勇者として召喚されたので、魔王になった。

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第1章:奈落の叫び

✦ 別れ

朝のやわらかな光が白いカーテンを通り抜け、キッチンの木のテーブルの上で踊っていた。

ルーカスは娘のクララが色とりどりのブロックを積み上げているのを見つめていた。彼女は口の端に舌を出しながら、最後のピースをバランスよく置こうと集中している。

「パパ、見て!」

クララは揺れる塔を誇らしげに持ち上げ、目を輝かせた。

ルーカスは優しい目で細部まで見つめ、微笑んだ。

「それは素敵なお城だね、お姫様。」

クララは楽しそうに笑い、また夢中でブロックに向き合った。

ルーカスの胸には、その瞬間が深く刻まれた。

太陽に照らされ金色に輝く髪、小さな指先、そして世界を優しくする笑顔。

しかし、その完璧な瞬間に冷たい刃のような思いが差し込んだ。

——あと何回、こういう時間を過ごせるんだ?

クララの成長はゆっくりだったが、どんな小さな進歩も大きく祝われた。

その病が時間の儚さを突きつけるたびに、ルーカスは決意する。

「娘の幸せのためなら、何だってやる」と。

キッチンのドアが静かに軋み、ララがバスローブ姿で穏やかな笑みを浮かべながら入ってきた。

「もう帝国作りが始まってるの?」

彼女はクララの額にキスをした。

「お城を作ったの!」

クララが嬉しそうに答えた。

「素晴らしいわ、愛しい子。」

ララは娘の髪を撫で、ルーカスの方を見た。

「大丈夫?」

ルーカスは一瞬だけ迷ったが、うなずいた。

「うん。ただ、今を大切にしてるだけ。」

ララは彼の心をよく理解していたので、それ以上は聞かなかった。

「今日、出かける用事がある。」

ルーカスは温かいコーヒーを一口飲みながら言った。

ララの表情には理解と心配が入り混じっていた。

「無理しないで。あなたも休むべきよ。」

だがその瞬間、空気が変わった。

キッチンの温もりが消え、代わりに空間全体がねじれるような重圧が押し寄せた。

耳の奥で低い唸りが骨に響く。

ルーカスは本能的にテーブルの縁を掴んだ。足元が崩れるような感覚。

——何かが、決定的に、おかしい。

「クララ!」

その叫びは自然に出たが、異音の渦に飲まれて消えた。

ララが振り返る。目を見開き、恐怖に染まった。

「ルーカス、何が起きてるの?!」

返事をする間もなく、世界は崩れた。

クララの笑い声が遠くに消え…そして、完全な沈黙が訪れた。

________________________________________

✦ 召喚

冷気がルーカスを包む。現実が戻り、彼は地面に叩きつけられた。

全身が痛み、頭が混乱の渦に沈んでいく。

目が慣れると、彼は豪華な金と大理石の広間の中央にひざまずいている自分に気づいた。

周囲には数十人の人影。緊張した顔、無言の視線。

そして、拍手。

だが、そこに祝福などなかった。漂うのは、ただ恐怖だけ。

長い白髭の老人が前へ出て、ルーカスの前で深く頭を下げた。

「偉大なる勇者よ…」

ルーカスは息を荒げながら、ふらつきつつ立ち上がった。

「こんなこと…ありえない…」

若い貴族が近づき、語りかける。

「あなたは古代の儀式によって召喚されました。我が世界は滅亡の危機にあり——」

「違う。」

ルーカスの一言が、広間を静寂で包んだ。

彼は拳を強く握りしめる。

「これは間違いだ。俺は勇者なんかじゃない。望んでもいない。」

震える声で老人が言った。

「我が王国は、あなたの力がなければ滅びます。どうか、お願いです。魔王が——」

「知らねぇよ!」

怒声が響き、兵士たちが身構える。

「お前らは俺を家族から引き離した。娘のもとに戻らなきゃいけないんだ!」

人々の視線は揺れ、恐怖が支配した。

ルーカスは叫んだ。

「戻すことは…できないんだろ…?」

王は静かに首を傾け、告げた。

「儀式は不可逆です。あなたは、もはやこの世界の存在なのです。」

その言葉が、ルーカスの内にある何かを壊した。

怒りが、暴風のように吹き荒れる。

「誘拐したんだぞ!娘を守れなくなった!それで…戦えだと?!」

一歩前へ出る。

「俺はお前らの勇者じゃない。この世界のために戦う気なんて、ない。」

王は立ち上がり、冷たい声で言い放った。

「ならば貴様は、臆病者に過ぎん。」

「臆病者だと…?」

ルーカスは歯を食いしばる。

「この世界に借りなどない!帰らせろ!」

王は冷酷なまなざしのまま命じた。

「拘束せよ。」

兵士たちが影のように動く。

ルーカスは抵抗するが、力で押さえつけられる。

「ふざけるな…俺はお前らの敵じゃない!」

王は静かに言った。

「まだな。」

そして、貴族たちへ向けて宣言した。

「この者が我らの勇者でないなら、囚人としての価値を学ばせよ。」

再び、冷たい声が響く。

「拘束せよ。」

胃を打たれ、呼吸が止まる。

顔面に膝蹴り。肋骨に打撃。

血を吐きながら、ルーカスは倒れた。

目に映ったのは、王の冷たい瞳。そして、闇。

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✦ 牢獄

目覚めた瞬間、ルーカスの鼻を湿気と腐敗の匂いが刺した。

手首と足首には重い鎖。冷たくて暗く、不潔な牢の壁は苔と乾いた血に覆われていた。

外から足音が響き、鉄格子の軋む音が沈黙を破った。

そして、荒々しい声が届く。

「王の命令だ。奴を壊せとさ。」

返事をする間もなく、拳がルーカスの唇を裂いた。

次の一撃は頬を切り裂き、三発目は…ただの始まりに過ぎなかった。

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✦ 苦痛

日々が週へ、週が月へと変わる。

時の感覚は消え失せ、残るは痛みだけ。

看守たちは毎日のように笑いながら現れ、殴り、切りつけ、焼いた。

人の限界を、まるで遊びのように試していた。

だがルーカスは死ななかった。

肉体が崩れても、骨が折れても、皮膚が焼けても——

彼は、生き続けた。

ただ一つの理由。

クララ。

彼の娘、小さな王女。

彼はその記憶にすがりついていた。

荒れ狂う海に投げ出された男のように、希望という名の木片を抱きしめながら。

時間の流れは霧の中。

看守の声は遠くで笑う亡霊のように響き、

ルーカスは次第に恐れるようになった——

クララの記憶が、薄れていくことを。

ある朝、目覚めた時、彼は思った。

「今は何日目だ?昨日と今日の違いは…?」

喉が渇き、唾さえも粘つき始めていた。

時には食事を与えるふりをして、希望を奪い、笑う。

一度、床に落ちたパンを手に取ろうとした時——

「ゴリッ」

足が降り、指が折れる音が響いた。

看守たちは数時間、腹を抱えて笑っていた。

六か月目。

ある看守が、にやけながら言った。

「王が考え直してるらしいぞ?」

パンをちぎりながら、続ける。

「もしかしたら、娘に会えるかもな。」

ルーカスはぼろぼろの体で顔を上げた。

「……もし、ひざまずいて、頼めばな。」

一瞬だけ、彼の心は揺れた。

だが、口を開く前に——

「パキッ」

また指が折れた。

「冗談だよ。王は言ってた。『あいつは決して出さない』ってな!」

笑い声が牢にこだまする。

ルーカスの体は骨と傷だけの残骸。

皮膚には腐臭が染みついていた。

だが——

何かが、変わり始めていた。

痛みが…薄れてきたのだ。

まだ骨は折れ、皮膚は裂ける。

だが、痛みは…遠くなっていく。

ルーカスの中に、何かが蠢いていた。

それはじっと、時を待っていた。

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✦ 影

暗闇の中、彼は「それ」を感じた。

牢の隅で何かが動く。

水音のような滴り。

影が天井から垂れるような音。

最初は幻覚だと思った。

だが、その「声」は明確だった。

「……まだ娘の声、覚えてるかい?ルーカス。」

煙のように揺れる影が、近づいてくる。

「クララ。お前の娘。」

「……覚えてるさ……」

ルーカスはかすれた声で答えた。

「本当に? なら、顔を思い出してごらん。」

目を閉じるルーカス。

だが——記憶が霞む。

瞳の色、笑顔、声。

なぜ…なぜこんなにも思い出せない?

胸が苦しい。

パニックが彼を飲み込んでいく。

「俺は感じたぞ、ルーカス。全ての痛み、涙、砕けた骨。」

「……なぜ、まだ抗う?」

「奴らはお前を辱め、名を踏みにじり、苦しみを笑った。」

影がさらに近づく。

その囁きは甘く、冷たかった。

「だが俺は与えられる。時間すら奪えないものを。」

「……復讐の権利だ。」

「ただ、『はい』と答えればいい。」

その時、クララの姿が頭をよぎった。

手を握る小さな指。無邪気な笑顔。

だが——

その肌は青白く、目は光を失っていた。

彼女は、死にかけていた。

——ルーカスが守れなかったから。

「ただ、一言でいい。」

影の声が耳元で囁く。

「……はい。」

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