そうしないと自尊心が保てなくて、自分に自信が持てないからね。だからお金が大切だということの一番の理由は、ファッションなんだよ」
複数の記憶が浮かんで、今気づいた。
娘の不合格を知って、失望の色を隠さなかった両親。この人たちが頑張っている理由もファッションだったんじゃないだろうか。不合格で一番ショックを受けていたのは本人のはずなのに、この人たちは娘に励ましや慰めの言葉をひとこともかけることなく、ただ結果を嘆き、行き場のない負の感情を表に出すことしかしていなかった。この人たちが熱を上げて中学受験についての情報を収集し、娘の学習メニューを熱心に考えてきたのは、結局娘の幸せが目的なんじゃなくて、自分たちのためじゃないだろうか。自分たちが県内トップ校に通う子供の親という中学受験の成功者になりたかったからじゃないだろうか。その証拠に、娘が落ち込んでいる時でさえも、娘のことなど少しも考えていなかったじゃないか。
ファッションのためにしか頑張れない大人を、醜いと思った。そして、その大人と同じようにファッションのために頑張っていた自分のことは嫌いだ。
いったい、私は何のために頑張ってきたのだろう。
「……ちゃん……。仁乃ちゃん……! 仁乃ちゃんってば!」
自分の名前を呼ぶ声で、私は我に返った。
「ごめん、陽葉梨。ぼうっとしちゃって……」
「大丈夫? 顔色悪いよ」
陽葉梨が心配そうに私の顔を覗き込む。
「うん、大丈夫……」
大丈夫なわけはなかった。胸に沸き起こる吐き気に似た感覚に、今にも耐えきれなくなりそうだった。
「どうして結果が出ないのか、わかった。頑張る理由が『ファッション』だったからだ」
「え?」
陽葉梨の顔が曇る。
「『貧にして楽しみ、富みて礼を好む』だよ」
私は論語の一節を思い出していた。
子貢は、貧富に処する道を孔子に問う。
――貧にして
「私は、このごろ、貧富に処する道について、多少考えもし、体験も積んできたつもりでありますが、貧にしてへつらわず富んで驕らないというのが、その極致で、それが実践できれば、その方面にかけては、まず人として完全に近いものではないかと存じます」
孔子はこう答える。
――可なり、未だ貧にして楽しみ、富みて礼を好む者に
「君は、貧乏なころは、人にへつらうまいとして、ずいぶん骨を折っていたようじゃな。そして、今では人に驕るまいとして、かなり気を使っている」
「へつらうまい、驕るまいと気を遣うのは、まだ君の心のどこかに、へつらう心や、驕る心が残っているからではあるまいかの」
「むろん、君のいうような道を悪いとはいわない。しかし、それはまだ最高の道ではないのじゃ。貧富に処する最高の道は、結局、貧富を超越するところにある。君がへつらうまいとか、驕るまいとか苦心するのも、つまりは貧富を気にし過ぎるからのことじゃ。貧富を気にし過ぎると、自然それによって、他人と自分とを比べてみたくなる。比べた結果がへつらい心や驕り心を生み出す。そこで、それを征服するために苦心しなければならないということになるのじゃ」
「貧富を超越するということじゃが、それは結局、貧富を天に任せて、ただ一途に道を楽しみ礼を好む、ということなのじゃ。元来、道は功利的、消極的なものではない。したがって、貧富その他の境遇によって、これを二三すべきものではない。道は道なるがゆえに楽しみ、礼は礼なるがゆえに好むと云ったような、至純な積極的な求道心があってこそ、どんな境遇にあっても自由無碍に善処することが出来るのじゃ」
今の私は子貢だ。ファッションのために頑張ったから失敗したのに、結局また他人と自分を比べてしまっている。人と比べるところが少しもなく、ひたむきに頑張っている陽葉梨のほうが魔法少女として強いのは、当然のことだったんだ。
曇り顔の陽葉梨に、私は下を向いたまま話した。
「私、前に中学受験に失敗したって話はしたよね」
「……うん」
「私が中学受験に失敗したのはきっと、頑張る理由が『人より自分は優れている』って感覚を得るためだったからだと思う。そんな理由で勉強している人間は、楽しんで勉強している人には勝てないに決まってたんだ」
話しているうちに、今まで見ないようにしていた自分の気持ちが見えてきて、口から言葉があふれ出す。
「どうしたって、私はそういう人間なんだ。今回だって魔法少女として戦いたいと思ったのは、魔法少女を助けたいとか、陽葉梨の力になりたいとか言いつつ、すごい力を使うことができる優越感があったからなんだと思う」
初めて魔法少女に変身した時に感じた高揚感の正体が、今ならはっきりわかった。
「すごい力を使える私なら、ほかの魔法少女だって助けられると思った。だから今まで魔法少女として頑張っていたんだ。同じ過ちを繰り返したくないと思っていたのに、結局また同じことを繰り返していたんだ、私は」
頬が熱くなる。話すほどに、自分の小ささが身にしみて感じられる。こんな醜い心の内を打ち明けるのは恥ずかしい。それでも、あふれ出した言葉は止まらない。私は陽葉梨のほうを直視できないまま話し続けた。
「こんな心の状態だと論語との親和性が高まるわけがないし、結果が出なくて当然だったんだ。こんな私には、魔法少女として戦う資格なんてない」
「そんなことない。仁乃ちゃんはちゃんと戦えるよ」
陽葉梨の優しい励ましを聞いて、私はまた胸の痛みを感じた。ここにきて、最近ずっと感じていたこの胸の痛みの正体をはっきりと自覚していた。
陽葉梨に対する劣等感。
私が怪獣を止められないのは、私より強い力を持っている陽葉梨に対して、勝手に劣等感を抱いていたからだ。だから陽葉梨が失敗したときは力が出せたけれど、それ以外のときは力が出せなかった。
そんなことで力が出せなくなるあまりにも自分がちっぽけに思えて、どうしようもなかった。
「それだよ」
「……え?」
自分でもびっくりするぐらい冷たい声が出て、陽葉梨の顔が曇る。
「それ。陽葉梨はいつも私を慰めたり励ましたりしてくれるけれど、正直しんどい。陽葉梨と話せば話すほど、陽葉梨が魔法少女としても強い上に、人としても優しいのがわかっちゃう。それに比べて弱くて小さい私がどんどんみじめに思えてくる」
言うべきでないことを言っていると、心のどこかで思ってはいた。それでも私は自嘲的な口調で言ってしまった。
「陽葉梨だって、私のことを弱いなって、心のどこかでは思ってるんでしょ?」
「……なんで」
陽葉梨の声が震える。私は下に向けていた顔を上げて息を呑んだ。
陽葉梨は泣いていた。あどけなさの残る大きな瞳から涙がひとしずく、白い頬をつたって落ちた。
「なんで……なんでそんなこと言うの……? 『森さんが目指した理想が嘘じゃないってことを、私が証明する』って仁乃ちゃんが言ってくれた時、私すごくうれしかったんだよ。それなのに、なんで……」
陽葉梨はそれきり、顔を覆ってうずくまった。
陽葉梨の涙を見て、私は言いようのない動揺をおぼえた。心臓が早鐘を打っていた。
「……ごめん」
どうしていいかわからなくなって、私は陽葉梨に背を向けて逃げ出した。
どちらへ向かって走っているのかもわからないまま、私はでたらめに走った。走っているときも、陽葉梨の泣き顔が目に焼きついて離れなかった。
私は陽葉梨を傷つけた。優しい陽葉梨は私のことを励ましてくれた。陽葉梨は何も悪くなかった。それなのに身勝手な想いを吐いて、心優しい彼女のことを私は傷つけてしまった。
陽葉梨は私と自分のどちらが優れているかなんて、きっと少しも気にしていないに違いない。それはわかっていた。でも、私は自分が過去に周囲の人間を見下してきたから、勝手に人からも見下されたような気分になって、勝手に劣等感をいだいてしまうのだった。
私はあなたとは違う、トップ校に合格する人間だぞ。
無邪気にそう思ってきた過去の自分の能天気さを呪った。そんなふうに人を見下す癖をつけると、やがて人から見下されているように感じてしまうということを、どうして想像しなかったんだろう。
この性分は治らない。どうあっても私は他人と自分を比べてしまうのだった。どんなに頑張っても、私は結局「貧にしてへつらわず、富んでおごらない」人間にしかなれないのだろう。そう思うと、自分という存在の醜さに絶望した。
「ひどい顔ですね」
突然聞こえてきた声に驚いて、私は立ち止まった。声のした方を見ると、荘子が底冷えのする笑みを浮かべて、いつの間にか私のそばに立っていた。
「荘子……!」
思わず私は身構えたけれど、荘子は私を手で制した。
「まあ落ち着いてください。私はあなたと戦いに来たわけではありません。あなたを苦しみから救いに来たのです」
救いに来たという言葉を聞いて、私の心臓は跳ね上がった。
「何を言って……」
「隠そうとしても無駄です。今のあなたの顔を見ればわかりますよ。何かつらいことや苦しいことがあったのでしょう」
荘子は私の方へ手を差し伸べた。
「私は苦しんでいる魔法少女を救いたい。あなたが抱えている苦しみのことを、話してはくれませんか」
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