論語と魔法少女

三葉 開道

第1話 今女(なんじ)は画(かぎ)れり


冉求ぜんきゅういわく、子の道をよろこばざるにあらず、力足らざればなりと。子いわく、力足らざる者は中道にして廃す。今女なんじかぎれりと。――雍也ようや篇――



                     一


 人はなぜ頑張るのだろう。頑張った先に、何が待っているというのだろう。

 グラウンドから聞こえてきた「頑張れ!」という声を聞いて、そんなことを思った。

 声の主は陸上部だろうか。学校指定の体操着に身を包んだ少女が、短距離を走っているのが視界に入った。タイムを計っているようで、周囲の部員たちが少女に声援を送っていた。

 私、下村仁乃しもむらにのが通う中学校では、特に部活動への加入が義務づけられていたわけではなかったけれど、生徒のほぼ全員が何らかの部活動に籍を置いていた。中学校に入ると、新しい環境への戸惑いを抱えつつも、小学校では体験したことのなかった世界にみんな入り込んでいく。

 そんな中で私はというと、部活動に励む生徒たちを尻目に、校門を出て帰路に就いていた。部活動に打ち込む青春など、中二の五月になる今までずっと帰宅部を決め込んでいる私には、どこか遠い世界の出来事のように思えた。

 校門を出てから駅までの道は、学校のグラウンドの横を通る格好になっている。歩いていると、グラウンドの様子が嫌でも目に入ってくる。

 順番に短距離走を走り終えた陸上部員たちが、五月の風に身をさらし、疲れをにじませながらもどこか心地よさそうな表情をしているのが見える。あの人たちはなんで頑張っているんだろう。

 勝つため? それなら、勝つことができなければ頑張っている意味なんてないんじゃないだろうか。勝つことができるのは一握りの人間に過ぎない。ほとんどの人間は敗北を経験して部活動を終える。それなら、頑張る意味はあるんだろうか。

 もう一度陸上部員たちに目をやる。あの人たちはどう思っているんだろう。うちの中学校が何かの部活が強いとは聞いたことがない。全国大会優勝、なんてことを思っている人はいないだろう。最終的に勝つことが出来ないというのなら、何のために頑張っているんだろう。

「地区大会で優勝するため」「自己ベストを更新するため」。「何のために頑張っているんですか」と聞いたら、彼らはそんなことを言うのかもしれない。でも、それは目的ではなく目標じゃないだろうか。「じゃあ、地区大会で優勝するのは何のためですか」「自己ベストを更新するのは何のためですか」と聞いたら、彼らは答えられるんだろうか。おそらく答えられないのではないか。

 ひょっとしたらみんな、頑張る目的がなく、頑張った先に何も待っていないという空虚な事実に気づかずに、あるいは気づかないふりをして、部活動に打ち込んでいるのかもしれない。

 私はもう一度グラウンドに目をやった。ひとりの陸上部員の女の子が短距離を走り終わって、まばゆいまでに爽快感に溢れた笑顔になっているのが目に焼き付いた。短髪で長身の彼女が日焼けした顔で汗を流している様は絵になっていた。

 私もあんな風に……。

 胸の奥底に浮かびかけた言葉を、無理やりしまい込む。

 校門を出てから駅までは歩いてすぐだった。五月晴れとはいかず鈍い灰色をした空を背後に、私はひとり駅の改札を通り抜けた。

 学校と家の往復しかしない私の交通系ICカードが、「0円」の文字を表示させていた。



「ただいま」

 電車に乗って五十分、さらに最寄りの駅から十分ほど。一時間も経つと、家に到着する。都会、というほどではないけれど、都市部の住宅地に下村家はあった。わざわざ一時間かけて今の中学校に行かなくても、もっと近くにいわゆるもっと偏差値の高い学校があるけれど、私はそこに進学することができなかった。

 玄関を開けて靴を見ると、今日は母が家にいるようだった。普段はパートタイムの仕事で家を空けていることが多いけれど、今日はシフトがオフなんだろう。

 靴を脱いで、手を洗ってからリビングのドアを開けると、母は三人がけのテーブルに向かって、一人本を読んでいた。

「ただいま」

「ああ」

 私をちらりと見た母はそれだけ言うと、すぐに手元の本に目線を戻した。こんな調子で、最近の私は両親と会話らしい会話をしなくなっていた。特に会話をしないと決めたわけではないけれど、私は母のことを苦手に感じていたし、母の方でも私にあまり話しかけてこなくなったので、自然とそうなっていた。

 冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぎつつ、母の顔を盗み見る。肩の下まで伸びた髪を茶色に染めて若作りしてはいるものの、眉間に寄ったしわは、四十代も半ばに差し掛かろうかという年齢を物語っている。最近また少し老けたかもしれない。考えてみると、しばらく母が笑った顔というものを見ていない気がする。

 母は難しい顔をして何を読んでいるのかと思えば、老後の資産形成に関する本のようだった。「フィナンシャル・プランナー」という文字とともに、理知的な見た目をした女性の顔写真が帯を飾っている。この本の著者らしい。

 以前の母は、もっと違う傾向の本を読んでいた。「中学受験は親で決まる」「親が知っておくべき中学受験必勝法」。リビングにある本棚に目をやると、そんなタイトルの本がずらずらと並ぶ。いずれも母が以前読んでいたものだ。もはや読まれなくなったそれらの本を見て、母がそれらの本を読んでいた二年前のことを私は思い出した。

「頑張ってね、仁乃」「ここが頑張りどころだよ」「もっと頑張らないと」――。両親の声が頭の中でリフレインする。



「何で勉強を頑張らなきゃいけないの?」

 中学受験のために勉強し始めた頃、不思議に思って両親に聞いてみたことがあった。

「勉強しておかないと、将来大変だからだよ」

 生真面目な顔をして答えた父に、母も続く。

「お父さんは勉強していい大学に入ったから、こうしていい会社に入ったのよ」

「ふうん。じゃあ、いい大学に行っていい会社に入るのは何のため?」

「それは、やっぱりいい会社に入れば、安定した収入があるしね。お父さんはこう見えて結構お給料をもらっているから、こうして家を建てて、お母さんや仁乃と一緒に生活できているわけだし。それに……」



「どうしたの、ぼうっとして」

 本から目線を上げた母に言われて、現実に引き戻される。

「あ、いや……」

 私が口ごもるのを見ると、母はまた読書の世界へと戻っていった。母の言葉は質問の形をしているけれど、特に私の答えを期待したものではないだろう。単に読書の邪魔だから早くどこかへ行ってほしいという意思表示のようだった。

 そういえば、最近は両親とまともに会話することがなくなった分、「頑張れ」「勉強しなさい」と言われなくなった。小学生の頃ならこういうときは、「ぼうっとしていないで早く勉強しなさい」と言われたものだった。きっと私に対する関心がなくなったんだろう。

 母は変わらず熱心に資産形成の本を読んでいる。私の中学受験の代わりに母の関心の対象となったものが老後の資産形成というのが笑える。私の受験は、母にとっては老後の資産形成と同じような意味しか持たないものだったんだ。

 そういうことを思っていると、やっぱりこう考えてしまう。

 なぜ頑張るのだろう。

 リビングを出て二階の自室に入り、ドアを閉じた。部屋にある鏡を見ると、ひどくさえない顔が映っていた。

 鏡から目をそらして、制服のままベッドに寝そべり、スマホでYou Tubeを見る。

 中学受験のために勉強していたころと違って、ここ一年は家で勉強することがなくなった。目標とする中学に入ることができず、勉強する意味を見失った私にとって、当然のことだった。そうして私は、それまで勉強に使っていた時間を何に費やすのかという問題に直面することになった。その問題を解決するためにいくつかの娯楽を試したのち、結局はYou Tubeを見るという陳腐な結論に落ちついた。

 中学校から一応それなりの量の課題は出ていたけれど、それらに取り組む意義を見出せない私は、学校から課せられたあらゆる学習をやっつけでこなし、残った時間はYou Tubeに費やした。学校の成績が低調な数字を記録するのに時間はかからなかった。

 スマホの画面では、男性七人組のYou Tuberたちが超巨大ラーメンの大食いにチャレンジする動画が再生されていた。最近の私はこのYou Tuberの動画を見ることが多い。この人たちのチャンネルに並んでいるのは、大食い動画の他にも、七人組が危険なアスレチックで遊ぶ動画や、心霊スポットを訪ねる肝試し動画等々。ばかばかしいものばかりだ。でも、そのばかばかしさが良かった。

 別に、動画を見ることそれ自体がしたいわけではなかった。ただ何もしたくなかった。正確には、「何もしないということ」がしたいといったほうが近いかもしれない。

 動画を見るときは、エネルギーを使わない。何かを目的としてエネルギーを使うこと、すなわち頑張るという行為への懐疑から、私は動画を見ていた。

 七人組は、大騒ぎした末に巨大な鍋に入ったラーメンを時間内に食べきることができず、画面には「失敗」というテロップが赤字で大げさなほどでかでかと表示された。

――「失敗」。その二文字によって、去年の記憶がよみがえってきた。



 私、下村仁乃は、去年中学受験に失敗したのだった。

 自分で言うのも何だけれど、私は頑張った。中学受験をしない同級生たちが遊んでいる中、小三の二月から塾通いを始めた。塾のある日の夜は教室でお弁当を食べる。家で食べる暖かい夕食というものを、私は塾のない日曜しか味わうことが出来なかった。その日曜日も、勉強で一日つぶれる。娯楽に費やす時間は一分たりともなかった。暇さえあれば勉強した。

 勉強のスケジュールは、すべて両親が管理した。塾の宿題を中心に、毎週土曜日に受けるテストの直し、六年生になってからは過去問、さらに両親によって与えられた苦手分野のプリントや問題集。両親が提示する膨大な量の勉強を、私はこなしていった。やればやるほど点数が伸び、点数を取れば両親から褒められた。

 ストイックな生活の末に、私は確かな手ごたえを得ていた。塾の中でもクラスは一番上だったし、塾の先生からは、全国でもトップレベルと言われる学校に十分合格できると言われていた。「一番上のクラスにいるすごい自分が、トップ校に合格するというすごい目標のために頑張っている」という実感が、私を受験勉強という苦行に耐えさせた。

 だけど、本番の入試で私は落ちた。第一志望から第三志望まで、すべて不合格。楽勝と思っていた第四志望の学校になんとか引っ掛かり、そこに通うことになった。

 第一志望の合格発表のとき、掲示に自分の受験番号がないことがわかった瞬間のことを、それから一年経った今でも鮮明に思い出せる。狂ったように早い鼓動を刻み続ける心臓。心の中で何度「嘘だ」と叫んでも、自分の前後の番号だけ見せてくる掲示板。そして何より、私の隣で失望をあらわにした表情の両親。


 頭の中にフラッシュバックしたそれらの映像を振り払うように、私は無理やり大食いチャレンジ動画へと自分の意識を引き戻した。スマホを見ると、大食いチャレンジに失敗した七人組のYou Tuberは、チャレンジ失敗の罰ゲームとして鼻でスパゲッティを食べているところだった。

 彼らは体を張って頑張った結果として、何百万という再生回数を稼いでいる。私が頑張って得たものは、失望した両親の冷たい視線と、自分は頑張ってもダメなんだという挫折感だけだった。

 ぼんやりとスマホを見つつ、私はもう一度自らに問いかけた。

 なぜ頑張るのだろう。



                     二


 翌日の放課後、いつもと同じようにひとり学校を後にしようと、私は廊下を歩いていた。

 空いた窓から外に目をやると、今日もグラウンドは部活動に励む生徒たちでいっぱいだった。楽しそうな表情の生徒ばかりだった。

 翻って自分のことを考える。望んで入らなかった今の中学校。私には、その学校で送る生活を楽しいと思うことができなかった。

 私が進学した学校は、もともと第四志望として受けていたところとはいえ、難関の進学校と呼ばれるところだった。超難関と言われる第一志望から第三志望の学校に比べると偏差値では劣るけれど、この学校を第一志望として受ける生徒だって多い。

 でも、下村家では両親がこの学校のことを悪く言っていた。娘が進学すると決まってからは特にその傾向が強くなり、ことあるごとに両親はこの学校のことを、「あんな学校」「落ちた人が行く学校」とこきおろした。きっと娘を第一志望のトップ校に入れることしか考えていなかった両親にとっては、この学校は失望の対象でしかなかったのだろう。そのこともあって、学校に通い始める前から、私は今の中学校に対してよい印象を持っていなかった。

 そんな調子だったので、私は中学校に入ってから、学校に何かを期待することなく過ごした。何かに打ち込むことなく、ただ惰性で学校に通った。学校が提示する学習カリキュラムを最低限の労力で機械的にこなし、特に部活にも所属することなく一年余りを過ごした。

 中学校に入ってから、友達はできなかった。

 小学校ではレベルの低い周りの生徒と話が合うわけがないと思って、周囲に対して壁を作ってきた。塾は勉強する場所だったし、周りの塾生はみんなトップのクラスに入れるかどうかを争うライバルと思っていたから、特にほかの塾生と会話することはなかった。

 中学校に入れば違うと思ってきた。レベルの低い生徒ばかりの小学校と違って、自分とも話が合う友達がきっとできるはずだった。

 でも、実際に今の中学校に入ってみると、思った以上にクラスメイトと話が合わないことに驚いた。あらゆる娯楽をシャットアウトして生きてきた私のような人間はいなくて、みんな普通の中学生ばかりだった。クラスメイトの話題に上る芸能人や音楽グループの名前が、私には全くわからなかった。中学校で私が孤立するのに時間はかからなかった。

 物思いにふけりながら窓の外を眺める私の目に、短距離を走る陸上部員の少女が入った。短髪で長身の彼女はタイムを計っているようで、走り終わった後「自己ベスト!」「やったー!」などと言う声が外から聞こえてきた。

 少女の方を見ると、一点の曇りもない、眩しいほどの笑顔だった。それを見ていると、胸がうずいた。

 あの人は何で頑張っているんだろう。

 私もあんな風に……。

 胸の奥底に再び浮かびかけた言葉を、この前と同じようにしまい込んだ。なぜそんな言葉が浮かんでくるのか、自分でもわからなかった。「あんな風に」の先に続く言葉は想像したくなかった。

 グラウンドの上空ではカラスが一羽、ふらふらと弱々しい飛び方をしているのが見えた。

「あ、あのっ!」

 そのとき、突如として響いた声につられて窓の外から正面に向き直ると、一人の少女と目が合った。自分に声をかけているのだということを、数秒遅れて認識した。

「下村さん、文芸部に入りませんか!」

 柔らかな印象の声の主は、同じクラスの森陽葉梨ひよりだった。肩の少し下まで伸ばした艶のある黒髪に、色白で透き通るような肌、ややあどけなさの残る大きな瞳、長いまつげ、華奢で小柄な体格、よく見ると整った顔立ち。きっちり校則どおりの丈を守ったスカートに、入学式の日と寸分たがわないほどかっちりと制服を着たといういでたちのせいで目立たないながら、正統派の美少女という印象だった。

 クラスメイトと話さない私は、森さんともあまり話したことがないけれど、いつもどこか自信なさそうにしているのが玉に瑕な印象がある。せっかく持っているものはいいのだから、堂々としていればいいのに。

 その森さんの口から予想外の言葉が発せられて、私は思わず聞き返した。

「ええと……、森さん、なんだって?」

「ぶ、文芸部に入りませんか!」

 森さんは目を固く閉じて、私の方は見ていない。おまけに声は少し震えている。

「……何で?」

「それは、下村さん、部活に入っていないみたいだったから……」

「うん、まあ私は帰宅部だけど」

「じゃあ、文芸部なんてどう?」

 森さんの表情がぱっと輝く。

「……ごめん。部活、やりたくない」

「そんなあ……」

 きっぱり言うと、森さんは肩を落とした。

「せっかくの誘いだけど、ごめん。それじゃ」

「ま、待って!」

 背を向けて帰ろうとすると、森さんが私の手をつかんだ。

「部活、やりたくない理由、聞いてもいい……?」

「言いたくない」

「い、言ってくれるまで手を放さないから……!」

「はあ……?」

 私は森さんの顔をしげしげと見た。うつむきがちな顔は真っ赤で、目はぎゅっと閉じられている。おどおどした態度と強引な言葉が噛み合ってなさすぎる。なんなんだ、この人は。

「何でそんなこと、森さんに言わなきゃいけないの」

「下村さんは、私の誘いを断ったことで、私に借りがひとつできたんだよ。だったら借りを返してよ!」

 めちゃくちゃだ。

 私の手を握った森さんの手からは、その小柄な体のどこからそんな力が出てくるんですか、と聞きたくなるような強い力が伝わってきた。こうなったら力づくで振りほどくしかない。身長は森さんよりも私の方が高い。

「ふっ!」

「……」

 私は精いっぱいの力で森さんの手を振り払おうとしたが、森さんはびくともしない。あれ、おかしいな。

「……ふんっ!」

「……」

 やっぱり微動だにしない。森さんはうつむいていた顔をおそるおそる上げて、

「……下村さん、ひょっとして非力?」

 失礼なことを言った。

 私は自分の顔が熱くなるのを自覚した。

「う、うるさい! 中学校に入るまで勉強しかしてこなかったし、ご飯も勉強優先の生活で少ししか食べていなかったから、しょうがないでしょ!」

 私はあなたとは違う、と言おうとして、私は口をつぐんだ。小学生の頃、口には出さないまでも、周囲の人間に対して、内心あなたとは違うと思ってきた。遊びに行こう? 私はあなたとは違う、塾で一番上のクラスにいる人間だぞ。あなたと違って遊んでいる暇なんかない。この問題が解けてすごいね? 当たり前だ、私はあなたとは違う、トップ校に合格する人間だ。日頃の勉強量を考えれば、こんな問題解けて当然だ。

 だけど、今の私は森さんと同じ学校のクラスメイトだ。私が森さんに勝っているところは何もない。むしろ真面目な森さんはクラスの中でも優等生だから、勉強を怠けて低調な成績をたたき出している私よりも成績はいい。勉強しかしてこなかったのに、その勉強もできるわけではなくなった今の私には、何もない。そして、勉強しかしてこなかった代償として、腕力は自分より小柄な森さんよりも弱いという動かしがたい事実だけが残った。

 私は観念して、ため息をついた。

「……頑張りたくないから」

「……え?」

「部活に入りたくない理由。頑張りたくないから。頑張ってもいいことがあると思えないから」

 口にしてみると、自分の言葉があまりに軽く響くのに驚いた。駄々をこねる子供が言い訳をしているような、みっともない響き。

 こんな言い訳じみた言葉を聞いて、きっと森さんも私のことを軽蔑するだろう。森さんがどんな表情をしているかが気になって、森さんの方を見た。

 私は息を呑んだ。森さんの目に浮かんでいたのは侮蔑でも、憐憫でもなかった。ただ何か、温かみのある色が両目を満たしていた。

「……頑張らなくても、いいよ」

「え?」

「頑張ってもいいことがあると思えないってことは、きっと過去に頑張っても報われなかった経験があったんでしょう」

「それは……」

 森さんの目はまっすぐだった。その目で見据えられると、適当にはぐらかすことができなくなった。

「言いたくなければ、言わなくてもいいよ。でも、一度入るだけ入ってみない? 文芸部、頑張らなくてもいい活動内容だし、入ってみて、合わないと思ったら退部すればいいし」

「そう言われても……」

 そのとき、私はなぜかさっき見た陸上部員の少女の顔を思い出した。

 自分も、あんな風に……。

 浮かびかけたその言葉の続きは胸の底にしまい込んでしまい、自分でもわからなかった。だけど、あの少女の楽しそうな顔を思い浮かべると、自分も何か新しいことを始めてみたい気分になった。

 頑張りたくなかったんじゃないの?

 私は自問してから、これは頑張るんじゃない、だって森さんも頑張らなくてもいいって言っているし、と考えて、自分を納得させた。

「わかった、いいよ。文芸部、入る」

「本当? ありがとう!」

 森さんは私の手を両手で握って、上下に大きく振った。私は自分が笑みを浮かべそうになっているのに気づいて、あわてて真顔をつくった。入るだけでこんなに喜んでもらえるならありがたいものだ。


 文芸部に入るにあたって、まずは入部届を書く必要があるという理由で、文芸部の部室へ森さんが案内してくれることになった。

 文芸部の部室は、校舎の中央にある階段を三階まで上がってから、一番奥まで進んだところにあった。同じ三階にある私のクラスの教室からもかなり歩く。校舎の隅の方、僻地にあるのは、いかにも文芸部という感じがする。

「ここだよ」

 森さんがドアを開けると、手狭な部屋が内部をさらした。部屋の中央には四人掛けの細長いテーブルが置かれていたけれど、備え付けてある椅子はパイプ椅子が二脚あるだけで、私たち以外に人の姿はなかった。

「他に部員は? 森さん一人?」

「前は他にも部室に来る人がいたんだけど、今は幽霊部員ばっかりになっちゃったから、いつも私一人なんだ」

 私を部屋に招き入れつつ、森さんははにかんだ。

「どうぞ」

 森さんは椅子を引いて、私に座るように促した。

「……ありがとう」

「こちらこそ、来てくれてありがとう。入部届、渡すね」

 森さんは机の上に置かれたラックをあさった。私はパイプ椅子に座りながら、プリント類が詰め込まれたクリアファイルを引っ張り出している森さんを観察した。校則をきっちり守った格好で飾り気がないから全然目立たないけれど、やっぱりよく見ると綺麗な顔立ちをしている。もう少しおしゃれすればかなり目立つのではないだろうか。

「あった。記入、お願いします」

 森さんが差し出したA4のわら半紙に刷られた入部届を受け取る。律儀に両手で渡してくるところが森さんらしい。

 私は自分のペンケースからボールペンを取り出して、入部届に「下村仁乃」の文字を書く。テストを受けるときに、幾度となく書いてきた文字。何となく、私は自分の名前が好きになれなかった。

「書いたよ」

「ありがとう!」

 入部届を手渡すと、森さんが目を輝かせた。なんだかこそばゆい気がした。今まで森さんにはおとなしい印象しかなかったけれど、こうして接してみると、感情がよく表に出る人だ。

「それで森さん、文芸部って、何をする部活なの?」

「うーん、実は文化祭に合わせて部誌を発行する以外は特に決まっていないんだよね。普段は私ひとりで部室で本を読むくらいしかしていないんだ」

「そうなんだ」

 確かにそれくらいなら頑張らなくてもできるかもしれない。

 机の上に置かれた小さなブックシェルフに目を向けると、「老子」「荘子」などの中国古典や、「源氏物語」「枕草子」などの日本古典のタイトルが並んでいた。ずいぶんとチョイスに偏りのある本棚だ。

「あのあたりの本って、全部森さんの? 古典ばっかりだけれど」

「……うん。私、古典が好きで。こんなの、変だよね……。今まで、趣味の合う人にほとんど会ったことがなくて」

 森さんが頬を赤らめる。それはそうだろう。私は受験のときに勉強した知識があるから本のタイトルくらいはみんな知っているけれど、中学生でこういった本を読むのは渋すぎる。タイトルすら知らない人が多数派なんじゃないだろうか。

 これほど難しい本を読んでいるならむしろ、「こんな本が読める自分はすごい!」と鼻にかける人が多そうだけれど、森さんの態度にはそういうところが少しもなく、ただ純粋に恥ずかしがっているようだった。色白な分、わかりやすく顔が赤くなった顔を見ていると、森さんはいい人なんだろう。

「変じゃないよ。むしろ中学生のうちからこういうのが読めるって、すごいと思うけど」

「本当?」

 森さんの顔がまた明るい色になった。自分の言葉で森さんが喜んでくれるのが嬉しくて、私は調子に乗って続けた。

「私も読んでみようかな。何かお勧めの本はある?」

「それなら、これなんてどう?」

 森さんが両手で差し出してきた本を見ると、「論語」という文字が表紙に書いてあった。

「『論語』は堅苦しいってイメージがあるかもしれないけれど、読んでみると結構日常生活のヒントになりそうなことが書いてあるんだよ」

「ふうん……」

 私が本を手に取ってページをめくると、森さんも向かいの席に座って、自分が読みたい本を読み始めた。特に気にせずお互いに本を読んでいれば良さそうだ。私は森さんから貰った本を、腰を据えて読むことにした。

「論語」は古代中国の思想家、孔子の言葉を弟子たちがまとめたものだ。それは私も知識としては知っている。でも、実際に「論語」にどんな言葉が書かれているのかはよく知らなかった。

 本のページを開くと、紙とインクのにおいがした。



 孔子の弟子であるぜんきゅうは、孔子の教えを実行できないことに悩み、自らの苦悩を孔子に吐露する。

 ――子の道をよろこばざるにあらず。力足らざればなり――

「私は、先生のお教えになることに強いあこがれを持っています。ただ、私の力の足りないのが残念でなりません」

 彼を励ます孔子に対して、彼は続ける。

「でも先生、私には、真実の道をつかむだけの素質がないのです。本来、だめにできている男なのです。私は卑怯者です。偽り者です。そして……」

 やたらに自分をけなし始めた彼を遮って、孔子は答えた。

 ――力足らざる者は中道にして廃す。今女なんじかぎれり――

「お前は、自分で自分の欠点を並べたてて、自分の気休めにするつもりなのか。そんなことをするひまがあったら、なぜもっと苦しんでみないのじゃ。お前は、本来自分にその力がないということを弁解がましく言っているが、ほんとうに力があるかないかは、努力してみたうえでなければわかるものではない。力のない者は中途でたおれる。斃れてはじめて力の足りなかったことが証明されるのじゃ」

「お前は、まだ心からお前自身の力を否定しているのではない。お前はそんなことをいって、わしに弁解いいわけをするとともに、お前自身に弁解をしているのじゃ。それがいけない。それがお前の一番の欠点じゃ」



 私はページを開いたまましばらく動けなかった。

 孔子の言葉の意味が完全に理解できたとは言えない。孔子の言っていることに全面的に同意するわけでもない。だけどこの本に書いてあることは、今の自分に何かしら深く関係しているような気がした。

 しばらく呆然としてから、我に返った私は本から目を離して、森さんの方を見た。何食わぬ顔で本を読んでいる。森さんは私が部活に入らない理由を聞いて、この本を私に勧めてきたのだろうか。

 そのまま私は吸い寄せられるように論語をむさぼり読んだ。読むたびに孔子の考え方が突き刺すように襲い掛かってくるような気がした。だんだんと私はページをめくる手を止められなくなっていった。



                    三


 最終下校時刻になるころには、私は論語を読み終わっていた。読み終わって、不思議な充実感が残った。

「論語、どうだった?」

 校門を出て駅へと歩きつつ、森さんが聞いてきた。特に一緒に帰ろうと話したわけではなかったけれど、この学校の生徒のほとんどは同じ駅を使う。私も森さんもその例に漏れないため、自然と駅まで肩を並べて歩くことになった。

 私は森さんの方へ向き直って、

「面白かった。いろいろ考えさせられたというか……」

 自分が論語を読んでどれほど強い衝撃を受けたかを伝えたかったのに、こんな月並みな感想になってしまう自分の語彙力が憎い。

「……そっか」

 森さんは微笑んだ。私は自分が思ったことが伝わっているのか不安になって、気づくと言うつもりがなかったことを口走っていた。

「ねえ、森さん。私、明日からも今日みたいに部室で本を読んでもいい?」

 森さんが驚いたようにこちらを見る。

「うん、もちろんだよ!」

 森さんの顔がぱっと明るくなる。

「えへへ……嬉しいな。明日からも下村さんと一緒に本が読めるんだね」

「そんな、大げさだよ。今までだって、部員の人がいたんでしょ」

 森さんがこんなに喜んでくれるのは私も嬉しかったけれど、なんだか照れくさくて、ぶっきらぼうに言ってしまった。森さんの顔に影が差す。

「うん……。でも、一緒に本を読んでくれた人はいなくなっちゃったから」

 さっき森さんが「幽霊部員ばっかりになっちゃったから、いつも私一人なんだ」と言っていたことを思い出した。そのことを言っているのだろうか。

「森さんは何であんなに古典を読むようになったの?」

 ふと疑問に思って私は聞いた。あれほどの古典の本を持っているというのに、周りに古典を読む人はいなかったのだろうか。

「私、もともと自分に自信がなくて……」

 森さんは小さな声で言った。

「古典を読むと、自信が持てないようなもろい自分の考えも、昔の人の知恵を借りて補強される気がして……。古典を読むと、勇気づけられる気がするんだ」

「そうだったんだ……」

 自信がなさそうな森さんの態度と、今森さんが言ったことは一致している。でも、卑屈になりすぎじゃないだろうか。

 何か言おうとして私が口を開いた次の瞬間、世界から音が消えた。

 何が起こったのかわからないうちに、気づくと学校の外にいたはずの私はグラウンドに立っていた。

 隣の森さんを見ると、見たことのないような険しい表情をしていた。

「……森さん?」

 森さんに声をかけると、森さんは目を見開いた。

「下村さん、動けるの?」

「……え? どういう意味?」

 森さんが何を言っているのかわからなかった。私が呆然と立ち尽くしていると、なんだかわからない生物の咆哮が耳に突き刺さった。

 音がした方を向くと、「怪獣」がいた。現実には信じられないけれど、赤く光る眼、巨大なあごから覗かせる濃い緑色の鱗で覆われた肌、二足歩行する太い脚を持ったそれは、怪獣としか表現のしようがなかった。

 そして私はそれを見て、不思議と恐怖よりも胸の苦しさを感じた。胸がぎゅっと締めつけられるような感覚だった。

「下村さんは下がっていて」

「え?」

 私が何か言おうとするよりも早く、下村さんは鞄から本を取り出した。本には「杜甫詩選」と書かれていた。古代中国の詩人、杜甫の詩集だ。

 下村さんが杜甫の詩集を掲げると、本が光って、そのまま下村さんの体がグリーンの光に包まれた。光が消えると、下村さんは魔法少女の格好をしていた。これも信じられないけれど、胸元にグリーンの大きなリボンのついた白い光沢のあるトップスに、リボンと同じ色のプリーツスカート、純白のブーツ、手袋にステッキという森さんの格好は、「魔法少女」としか形容しようがない。そんなアニメみたいな恰好なのに、森さんには驚くほど似合っていた。ファンシーな服装は端正ながらやや幼さの残る容貌にぴったりだったし、大きなシルエットの手袋とブーツは細身の手足とコントラストをなし、よく映えている。

 魔法少女に変身した森さんは怪獣へと視線を向けた。怪獣の向かう先には、一位、二位、三位の順位が書かれた白い台があった。グラウンドにあんな表彰台が置かれているのは見たことがない。まるで降って湧いたようだった。

 そして表彰台の上をよく見ると、ぼろぼろになったスパイクが、ど真ん中――つまり、一位の人が立つ場所――に置かれていた。スポーツに疎い私には何のスパイクなのか分からなかったけれど、表彰台との組み合わせは何かの競技を連想させた。

「下村さんはあの木の陰に隠れていて。怪獣があのスパイクのところに行く前に止めないと、取り返しがつかなくなる」

 さっきのどこか自信なげな態度とは打って変わって、凛とした口調で森さんは言うと、怪獣の方へと飛び立った。森さんが空を飛んでいるのを、私は呆気に取られて見入った後、我に返ってグラウンドの隅にある木の蔭へと走った。

「黙して失業の徒を思い、因りて遠戌えんじゅつの卒をおもう!」

 森さんが叫ぶと、森さんが手に握ったステッキから緑色の光線が発射されて、怪獣に直撃した。怪獣が苦悶の声を上げる。

「まったく、邪魔しないでくれませんか?」

 突如として聞こえてきた声の方向を見ると、森さんと似たような格好の「魔法少女」――こちらは、黒を基調としたコスチュームだけれど――が、怪獣の後方を飛んでいた。彼女の腕には、気を失ったもう一人の魔法少女が抱かれていた。気を失った方の魔法少女はオレンジ色のコスチュームだった。

「荘子さん……」

 森さんがどこかうしろめたさの混じった表情で黒い魔法少女を見据えた。

「杜甫さん、あなたはせっかく我執を捨てようとしているこの子の邪魔をするというのですか」

「荘子さん」と呼ばれた少女は、底冷えのする表情を浮かべた。どこか無機質で、非人間的なものを感じさせる表情だった。

「私はもう、記憶を捨てていく少女たちを見過ごすことはできない」

 荘子から「杜甫さん」と呼ばれた森さんの声に緊張の色が混じる。

「記憶ではありません、我執です。少女たちは自ら我執を捨てることを選んでいるのに、いったい何の権利があって、あなたはそれを止めるのですか」

「記憶を捨てるのは、だめだよ……。捨てたら、もう二度と取り戻せなくなる」

「取り戻せなくたっていいではないですか。我執など、持っていても何の意味もない。ただ苦しいだけではないですか」

「……そんなこと、ない」

「それはあなたの考えではありませんか。この子にあなたの考えを押しつけないでください」

 ぴしゃりと荘子に言い放たれて、森さんは悲しそうな顔をした。

 森さんが言葉を返せないでいるうちに、荘子さんの腕に抱かれたまま気を失った魔法少女が苦しそうなうめき声を上げた。すると、怪獣が少女のうめき声に呼応するように暴れ始めた。

 突然のことで森さんは回避しきれず、怪獣の尻尾が森さんに直撃した。

 森さんはグラウンドにたたきつけられて、周囲には土埃が舞った。

 大変だ、森さんを助けなきゃ。私は森さんの方へと駆け出した。走りながら、私はさっきから続く不思議な胸の苦しさを感じていた。

 ――私、なんのためにここまで頑張ってきたんだろう。

 ――もう、頑張れないよ。

 ――こんな思いをするくらいなら、もう全部忘れてしまいたい。

 怪獣が暴れまわるたびに胸の苦しさは増し、それと同時に少女の声が頭の中に響いた。あの気を失っている少女の声だろうか。

 頭の中に響く少女の声を聞いていると、胸が詰まるようだった。悲痛な響きを持った少女の声から、彼女の苦しみや悲しみが伝わってきた。こんなに苦しそうな子を放っておけない。

 次の瞬間、私の鞄の中から光が漏れ始めた。中を開けてみると、光っているのはさっき部室から持ち帰って来た「論語」だった。

「下村さん……」

 私が森さんのそばへ駆け寄ると、森さんはふらふらと立ち上がった。どこか痛いところを我慢している表情だった。

「森さん! 大丈夫?」

「私は平気。それより、その光……」

「これ? なんか、さっきの論語が光っていて……」

 森さんは一瞬虚を突かれたような顔をして、すぐに真顔に戻った。

「下村さん、あの女の子を助けたいと思う?」

「どうしたの、急に」

「いいから答えて。あの怪獣が表彰台にたどり着く前に」

 差し迫った様子で森さんは言った。話しているうちに、怪獣はスパイクの置かれた表彰台にあと一歩というところに迫っていた。

 私はどうしたいんだろう。そう思って、受験が終わってから何かしたいなんて思ったことがなかったことに気づいた。You Tubeを見ていたのだって、何もしないということをしたいと思った結果であって、別に動画を見ること自体がしたいわけではなかった。

 そのこと自体には納得しているはずだった。自分自身がよく考えた結果として、あえて「何もしない」という行動を選択したはずだった。それなのに、少女の声を聞いていると、無性に胸がうずいた。

「……助けたい」

 口に出してから、自分の口から出てきた言葉に驚いた。自分はあの子を助けたいと思っているのだろうか。私は自問してから、

「助けたい。あの子が何で苦しんでいるのかわからない。でも、あの子を助けたい」

 自分の想いを確かめるように、もう一度しっかりと言った。

 すると、論語が赤く光り、私の体は赤い光に包まれた。気づくと私も森さんと同じように魔法少女のコスチュームに身を包んでいた。白を基調としたコスチュームなのは森さんと一緒だったけれど、森さんがグリーンのスカート、グリーンのリボンなのに対して、私は深紅のスカートに深紅のリボンだった。

「私、どうしちゃったの?」

「説明は後。あの子を助けるためには、まず怪獣を止めないと」

 森さんは言うなり飛び立ち、怪獣から表彰台を守るように、怪獣と表彰台の間に割って入った。

「ちょっ、森さん」

 私はどうしていいかわからないまま地面をけると、森さんと同じように私は空を飛んだ。

 恐怖や不安よりも、私は不思議な気持ちの高まりを感じていた。頑張ってもダメだった私でも、こんな特別な力が使えるんだ。

「黙して失業の徒を思い、因りて遠戌の卒をおもう」

 森さんが怪獣へ向けて光線を放つと、光線は怪獣に直撃した。表彰台へと進んでいた怪獣がひるむ。

「今だよ、下村さん」

「え?」

「手を怪獣の方へ伸ばして、何でもいいから印象に残っている『論語』の言葉を叫んで!」

 わけがわからなかったけれど、気づくと私は叫んでいた。

「力足らざる者は、中道にして廃す。なんじ今画かぎれり!」

 私の手からは深紅の光線が発射され、怪獣に命中した。

 怪獣は苦しみに満ちた声を上げてから、霧のように消えていった。不思議な高揚感が胸に残った。

 怪獣の消失を見届けると、森さんはその場に力なく座り込んだ。

「森さん、大丈夫?」

「……うん、平気。ちょっと疲れちゃっただけだから」

 そう言いつつ、森さんはつらそうだった。早く戻ろう、と私が言おうとしたとき、荘子が近づいてきた。荘子の腕の中の少女が目を覚ましていた。

「荘子さん……?」

 少女は荘子に抱かれたままうつろな目で言った後、弾かれたように地面に降り立った。

 あらためて、私は少女の姿を観察した。森さんや私と似た魔法少女のコスチュームだけれど、森さんがグリーン、私が深紅のコスチュームなのに対して、オレンジ色のコスチュームに身を包んだ彼女。短く整えられた髪と、コスチュームからのぞく健康的で長い手足から、活発そうな印象を受けた。

「私、我執が……じゃあ、失敗したんですね」

「そうです、陶淵明さんの怪獣が『核心』にたどり着こうとするのを、あの人たちが阻んだのですよ」

 荘子から陶淵明と呼ばれた少女は、敵意に満ちた視線を私たちに向けた。

 え、なんだこれ。さっきまで胸にあった高揚感が、急速に熱を失っていく。荘子が少女を抱えているのを見て、荘子が少女に悪いことをしているのかと思った。それなのに、これじゃ、まるで。

「私は陶淵明。あなたたちは?」

「私は杜甫。こっちは論語」

 森さんが私を指し示しつつ答える。

「杜甫に論語。あなたたちはなぜ私の邪魔をするというのだ」

 これじゃまるで、私たちが悪者みたいじゃないか。とげのある陶淵明の声に、森さんが顔を歪める。

「ごめん、陶淵明さん。でも、あの怪獣が『核心』にたどり着いたら、陶淵明さんの記憶が消えちゃうんだよ」

「知っている」

「だったら、こんなことやめよう。記憶を捨てるなんて、そんな悲しいこと」

「私は今悲しいんだ!」

 怒気を含んだ少女の声に気おされて、森さんは口をつぐんだ。

「やめろというのなら、私の苦しみをなくしてくれ。私の悲しみを取り除いてくれ」

「それは……」

「できないだろう。ならもうやめてくれ」

「……」

「わかりましたか、杜甫さん。そういうことですよ。我執を捨てることを止めたって、陶淵明さんが救われるわけじゃない。あなたにとってもいいことはないではないですか。よく考えておくことですね」

 荘子は言ってから、私の方を見た。

「初めましてですね、論語さん。私は荘子」

「はあ……」

「その顔は、杜甫さんに言われるままに流されて、というところですか。自分が何をしているのか、あなたも杜甫さんから聞いてよく理解しておいてください」

 荘子は陶淵明と連れ立って、飛び立っていった。

 森さんを見ると、泣き出しそうな顔をしていた。

「森さん、どういうこと?」

「急なことでごめんね、下村さん。順番に話すよ」

 森さんは、絞り出すようにと話し始めた。



                     四


「魔法少女っていうのは、心に何かを抱えた存在で……」

「心に?」

「うん。その人の悩みだったり、迷いだったり……とにかく何かを抱えているの」

 電車で隣に座った森さんが言う。森さんと私の家は方面が同じということがわかって、時間も遅かったので、帰りながら話すことになった。

「魔法少女の力の源は、そんな心に抱えたものなんだ。それで、みんな古典を媒介にして変身するんだ。なんでなのかはよくわからないんだけど、長い間読み継がれてきた昔の本にはそれだけ人の抱えてきたものが込められているから、読むことで抱えているものが大きくなるのかもしれない」

 森さんの話を聞きながら、私はさっきの出来事を思い返していた。「杜甫」と呼ばれていた森さんが杜甫の詩集を媒介に変身していたことを考えると、荘子は古代中国の思想家である荘子の言葉をまとめた「荘子」、陶淵明は古代中国の詩人陶淵明の詩集を媒介に、それぞれ変身したのだろう。そして、私が論語を媒介に変身したのだろうということも想像がついた。

「荘子さんに言わせれば、魔法少女が抱えているのは『我執』ってことになるんだけど。下村さんも、何かきっと抱えているものがあるんでしょう?」

 心臓が跳ね上がる気がした。もし森さんの言う『抱えているもの』が私にあるとしたら、中学受験で落ちたことに違いなかった。私は黙ってうなずくことしかできなかったけれど、森さんはそれ以上そのことに踏み込まずに続けた。

「それで、魔法少女たちが抱えているものは力の源でもあり、リスクでもあって……。抱えているものが魔法少女の中で処理しきれなくなると、怪獣の形になって表れるんだ。あの怪獣は、陶淵明さんの抱えているものが実体化した結果」

 漫画やアニメの話みたいで、にわかに信じがたかったけれど、さっき見たものを考えると納得するしかない。

「怪獣が出現すると現れるのは、魔法少女の記憶の世界なんだ。記憶の世界が現れると、魔法少女に適合した人以外は動けなくなってしまう。さっき、私たちはグラウンドにいたけれど、あれは陶淵明さんの記憶の中のグラウンドだと思う。それで怪獣がその人の記憶の核の部分にたどり着くと、その人の抱えているもののもとになった記憶が消えちゃうんだ。荘子さんはそのことを『我執を捨てる』と言っていて、魔法少女たちの抱えているものがうまく怪獣の形になるようにして、我執を捨てさせようとして動いているんだ」

「そんな……。私たちと同じ魔法少女なんでしょ?」

「うん。私たちと荘子さんに共通しているのは、他の魔法少女の記憶の世界に触れられるってこと。だから他の魔法少女に記憶を捨てさせることもできるし、それを止めることもできるんだ」

 森さんは顔を曇らせた。

「荘子さんは荘子さんなりに、魔法少女たちを助けようとしているんだと思う。我執を捨てれば、苦しいことの記憶が消えて救われるから、って。だけど、私はそれで魔法少女たちが救われるとは思えない。苦しいことや悲しいことの記憶だって、その人の一部だって思う。それに……」

 森さんは一瞬言葉を詰まらせてから、低い声で言った。

「記憶を捨てて、人が変わってしまったのを見たことがあるから」

「……」

 私は何と言ったらいいのかわからなかった。私と森さんが乗っている電車の走る音だけが、二人の間にできた無音の時間を埋めていく。

 もし自分が陶淵明の立場だったらどうだろうか。荘子の言う『我執』のもとになったであろう、中学受験の記憶を捨てたいと思うだろうか。確かに記憶を捨てたら楽になれそうな気がしたけれど、同時に記憶が消えてしまうのは怖いようにも感じた。考えても答えは出なかった。

 私が言葉を発せずにいると、森さんは慌てて言った。

「ごめんね。こんな話、されても困るよね」

「ううん、そんなことないよ。私こそ、黙っちゃってごめん」

 森さんは少し緊張が和らいだ表情を見せてから、また沈んだ調子に戻った。

「今日は巻き込んじゃってごめんね。私もどうしていいかわからなくなってきちゃった」

「え?」

「今までは、記憶を消したらダメだって思ってきた。魔法少女が記憶を消すのを止めるために戦ってきた。でも、荘子さんにも陶淵明さんにもああ言われて、このままそれを続けて本当にいいのかなって思った。自分がやっていることが正しいのか、わからなくなってきちゃった」

 森さんの言葉を聞いて、私はなぜか焦りを感じた。

「でも、記憶を消したら人が変わっちゃうんでしょ? さっきだって、森さんはそう言っていたじゃない」

「うん。私にとってはそう。でも、さっき陶淵明さんに言われて思ったんだ。魔法少女が今抱えている悲しみや苦しみはどうにもしてあげられない。それなのに記憶を消すのを止めるのって、ある意味残酷なことをしているのかもしれないって。今日は、そんな正しいかもわからないことに下村さんを巻き込んじゃって……。」

 そう話す森さんの肩はとても小さく見えて、私の胸はうずいた。なぜか彼女のことを放っておけないと思った。何か言わないと。必死で口を開いた。

「一日……」

 発した声は自分で思ってたよりも小さくて、電車の音にかき消される。

「一日、考えてみよう。結論は急がなくてもいいと思う。明日また話そう」

 今度は電車の走行音の中でも聞こえるように、はっきり言った。

 そのとき、私は電車が最寄り駅に到着していることに気がついた。森さんとの会話に夢中で、電車がいまどこを走っているかなんてまったく気にしていなかった。

「ごめん、森さん、私ここだから。それじゃ、また明日ね」

「う、うん。また明日」

 私はあわただしく森さんに別れを告げてから改札を出て、しばらく立ち止まって考えてから、いつもと違う方向へと足を踏み出した。図書館はもう閉まっている時間だ。それなら行き先はひとつしかない。機械的に家と学校の往復しかしてこなかった私にとっては、初めての寄り道だった。



                     五


「ただいま」

 家のドアを開けて靴を見ると、母は帰ってきているようだった。仕事があったのかもしれないが、仕事があるときもこれぐらいの時間には帰ってくる。

 私がリビングに入ると、母はまた資産運用の本を読んでいるところだった。

「今日は遅かったのね」

 母は私の方を見ずに言った。

「うん、部活に入ったから」

「そう」

 少しは驚くかと思ったけれど、母は本から目をそらさないままだった。中学受験に失敗してから私に対する関心はそれほど失せたということなのだろう。何か反応があることを期待した自分の愚かさを私は呪った。だけど、今はそんなことを気にしている場合じゃない。

 私は二階にある自分の部屋にあがってから、本屋の名前が書かれた紙袋を開いて中身を取り出した。

「杜甫詩選」の文字が表紙を飾る。本屋に入ってからは、この本のことはすぐに見つけられた。もっとも今まで勉強しかしてこなかった私は、最寄りの駅の周りですらあまり歩いたことがなくて、肝心の本屋にたどり着くまでに三十分ほど道に迷ってしまったけれど。とにかくこの本を読まないと、今の森さんにかけるべき言葉がわからないような気がした。

 ページをめくると、目当ての箇所にはすぐにたどり着いた。

京自り奉先県へ赴くときの詠懐、五百字」。杜甫が詠んだ詩だ。


 黙して失業の徒を思い

 因りて遠戌の卒をおも

 憂端は終南にひとしく

 鴻洞としてひろう可からず


「わたしは黙って生業を失った人たちのことを思いやり、そのことからさらに遠征の兵士たちの上に思いを及ぼしてみる。わが憂いのいとぐちはやがて終南山ほどにも広がり、もやもやと立ちこめてそれを拾い収めることもできぬほどであった」と現代語訳される。

 魔法少女に変身した森さんは、「黙して失業の徒を思い、因りて遠戌の卒をおもう」と言っていた。貧しさや、兵役に苦しむ人々への想いを綴った杜甫と、森さんのイメージが重なった。この詩を読めば、明日森さんとどう話せばいいかわかるかもしれない。

 詩を読んでいくと、杜甫の人物像が見えてきた。


 江海の志無きにあら

 瀟洒しょうしゃとして日月を送らん

 生まれて堯舜ぎょうしゅんの君に逢うに

 便すなわ永訣えいけつするに忍びず


 ――ときには江海のほとりに逃れて、さっぱりと月日を贈る気持ちを起こさぬでもない。しかし堯舜のような聖天子のみ代に生まれ合わせたからには、ただちに永久にお別れするには忍びぬものがある。


 堯舜とは太古の聖天子であり、当時の玄宗皇帝の暗喩であるらしい。


 ついそうゆうとにずるも

 未だそのみさおうるあたわず

 沈飲もていささか自ら遣り

 放歌もて愁絶を破る


 ――けっきょくは古の隠者であるそうきょゆうに対して、恥ずかしく思わぬではないが、自分の主義を曲げる気にはとてもならない。酒にひたっていささか自分の心を慰め、きままに歌を唱って激しい愁いを晴らすばかりである。


 杜甫は不遇の人だった。役人としては出世できず、この詩を詠んだときに幼い子供を飢えで亡くした。「江海の志」――世の中から離れて隠遁する気持ち――もあるけれど、人民の苦しみを思っている彼は、結局は世に出ることを諦められない。

 私は静かにページを閉じて、目をつぶった。森さんも杜甫と同じなのではないだろうか。魔法少女である以上、森さんも何かを抱えているに違いない。その抱えている苦しみを広げて、他人の痛みを想像できる人。痛みを抱える他人を助けたいと思いながら、そうすることに迷いを抱えてしまう人。

 帰りの電車で、「どうしていいかわからなくなってきちゃった」と語る森さんの肩が小さかったことを思い出す。やっぱり森さんのことは放っておけない。

 電車の中では森さんに何と声を掛けたらいいかわからなかったけれど、明日森さんにかける言葉は決まった。杜甫の詩を読み終わって、私の胸には妙な達成感があった。考えてみれば、何か新しく知識を取り入れようと自分から勉強したのは、中学受験のとき、それも塾に通い始めたてのとき以来かもしれない。



 翌日、森さんと教室では何となく話す雰囲気にならなかった。魔法少女の話をしないのは周囲の目があるからだったけれど、魔法少女の話より先にほかの話題について話す気にもなれなかった。たぶん、森さんも同じだったのだと思う。森さんと会話をしないまま一日の授業が終わって、放課後、部室のドアを開けると、森さんはすでに座っていた。

「あ、下村さん」

「森さん、昨日はありがとう」

「こちらこそ」

「……」

「……」

 微妙な間が生じた。森さんも昨日のことをどう切り出そうか迷っているのは明らかだった。

「昨日のことだけど」

 何となく森さんより先に話した方がいい気がして、私は口を開いた。

「森さんが今やっていることは間違っていないと思う。私も森さんに協力して、記憶を捨てようとする魔法少女を止めたい」

 森さんの顔に赤みが差した。

「……ありがとう。下村さんがそう言ってくれて嬉しい。でも、やっぱり私に魔法少女は無理だと思う」

 森さんの言葉を聞いて、電車の中で感じたのと同じような焦りを感じた。

「どうしてそう思うの?」

 焦りを抑えて聞く。

「昨日も言ったと思うけれど、前に友達が魔法少女になって、記憶を捨てちゃったことがあって……」

 確かに森さんは昨日、「記憶を捨てて、人が変わってしまったのを見たことがある」と言っていた。だけど、それが友達だったということは今初めて聞いた。記憶を捨てるのを見届けたということは、森さんもそのときから魔法少女だったのだろうか。色々聞きたいことはあったけれど、私はうなずいて先を促した。

「そのときに友達を止める勇気がなかった自分が嫌で……。友達を止めなかったことを後悔して、今度は記憶を消そうとする魔法少女を止めたいと思った。そう決めたはずなのに、陶淵明さんや荘子さんからああ言われて、どうしていいのかわからなくなっちゃった」

 森さんは苦しそうに息を吸い込んでから言った。

「私は記憶を消そうとする魔法少女たちを助けたい。でも、記憶を消すのを止めても、魔法少女たちの苦しみや悲しみはなくならないんだって思った。私が頑張っても、苦しんでいる魔法少女たちを救うことはできない」

 森さんの声が重く沈む。

「きっと、こんなふうに迷いがあるうちは、魔法少女が記憶を捨てるのを止めようとしても止められないと思う。こんな意志の弱い私には、他人がやろうとすることを止める資格なんてない。私には、もう魔法少女として戦うのは無理なんだよ」

 森さんはどこまで真面目なんだろう。苦しんでいる人のことを見過ごせなくて、その人を助けるためにどうしたらいいか悩んで、助けることができない自分を責めて。気づくと私は、こぶしを握り締めていた。

 息を吐いてから、森さんの大きな瞳を見る。

「黙して失業の徒を思い、因りて遠戌の卒をおもう」

 私の口から出てきた言葉を聞いて、森さんが目を見開く。

「変身したときの森さんが言っていたのって、杜甫の詩でしょ。昨日、詩集を読んだよ。森さんは迷いがあるから無理だって言ったけれど、迷いがあるのは魔法少女を止めたいって気持ちがあるからだと思う。杜甫みたいに、苦しんでいる人を思う心が森さんにあるからだと思う。他人が苦しんでいてもいいと思っていたら、迷っていないでしょ。それで杜甫みたいに迷っているんでしょ」

「それは……」

「だから森さんのその迷いは大切なものだと思う。迷いがあるから魔法少女を止める資格がないんじゃない。迷いがあるから資格があるんだよ」

 顔が熱い。いつの間にか、夢中で話していた。

「どうして……」

 森さんがつぶやくように言った。

「どうして下村さんは、そこまで言ってくれるの? わざわざ詩集まで読んで……」

 そういえばどうしてだろう。そう思ったとき、論語の言葉が頭の中に響いた。

 ――力足らざる者は、中道にして廃す。今女なんじ今画かぎれり。

 ああ、そうか。私――

「私、この学校は第一志望じゃなかったんだ」

 誰にも話したことのなかった胸の内――自分ですらわかっていなかった自分の気持ち――を、私は話そうとしていた。

「中学受験、たくさん勉強したのに失敗しちゃって。それでもあきらめずにまた次のステージで頑張れる人もいるかもしれないけれど、私はそうじゃなかった。もう頑張っても意味がないって思っちゃったんだよ」

 話しているうちに鼻の奥がツンとしてきて、視界が滲むのを感じたけれど、私はそれを抑え込んだ。

「自分がそんなふうに諦めて頑張ることをしなくなっちゃった人間だから、自分と違ってまっすぐに頑張る森さんがまぶしかったんだと思う。苦しんでいる魔法少女に正面から向き合おうとしている森さんがまぶしかった。だから、私は森さんに諦めてほしくない。森さんには、私みたいな人間になってほしくない」

 森さんが魔法少女として戦うことを諦めそうになった時に感じた焦りの正体を、私は自覚した。結局、私は森さんに憧れていたのだ。だから森さんが頑張るのを諦めてしまうことに焦っていたのだった。そのことがわかると言葉があふれて止まらなくなった。

「私も協力する。魔法少女になって、森さんと一緒に戦う。記憶を消さなくても魔法少女を助ける方法を、一緒に探そう。もし森さんが戦えなかったら、私一人でも戦う。森さんが目指した理想が嘘じゃないってことを、私が証明する」

「……ありがとう」

 私の話を聞いて、森さんの瞳は潤んでいるように見えた。

「ありがとう。下村さんにそう言ってもらえて、勇気が出た。私、諦めない。きっと、この手で魔法少女たちを助けるよ」

 森さんはひとことひとこと区切るように言った。

「だけど、本当に諦めている人はそんな風に言わないと思う。頑張りたいって気持ちがない人は、人のことをまぶしいなんて言わないよ。下村さんだって、頑張る人だよ」

「そんな……私なんて……」

 否定しそうになった私の言葉を、森さんが遮る。

「下村さんは迷いも大切だって言ってくれたけど、それを言うなら『頑張っても意味がない』って思った気持ちだって、大切なものだと思うよ。頑張ったからショックが大きいんだよ。頑張っていなかったら、結果が出なくたってショックを受けないでしょ」

 ――力足らざる者は、中道にして廃す。今女なんじかぎれり。

 森さんの柔らかな声を聞くと同意に、「論語」の言葉が頭の中でリフレインした。

 結局、私は頑張った結果、また傷つくのが怖かっただけじゃないのか。自分自身に言い訳をしていたんじゃないか。

 目の奥から熱いものがこみあげてきて、私は目頭を押さえた。

 ――頑張りたくないから。頑張ってもいいことがあると思えないから。

 自分の言ったことを思い出す。そんな無気力なセリフを吐いた私を、森さんは「頑張る人」と評してくれた。

 私は、「力足らざる者」ではないのだろうか。もう一度、頑張ってもいいんだろうか。

 なぜか、廊下の窓から見た、校庭で短距離を走る少女のことを思い出した。

 自分も、あんな風に……。

 あのとき蓋をした言葉の続きを、私は今はっきりと自覚した。

 自分も、あんな風にまた頑張りたい。

 ――力足らざる者は、中道にして廃す。今女なんじかぎれり。

 冉求にそう言った孔子は、苦難の道を歩んだ人だった。自らの理想とする政治を受け入れてくれる君主を求めて諸国を放浪したけれど、結局彼の説く道を受け入れてくれる君主は現れなかった。それでも彼は、生涯にわたって自らの理想を曲げることがなかった。

 孔子のこの言葉は、弟子を叱咤するものであると同時に、ひょっとしたらくじけそうになる自らを奮い立たせるものだったのかもしれない。

「仁乃」

 私は鼻声になりながら言った。

「下村仁乃。私の名前。仁乃、って呼んで」

 このタイミングでこんなことを言い出すのはおかしいかもしれない。でも、なぜか言わずにはいられなかった。

「うん、仁乃ちゃん」

 仁乃ちゃん。森さんの柔らかな声でそう呼ばれると、今まで好きになれなかった自分の名前も、少しだけ好きになれる気がした。

 森さんは、顔を赤くして言った。

「私のことも、陽葉梨って呼んで」

「わかった、陽葉梨」

 陽葉梨。ひより。あらためて口に出すと、綺麗な名前だと思った。優しくて暖かい、この人にぴったりな名前。

「……えへへ。なんだか照れ臭いね」

 はにかみながら、陽葉梨は私の手を握った。

「これから一緒に頑張ろうね、仁乃ちゃん。私、仁乃ちゃんとだったら、どこまでも頑張れそうな気がする」

「私もだよ、陽葉梨。まっすぐに頑張っている陽葉梨に負けないように、私も頑張る。一緒に頑張ろう」

 口に出してから、不思議な感じがした。何かを頑張りたいと思ったのはいつぶりだろう。

 夕日が部室に差し込んで来た。外を見ると、カラスが二羽隣り合って、空高く飛んでいった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る