貝の沈黙
由水李予
第1話
今は埋め立てられてしまって見る影もないけれど、わたしが子どものころ、あの辺りは松の生えた砂浜で、ちょっと砂を掘るとハマグリがどっさりと取れたものだった。最近潮干狩りなんかをやってる海岸に行くと、貝があちらこちらに散らばって埋まってるけど、あれは嘘さ。自然のままの貝は、一箇所に集まってるから、一つ見つけると、その下から下から抱えきれないほどの貝が見つかって、同じ場所を一心に掘り続けたものだよ。
わたしは昔、口べたな子どもだったから、学校ではあんまり喋れなくてね。お勉強だって苦手で、先生に質問なんかできなくって、どんどんわからなくなって、置いてけぼりになって。教室は居心地が悪いから、学校が終わると一目散に砂浜へ行って、一人で貝を取っていた。
だけど、そんなわたしにも、一人だけお友達になってくれる子がいた。その子はなんと村で一番の地主の子だった。わたしのように、いつ海に入ってもいいようなみすぼらしい服じゃなくて、桜色のブラウスなんか着たりしてね。お嬢様、という言葉がぴったりあうような子だった。その子は千代子という名前だった。わたしは千代ちゃんと呼んでいたよ。千代ちゃんは喘息持ちで、縄跳びや鞠つきをするとすぐ息が苦しくなってしまうものだから、学校の友達の輪には入りづらかったんだろうね。それか、休憩時間にぽつんと一人、席にうつむいて貝のようになっているわたしを見かねたのか、ある日わたしに話しかけてくれた。「浪子ちゃん」だなんて、同い年の女の子に呼ばれたのは久しぶりで、わたしはもごもごしてうまく喋ることができなかった。それでも千代ちゃんは、何回も話しかけてくれたよ。よく晴れた日のお昼休みなんか、同級生は外へ遊びに行ってしまうから、いつもだったらわたしは、自分の席でじっと座っていた。運動場には貝がないからね。でも、千代ちゃんが話しかけてくれるようになってからは、二人きりの教室で、向かい合ってお喋りしたよ。お喋りと言っても、わたしはうまく喋れないから、いつも千代ちゃんがぽつりぽつりと話してくれた。千代ちゃんの話は、わたしには難しかった。千代ちゃんのお家はお金持ちだし、お父さんは市議会議員をやるような頭のいい家の子だったから、本をたくさん読んでいたんだろうねえ。海外の物語とか、よくわからなかったけれど、それでも、初めてできたお友達だったから、わたしは一所懸命に耳を傾けていたんだ。
お喋りするようになってからしばらくしたある日のこと。わたしは千代ちゃんの家にお呼ばれされた。他の子に見つからないように、こっそりおいで、と千代ちゃんは言った。学校が終わると、わたしはいつものように一人で砂浜に向かう振りをした。砂浜へ降りる坂道で立ち止まり、山側を振り返ると、坂の上のお屋敷が見える。この辺りでは珍しい二階建ての家だ。硝子窓に白い漆喰の壁、そして青銅色の瓦屋根が緑の山肌から覗いている。わたしはどきどきしながら海に背を向けて坂を駆け上がった。
「表の門は子どもだけでは開けられないから、裏手の勝手口から入っておいで。鍵は開けておいてあげる」
千代ちゃんの言葉を思い出して、塀に沿って歩くと、人一人が通れるくらいの扉があった。そっと押し開いて中に入ると立派な松や鯉の泳ぐ池があって、わたしは驚いた。日本庭園なんてものを見たのが初めてだったから、目を白黒させたよ。千代ちゃんは池の向こうの山茶花の木の側に立って待っていてくれた。
お屋敷の庭にいる千代ちゃんが目に入ったとき、わたしはちょっとした違和感を覚えた。千代ちゃんは色白で線が細い女の子だったから、どこか影の薄い感じがいつもはあったのだけど、そのときは姿形がくっきり見えた気がしたから。池の飛び石を渡って近づくと、そのわけがわかった。千代ちゃんのすぐ後ろにもう一人、人が立っていたんだ。さらに近づいていくとわたしはびっくり仰天した。そこには千代ちゃんが二人いた。わたしは自分の目がおかしくなったと思って何度も瞬きしたけど、目の前の光景は変わらなかった。
「どうしたの? 浪子ちゃん」
前にいるほうの千代ちゃんがにっこりと笑って問いかけた。わたしは口をぱくぱくさせて何とか口をきいた。
「後ろにいるのは・・・・・・?」
千代ちゃんは不思議そうに首をかしげてから、後ろを振り向いた。
「ここにはわたししかいないわ」
「でも・・・・・・」
わたしは震えながら指をさす。後ろにいる千代ちゃんは能面のような無表情でじっとこちらを見つめていた。
「後ろにあるのはわたしの影だけ」
そう言うと、千代ちゃんはわたしの手を取って歩きはじめた。影も千代ちゃんの後を音もなくついてくる。わたしは二人の千代ちゃんの顔を見比べながら歩いたよ。始めはびっくりしたけれど、影と言われると段々とそんな風に思えてくる。千代ちゃんは明るい色のブラウスを着ていたけど、影は黒いワンピースを着ていてね。そして瞳は暗く閉ざされていた。
少し歩くとお屋敷の離れに着いた。離れと言っても、こじんまりしているけど二階建ての立派な日本家屋だ。
「ここはわたしの影のおうち。だからわたしの好きにしていいの」
縁側からお座敷に上がる。お座敷の中も立派な調度でそろえられていて、板張りの粗末な海辺の家に住んでいたわたしは、目がちかちかした。
「さあ、遊びましょ」
有無を言わさない様子に、わたしは黙って頷くしかなかった。千代ちゃんに嫌われたくなかったからね。
それからも、わたしは時々お屋敷に呼ばれた。学校では物静かでひっそり過ごしていた千代ちゃんだったけど、お屋敷の中ではいくらか生き生きしているようだった。お屋敷ではいつも影がすぐ側にいるから、相対的に明るく見えていたのかもしれないね。わたしのほうも何度かお屋敷に通ううちに、影の存在に慣れていった。影は物言わず佇んでいるだけだったから、意識しないとそこに居ることを忘れてしまうんだ。わたしと千代ちゃんが遊んでいる間、影は離れの部屋の隅に立って、虚空を睨んでいた。
わたしたちはよく貝合せをして遊んだ。貝合せっていうのはね、蛤なんかの二枚貝の貝殻を左右にわけて、ぴったり合うものを見つけ出す遊びのことさ。トランプの神経衰弱みたいなものだね。ある日、千代ちゃんはお座敷の棚から蒔絵が施された重箱を持ってきた。その中にはきれいな絵が描かれた貝殻がたくさん詰められていた。わたしたちの住んでいた地域では、貝を使った工芸品がよく作られていて、わたしも自分で取った貝殻を集めたりしていたけど、そんなものとは比べものにならない贅沢な合貝だった。色とりどりで繊細な絵に、金箔があしらえられていてね。こんなにきれいな貝を見たのは初めてだったから、その時は千代ちゃんが羨ましくてたまらなかったよ。
初めてできたお友達から立派なお屋敷へお呼ばれされて、わたしは有頂天になっていた。だけど、そんな日々はあっけなく終わってしまった。
その日は薄曇りだった。空が灰色だと、海は黒く見える。いつものように砂浜に行く振りをしてから、坂道を上って勝手口からお屋敷に入った。いつもだったら千代ちゃんが庭で待っていてくれるのだけど、その時は誰もいなかった。わたしは戸惑いながらも、一人で離れへ近づいた。お座敷の中をのぞき込んでみたけれど、そこには誰もいなかった。
勝手に縁側から上がって座って待っていたけど、誰も来ない。時間を持てあましていたわたしの目は、棚に置かれた重箱に吸い寄せられた。暇だし、見るだけなら怒られないだろう。そう思って重箱へ近づき、蓋を持ち上げた。鮮やかな合貝は、わたしにとって何よりの宝物で、眺めているだけで幸せになれた。
魔が差した、というのはあの時のようなことを言うんだろうね。貝合せの貝はたくさんあるから、一枚くらい無くなっても気がつかない、そんな考えが頭に浮かんだんだ。
わたしは一番小さな貝殻を一枚つかみ、スカートのポケットへ滑り込ませた。
それからはずっと心臓がどきどきして痛かったよ。元通りに重箱を棚に戻し、何食わぬ顔で正座して千代ちゃんを待っていた。いつ来るか、いつ来るか、と身構えていたけど、千代ちゃんはいつまで経ってもやってこない。緊張しっぱなしで疲れたのか、わたしはいつのまにか、うとうとしてしまっていた。
しばらくして、肩を叩かれたような気がして目を覚ました。たぶん、数十分くらいうたた寝してしまっていたと思う。身を起こして目をしばたたくと、目の前には千代ちゃんがいた。
いや、違う。それは千代ちゃんの影だった。同じ顔だからぱっと見でわからなかったけれど、黒い服に真一文字に閉じられた唇。それはいつも見ていた影の姿だった。
影は薄暗がりで立っていた。影が一人でいるのを目の当たりにし、わたしはとても動揺した。だって、影は実体があってこそ存在するものだからね。影だけがそこにいる状態はとても不気味だった。わたしは戸惑いながらも影に近づいた。本当にそこにいるのかわからなかったから、近づいて確かめたかったんだ。すると、影から何かの臭いを感じた。それははじめ、海の臭いだと思った。夏の暑い日に砂浜にいると、漁港から生臭い臭いが漂ってくる。その臭いに似ていた。もっとよく確かめようと影に身を寄せようとすると、唐突に腕を捕まれた。突然の接触と意外な力強さに、わたしは驚いた。そして捕まれた腕を見て小さく悲鳴を漏らした。影の手は血で濡れていた。
恐怖で足が竦んでいるわたしに構わず、影はぐいぐいと腕を引っ張って、わたしをどこかへ連れて行こうとした。いつも遊び場となっているお座敷以外の部屋に入ることは禁じられていたので、わたしは必死に抵抗したけれど、影は強引にわたしを引きずって歩く。わたしを連れて、廊下の突き当たりで影は止まった。廊下の先は昇り階段となっているようだったが、見上げても階段の先は暗くてよく見えない。そこでようやく影が腕を放してくれて少しほっとした瞬間、背中を突かれ前に押し出された。たたらを踏んだ足が、何かにぶつかって、わたしは足元を見降ろした。
床には千代ちゃんがあおむけに倒れていた。後頭部がぐちゃっと割れているようで、血でブラウスの襟が赤く汚れていた。一見しただけで、もう生きてはいないとわかったよ。
わたしは悲鳴も出なかった。怖くて怖くてたまらなかった。どうすればよいのかわからなくて、震えながら影を見た。影は黙ったまま何を考えているかわからない。影の視線がわたしを捕らえると、暗い穴に吸い込まれるような心地がした。
それからのことはよく覚えていない。何とか気を奮い立たせて母屋から人を呼んできたときには、影はもういなくなっていた。お屋敷の中は騒然とした。わたしはすぐに離れから外に出されて、お屋敷の一室で座っているように命令された。親が呼ばれて、他言無用であると何度も釘を刺され、必死に頷いたあと、やっと解放された。わたしは千代ちゃん以外とはうまく喋れなかったから、どうせ誰にも話せなかったのだけれど。
次の日、学校はいつも通りだった。先生からは、千代ちゃんは喘息が重くなったので療養するために転校しました、と短い説明があるだけだった。わたしは先生を問い詰めたかったけれど、千代ちゃんと話すのは教室で二人きりの時だけだったし、お屋敷に招かれているところも誰にも見られないようにしていたから、わたしが千代ちゃんについて何か聞くことは不自然だった。それに、影に連れられて向かった先で千代ちゃんが死んでいた、と言っても、誰も信じてくれなかっただろうしね。
わたしも、時間が経つうちに、自分の見た光景は本当だったのかがわからなくなってしまった。あの日々は、ハマグリが見せた蜃気楼だったのでは、と思うようになった。それくらい、分不相応な日々だったから。
わたしはそれからも毎日のように砂浜へ行き、貝を取った。貝は取っても取っても、なくなることがない。恐ろしいくらいに元通りの日常が続いた。
わたしが盗んだ一枚の合貝だけを除いては。
〇
祖母の話には、必ずと言っていいほど海が出てくる。わたしは祖母の話が好きだ。とつとつと語られる昔話は、わたしにとって遠い世界の御伽噺のように心地よい。
そんな祖母だが、ある日転んで腰を痛めてしまった。わたしはちょうど大学の夏休みだったから、よく祖母の家に行って様子を見るようにしていた。お茶を飲みながら祖母の昔話に耳を傾ける。素朴な語り口で描写される昭和の生活の様子は、歴史好きのわたしにはとても興味深かった。
とはいっても、半世紀以上も前の記憶をどこまで信じられるかはまた別の話で、影やらなんやらが出てくる話を、まあ、子どものころの思い出が脚色された少し不思議なお話、って感じかな、と軽く聞き流していた。私の友達でもUFOを見たっていう子もいるし、そんなものだろう、と。
だけどある日、母と一緒に祖母宅の押し入れを整理していると、厳重にしまわれた桐箱の中から、一枚の貝殻が出てきた。色褪せてはいるが金箔も貼られていて、祖母の持ち物にしては珍しい、豪華な工芸品だった。
おや? 最近聞いた話にこんなものが出てきたな、と思い、祖母に訊ねる。
「おばあちゃん、この貝、見覚えある?」
「ああ、見つかっちゃったのね。それ、千代ちゃんちの貝なんだよ。ずっと返しそびれていてねえ」
わたしと母は顔を見合わせた。まさか実物が出てくるなんて思わなかったのだ。
「千代ちゃん、ってこの前の話に出てきた地主の子だっけ?」
「そうだよ。大きなお屋敷のお嬢様でねえ。せっかく遊びに行かせてもらっていたのに、恩を仇で返すようなことをしてしまって……。だけど、千代ちゃんと遊んだ唯一の証拠だと思うと、なんだか手放すのが惜しくてね。見ていると後ろめたくなってしまうから、ずっとしまい込んだままだったんだよ」
しんみりした空気に、わたしと母も悲しい気持ちになってしまった。机の上に置かれた貝殻までぽつんと寂しげに見える。
「千代ちゃんちに返しに行ってきたら?」
「え?」
母が貝殻をわたしの前にすっと動かして、軽い口調で言う。
「あなた、夏休みで暇でしょ? ちょうどいいじゃない。観光がてらおばあちゃんの生まれ故郷に行ってみたら? 古いお屋敷みたいだし、まだ残ってるかも」
「そうしてくれると、わたしも嬉しいわあ。この合貝を返せたら、心置きなくあの世へいけるよ」
「もう。縁起でもないなあ」
「ついでに千代ちゃんが生きているかも調べてくれないかね。あの日からずっと釈然としないままだったからね。あれは私の見間違いで、元気に生きていてくれればよいのだけれど」
祖母からお願いされるとどうにも弱い。わたしは問題の渦中の貝殻をそっと見降ろして、しょうがないなとため息をついた。
貝殻を受け取ったわたしは、まずは祖母の生家付近をネット地図で調べてみることにした。昭和初期の大きなお屋敷ということだから、もしからしたら、と思い『文化財 建築』で調べてみると、なんとその千代ちゃんの家は、有形文化財として登録され一般公開されていた。旧深谷家住宅、それが千代ちゃんちの名前だった。わかったなら善は急げ。次の日には、わたしは祖母の生まれた土地に降り立っていた。
その土地へは、家から電車で二時間ほどかかる。ちょっとした日帰り旅行気分だ。昔は干潟で有名だったそうだが、高度経済成長期を経た今は、海辺は埋め立てられ、大規模な工業地帯となっている。駅の改札口を出るとロータリーがあって、確かに山手へ向かって坂道が続いているようだった。昔は平屋建ての家が多かったから、坂の上まで見渡せたのかもしれないが、ビルやマンションが建ち並んでいる現代では、千代ちゃんちは見えなかった。もちろん反対側を振り向いても海が見えるわけはなく、潮の香りの気配もない。
時代の移り変わりにちょっとした寂しさを感じたりなんかしながら、わたしは旧深谷家住宅へ向かった。あらかじめ調べておいた道順を頭の中に浮かべながら坂道を登る。二十分も歩いていると、標識が見えた。坂を登りきると、そこにあったのは立派な日本家屋だった。塀に囲われていて中は見えないが、ちょっと歩くと車も通れるほどの幅の通用門があった。門をくぐって受付で入場料を支払う。パンフレットをもらって、お屋敷の中に入った。靴を脱いで玄関に上がった先には広い和室の居間があり、居間からは更に広い日本庭園が見える。そこには松も池もあって、祖母の話の通りだった。
居間は深谷家を紹介するちょっとした資料館になっていたので、見て回ることにする。わたしは、千代ちゃんの痕跡がないか、一つ一つ丁寧に説明文や写真を見ていった。写真は時代ごとの深谷家の家族写真だ。そしてわたしは、とある一枚で足を止める。それはちょうど、祖母が子どもだった昭和前期の写真だった。
そこには双子の幼い姉妹が写っていた。
〇
千代ちゃんとそっくりの影、と聞いたときにすぐ思いついたのは、千代ちゃんと影は、実は双子ではないか、ということだった。祖母はきっとその時初めて双子を見たのだろう。本人から影と言われて信じこんでしまったわけだ。
だが、それでもまだわからないことがある。影はなぜ、学校にも来ず、お屋敷の離れに住んでいて、祖母とは一言も喋らなかったのだろう。
写真のすぐ側の陳列棚には、たくさんの合貝が並べられていた。深谷家では女の子が生まれると、その都度合貝を作らせていたらしい。説明文を読むと、貝合せという遊びは三百六十個もの貝を用意して行うものとのことだ。これは確かに一つくらい無くなってもわからないだろう。できればこの中にそっと、祖母の盗んだ貝殻も紛れ込ませてしまいたいが、ガラス板が邪魔で入れられそうにない。
「ずいぶん熱心に見ていますね」
どうにかできないものかと合貝の前で腕を組んでいると、不意に話しかけられた。スタッフの腕章をつけた中年男性がこちらを見ている。
「すみません、邪魔でしたか」
わたしは軽く頭を下げる。
「いえいえ、もっと見ていただいて大丈夫ですよ。実はそれ、僕の母のものなんです」
「ということは、もしかして」
「ええ。深谷久司と申します。一応今の深谷家当主ですよ」
深谷家の人と直接話せるなんて、なんて幸運なのだろう。千代ちゃんのことも聞けるし、うまくいけば貝殻を返すこともできるかもしれない。
「実は、わたしの祖母が、深谷家の千代子さんという方と同窓だったみたいなんです。小学校のころよく遊んでいたと聞いています」
そう言うと、久司さんは目を見開いて驚いていた。
「母と友達だったんですか? それは何とも奇遇ですね」
「お母さまでしたか」
わたしのほうも驚いてしまった。ということは、千代ちゃんはあの日死んでいなくて、その後も生き続けて子どもを産んだことになる。
「千代子さんは元気ですか? 実は祖母も気にしていまして」
久司さんはどこか困った顔で口を濁した。
「今も生きていますよ。ただ、元気かと言われると……」
「ご病気ですか?」
「まあ、そのようなものです」
歯切れの悪い返事だが、人様の家の様子をそう突っ込んで聞くこともできないから、話題を変えることにする。
「祖母と千代子さんは貝合せでよく遊んでいたそうです。この貝が千代子さんのものなら、これで遊んでいたのかもしれませんね」
そして、祖母が盗んだ貝殻も、もともとはこの中のものだったのかもしれない。隠していても仕方がないので、わたしは祖母が昔、深谷家から合貝を一枚盗んだことを久司さんに伝えた。とっくに時効は過ぎているので、訴えられることもないだろう。
「これがその貝殻です。実はわたし、これを返しに来たんです」
わたしは貝の入った桐箱を久司さんに差し出したが、久司さんはじっと見つめるだけで受け取ってはくれない。
「あの……?」
わたしが訝しんで久司さんの顔を見ると、久司さんもわたしの目を見返した。
「先ほどの話だと、あなたのおばあさまは、離れで母と遊んでいた、とのことでしたね。そこには双子のもう一人もいた、と」
「はい。そうです」
影のことをどう話すか迷ったけれど、話題に出さないのもおかしいと思って、千代子さんともう一人、という言い方をした。久司さんはそこに引っかかったようだ。
「そこに写真があるでしょう? それが僕の母です」
久司さんが指さした先には、二十歳くらいの女性が一族といっしょに写っている。そこにはもう双子の片割れの姿はなかった。
「あちらの写真には双子が写っているのに、こちらの写真には写ってないですね」
「母は双子の姉だったんですが、妹の百合子さんは幼いころに亡くなってしまったそうです」
「あの、変なことを聞くようですが、百合子さんはどのような人だったんでしょう? 学校に来ていたのは千代子さん一人で、離れでは三人であそんでいたようですが、百合子さんが喋っている様子を祖母は見たことがありません。それに……」
わたしは一寸の間迷ったが、祖母が階段下で倒れている千代子さんを見たことも正直に告げた。
「千代子さんは生きている、と言いましたよね。では、祖母が見たのはなんだったんでしょう」
久司さんはわたしの問いかけには答えてはくれなかった。代わりに、何かを決心したような顔つきでわたしを見た。
「僕の話も聞いてくれますか?」
わたしは戸惑いながらも頷く。
「話というのは?」
「僕は、自分の母親が誰なのかを知りたいのです」
そう言うと、久司さんはスタッフオンリーと書かれた扉を開けてわたしに付いてくるよう促した。わたしはおとなしく久司さんの後を歩く。
「こちらへどうぞ。実は裏手から出ると、今住んでいる家にすぐ行くことができます。屋敷は一応文化財だからリフォームなんてできないものでして。土地の一部に新しい家を建てて、そこで暮らしているんです」
連れられて入った家は、お屋敷とは違って、いたって現代風だった。
「母に会ってくれませんか」
突然の話にわたしは目を白黒させる。そんな私にかまわず、久司さんは家の奥へとどんどん進んでいった。
「母は離れに居ます。昔あった離れはもう潰されてしまってありませんが、この家を建てる時に新しくまた作ったんです」
短い渡り廊下を歩いた先には小さな平屋建ての建物があった。ブザーを鳴らしてから引き戸を開いて中に入ると、小さな台所になっていて、その奥には扉がある。久司さんはゆっくり歩いて扉を開く。
部屋の中に入ると、ソファに女性が背筋を伸ばして座っていた。ちょうど祖母くらいの年齢で、品のよいサマーニットを来てじっと前を向いている。わたしはその様子を見て違和感を覚えた。普通、部屋に誰かが入ってきたら、入ってきた方を向くものではないだろうか。わたしと久司さんは女性の向かいのソファに座る。口を開いたのは女性ではなく久司さんだった。
「こちらが母の千代子です。母は緘黙症なので、人前では話せません」
人形みたいに微動だにしない状態で、ただゆっくりと瞬きをする老女からは、何の反応もなかった。暗い瞳で虚空を眺める姿は、祖母の話に出てきた影を思い出させた。
〇
千代子さんが喋れないのに長居をする理由もないので、簡単な挨拶だけ済ませてわたしたちは離れを後にした。祖母の浪子を覚えているかと問いかけても、反応はなかった。
和室に通されて、出されたお茶で喉を湿らせてから、わたしは久司さんに問いかけた。
「あの、わたし、緘黙症ってよくわからなくて。教えていただけませんか?」
「その名の通り、言葉を話すことができない症状のことを言います。学校や職場でのみといったような特定の状況で話せなくなる場面緘黙、生活全般にわたり全く話せなくなる全緘黙の二種類ありますが、母の場合は全緘黙ですね。身体的な発話に問題があるわけではなく、精神的なものが原因だと言われています」
「でも、わたしが祖母から聞いた話だと、喋れなかったのは百合子さんでは」
久司さんから聞いた緘黙症の症状は、祖母の話の中に出てきた影の様子と一致している。言葉を全く発しない影というのは、緘黙症の双子の妹だったというわけだ。百合子さんが緘黙症だったなら、学校にいってなかったのも、祖母とは一言も喋らなかったことも説明できる。
久司さんは重々しく頷いて話を続けた。
「おっしゃる通り、母は昔はお喋りで、緘黙症の妹の世話を見る、優しい女の子だったと聞いています。父は幼い頃から母の許婚として育てられ、深谷家へ婿養子に来たのですが、父から聞いた話だと、百合子さんは子どもの頃から全く言葉を発しなかった、ということです。姉妹でいるときだけ話をしている素振りがあって、百合子さんの言葉は母を通して伝えられていたそうです。百合子さんの声を聞いたことがあるのは母の千代子だけでした」
先ほど見た千代子さんの様子を思い浮かべて、わたしは混乱した。
「でも、今の千代子さんは……」
「ええ、そうです。父の話とは違って、僕は、物静かで無口な母しか知りません。そうなったのは、ある事件がきっかけだったと聞いています」
「ある事件とは?」
「百合子さんが階段から落ちて事故死したのです。それから母はふさぎ込んで、自分から進んで話すことはなくなったそうです。そして、父が老衰で死んでからは全く喋らなくなった」
わたしは首をひねって考えた。久司さんの話で千代子さんが話さなくなったわけはわかった。だけど、そうすると祖母の見た光景はなんだったんだろう。
「一つだけ気になっていることがあります。祖母の話と一点だけ食い違いがあるんです。祖母が見たのは千代子さんが死んでいる姿だった」
「そうです。それなんです」
久司さんが大きな声を出したので、わたしは驚いて飛び上がる。
「僕は実は、あなたのお婆さんの話が本当ではないかと思っています」
「どういう意味でしょう」
興奮気味の久司さんの様子に圧倒されて、身体が引き気味になる。久司さんは自分の考えを口早に話しはじめた。
「死んだのは百合子ではなく千代子だったのではないか、と」
「じゃあ、今離れに居る千代子さんはどうなるんですか」
「あの人は、千代子に成り代わった百合子です」
「でも、なぜそんなことを?」
突然の展開についていけず、口をぽかんと開けたまま久司さんの話を聞く。
「父を許婚のままでいさせるためです。父の実家は深谷家と大きな取引があった商家の次男坊でした。千代子と結婚させることで、両家のつながりを強くしようという思惑があったが、千代子が死んでしまっては結婚することができなくなってしまう。そのために無理矢理、百合子を千代子に仕立て上げた。百合子に喋らせる訓練をしてから、父と結婚させたんです。実際に、父は離れの事故があった後、しばらくは母と会えなかったと言っていました。百合子は父が死ぬまでは何とか千代子の振りをしていたけれど、父が死んでからは元の状態に戻った、というわけです」
わたしは腕を組んで唸った。久司さんの話は、多少強引なところはあるが、一応筋が通っているように思える。祖母は千代子が階段の下に倒れているのを見て、大人を呼びに行った後の顛末は知らないから、深谷家の中でそういった策謀が張り巡らされたとしてもおかしくはない。
「だけど、証拠がないですよ」
「はい。僕もそう思っていたから、ずっとこの疑いは口に出せませんでした。だけど、あなたの持ってきた貝殻が証拠となるかもしれないんです」
わたしは戸惑いながら机の上に置かれた貝殻を見つめた。
「浪子さんの話だと、その合貝は離れの部屋にあったものですよね。ということは、百合子の持ち物です。深谷家では女子が生まれると代々貝合せの玩具を作らせます。そしてその合貝は、婚礼用品としてそのまま使われるのです」
「ということは……」
わたしはやっと久司さんの話に追いつく。
「屋敷に飾られていたのは母の合貝です。あの中にこの貝と一致する貝があれば、あの合貝は百合子のもの、ということになります。そうすると、今離れにいる女性は、百合子だと証明できるのです」
祖母の出来心を発端に深谷家を離れ、何十年も経ってからやっと帰ってきたこの貝が、そんな大きな役割を負うことが信じられなかった。
わたしたちは話をした後すぐ、合貝の中から祖母の持っていた貝とぴったりあう貝を探す作業に取り掛かった。その作業は難航した。まずは陳列棚から合貝を取り出して、和室の畳の上に広げる。三百六十個の貝を左右に分けているので、七百二十枚も貝殻があるわけだ。圧倒的な数の貝殻を目の前に尻込みしてしまう。
「とりあえず、対になる貝を除外していきましょう」
久司さんだけでなく他のスタッフも巻き込んでの作業となった。一枚ずつ丁寧に貝殻を合わせていく。まさに貝合せの遊びをしているようだが、本人たちはいたって真面目に作業していた。五人ほどで何時間もかけて貝を合わせていく。昼前から作業を開始したが、日が沈むくらいになって、やっと残り十数枚、というくらいになった。そこで、はたと気づく。
「あれ? 偶数枚残ってますね」
浪子が盗んだ貝が百合子のものならば、残る貝は奇数になるはずだ。呆然としながら機械的に残った貝も合わせていくと、きれいにぴったりはまっていった。合わさった貝を数えると、三百六十個。数もきっちり揃っている。
わたしたちは片割れがみつからないままの古びた貝殻を見つめ、途方に暮れた。
○
スタッフたちに礼を言って帰らせた後、久司さんは肩を落として呟いた。
「ただの僕の妄想だったのかもしれません。母は、妹が死んだショックでふさぎ込むようになり、それが悪化して今の状態になっただけなんでしょう」
久司さんは残念そうな、だけど、安心したような表情をしていた。それに反して、わたしのほうは謎が深まるばかりだ。
「だけど、そうだとすると祖母の見た光景はなんだったんでしょう」
「おばあさま、記憶が曖昧になってるんじゃないですかねえ」
どうでもよさげに久司さんは言った。祖母の話をちょっと前まで本当だと信じていたというのに、あんまりな言いぐさだ。あの話が嘘だというなら、この手の中にある貝殻はなんだというのだ。羽のように軽い貝を見つめながら、わたしは考えた。
確かに何十年も昔の話だ。だけど、影の話も本当だったのに、貝を盗んだ日の記憶だけ間違っているということはないだろう。あくまでも、祖母の話が本当だったとして、考えられることは何だ?
「もしかして……」
わたしはとある考えに思いいたる。突拍子もない考えに、自分でも半信半疑だった。
そんなわたしの様子に気づいた久司さんが声をかけてくる。
「何かわかることがあるなら話してください。僕も、なんとも消化不良なんです」
「でも、気持ちの良い話ではないかも……」
「それでも大丈夫です」
久司さんに何度も促されて、わたしは意を決して口を開いた。
「祖母が見た光景は嘘では無かったけど、祖母の認識は間違っていたのかもしれません」
「どういう意味ですか?」
唾を飲み込んでから、私は話し出す。
「祖母が見たのは、百合子さんの死体だったんです。でも祖母はそれを千代子さんだと思った。それはなぜかというと、死体の服はいつもの千代子さんの服で、影が着ていた服はいつもの黒い服だったから」
久司さんは困惑した表情をしている。わたしも信じられない気持ちを抱えながら話し続けた。
「つまり、千代子さんは、死んでいる百合子さんの服と自分の服を取り替えて、百合子さんに成りすました。そして祖母に千代子に見せかけた死体を見つけさせて、母屋に人を呼びに行かせた。百合子さんの振りをしていると喋れないから」
「でも、なんでそんなことを? わざわざ百合子の振りをする理由なんて無いじゃないですか」
「百合子さんが事故死じゃなかったとしたら」
「え?」
今度は久司さんがぽかんとしている。
「百合子さんを殺したのが千代子さんだったとしたら、どうでしょう」
「殺しただなんて・・・・・・」
動揺した久司さんを前に罪悪感が首をもたげたけれど、話し出したものを途中で止めることはできない。わたしは一息に自分の考えを喋った。
「故意か過失かはわかりませんが、千代子さんが階段から百合子さんを突き落としてしまった。たぶん故意だったとしても、突発的なものだったと思います。それに、百合子さんは緘黙症で、千代子さんのあとをついて回るだけの状態だったから、そんな中で百合子さんが死んでしまったら、多かれ少なかれ自分に責任があることになってしまいますし。死体を前にして、何とかして自分が百合子さんを殺してしまったことを隠したいと考えた千代子さんは、自分が百合子さんになることを思いついたのです。百合子さんは自発的に動くことができなかったから、百合子さんが千代子さんを殺したとは誰も思わない。そうやって千代子さんは百合子さんの振りをして、祖母の浪子に死体を見つけさせたんです」
もう久司さんは何も言葉を発さない。わたしは貝を手に取りながら続けた。
「だけど、深谷家の大人たちは、死んだのは百合子さんということにしてしまった。そこで千代子さんは二重に演技をしなければならなくなりました。百合子の振りをしながら、千代子に成りすまさなければならなかった。その結果が、ふさぎ込むという状態になったのではないでしょうか」
「そんな、じゃあ、なんで母は今さら緘黙症になっているのですか」
ぽつりとつぶやく久司さんに、わたしは推測を返すことしかできない。
「夫が死んで、千代子の振りをする必要がなくなって、単純に百合子の振りをしているのか、それとも、千代子さん自身が長い間百合子さんの振りをしているうちに緘黙症になったのか、それは千代子さん自身にしかわかりません……」
自分の考えに夢中になってつい話し続けてしまったが、呆然している久司さんを見て、わたしは我に返った。
「すみません、変なこと喋ってしまって」
慌てて謝るが、久司さんは苦しげに呻いている。
「僕の母親は、いったい誰だというのですか……」
結局、その答えは誰にもわからない。千代子さん自身も、わからなくなっているのではないだろうか。わたしは、手の平にある貝を見つめる。離れから盗み出されたこの合貝と対になる貝は、もうどこにもない。昔、百合子さんが住んでいた離れは潰されてしまったと言っていた。その時、百合子さんの持ち物は処分されたのだろう。祖母がこっそり持ち出した貝殻だけを残して。
西日が部屋に差し込んで、影が長く伸びる。影と呼んでいた妹が死んで、千代子さんは何を思ったのだろう。沈黙の中、わたしはふと手の中の貝殻を握りつぶしたくなって、でも物言わぬ千代子さんの姿が重なって、日が暮れるまで一枚の貝を見つめ続けていた。
貝の沈黙 由水李予 @riyo910110
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