桜の下の君へ

夜月 朔

桜の下の君へ

 春になると、決まって胸がざわつく。誰にも言えない癖のようなものだ。社会人になり、日々に追われながらも、この季節だけは、どうしてもあの場所へ足が向かってしまう。

 春が訪れるたびに、僕はあの桜の木の下を訪れる。それはもう十年以上も続く習慣だった。きっかけは、十歳の春に出会った少女。薄紅の花びらが舞う中、ふいに現れた彼女は、真っ白なワンピースを着て、まるで桜の精霊のようだった。

 その日から、春になると彼女は決まって現れ、夏の初めとともに姿を消す。彼女の名前も、どこから来たのかも知らない。ただ、彼女は僕のことを覚えているようで、忘れているようでもあった。それでも、微笑みかけてくれる。毎年、初対面のようで、どこか懐かしい。そんな再会だった。

 それが嬉しくて、僕は毎年この場所に足を運ぶようになった。

 時が流れ、僕は高校を卒業し、大学に進学し、社会人になった。けれど、春だけは時間が止まったように感じられる。桜の開花予報が出ると、心がざわつき、仕事の合間を縫ってでも、桜の木の下に向かってしまう。

 学生時代の友人には何度も不思議がられた。恋でもしてるのかと笑われたり、誰かを待ってるのかと真面目に訊かれたりもした。けれど僕は、それにどう答えていいかわからなかった。幽霊の話なんて、信じてくれるはずがない。けれど、僕にとっては現実だった。春にしか現れない、記憶を持った少女との、静かで確かな時間。

 僕はその春だけの出会いに、希望と同時に不安も抱えていた。彼女が再び現れる保証なんて、どこにもない。毎年、桜が咲いても、彼女がそこにいるとは限らない。そんな気がして、春を迎えるたびに胸が締めつけられるのだ。

 そして時には、彼女の姿がまるで幻だったのではないかという疑念に苛まれることもあった。目撃者は僕しかいない。声を聞いたのも僕だけ。記録も証拠も残らない。ただ、確かに存在していた“感覚”だけが僕を支えている。

 彼女と出会った年のことは、今でも鮮明に思い出せる。桜が咲き始めた頃、学校で嫌なことがあって、僕は一人で河川敷を歩いていた。誰にも会いたくなかった。けれど、あの木の下で立ち尽くす少女に気づいた瞬間、世界が少しだけ色づいた気がした。

 彼女は何も言わずに微笑んだ。僕も何も言わず、ただその場に座った。それだけで、心がすっと軽くなった。言葉はいらなかった。ただ、そこにいてくれることが、どれほど救いだったかを、僕は忘れられなかった。

 そのとき、彼女の影が春の陽射しに照らされても、地面に落ちていなかった。ふと目を逸らして見返すと、そこにはちゃんとある気もした。でも、確かにその瞬間、影はなかったのだ。現実にあるものとは違う、けれど確かに“そこにいる”存在。その違和感が、僕を惹きつけて離さなかった。

 だから、翌年も、またその次の年も、僕は彼女に会うために桜の木の下へ通った。そこには特別な時間が流れていた。日常では得られない静けさと、やさしさがあった。

 彼女は時折、ほんの少しだけ寂しそうな顔を見せることがあった。笑っているのに、目が遠くを見ているようなとき。話しているのに、どこかで言葉を選んでいるとき。まるで、目の前の風景より、思い出の中に生きているみたいだった。そんな瞬間に、僕は彼女が何か大きなものを抱えているのだと、うすうす感じていた。

 今年もその季節がやってきた。

 朝早く起きて、薄曇りの空の下、河川敷の公園へ向かう。風が吹くたび、桜の花びらがはらはらと舞い、足元を淡く染める。僕の胸もまた、いつものように高鳴っていた。

 桜の木は変わらずそこにあった。幹はさらに太くなり、枝は空を広く覆っている。その下に、彼女はいた。

 今年も、彼女は変わらず、そこにいた。

 何年経っても歳をとらず、真っ白なワンピースを着て、花のようにそこに立っていた。彼女は僕を見つけると、ふわりと微笑んだ。その笑みは、懐かしく、そして少しだけ切なかった。

「今年も来てくれたのね」

 その声を聞くのは何年ぶりだっただろう。彼女が話しかけてくれたのは、本当に久しぶりだった。僕は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。

「うん。今年も、君に会いたくて」

 彼女は何も言わずに頷き、目を細めた。

「変わらないね、君は。まるで、時間が止まっているみたいだ」

「私は……そうかもしれない」

 少し寂しげに笑う彼女に、僕は何も言えなかった。どうして彼女が毎年春にだけ現れるのか、僕は知っているようで知らなかった。ただ、この不思議な関係が壊れることを恐れて、深く聞こうとしなかったのだ。

 僕たちは桜の木の下で、言葉少なに並んで座った。風が吹くたび、花びらが舞い落ち、彼女の髪にそっと留まる。その様子は、現実とは思えないほど幻想的だった。

「……ねえ、あなた、今年は少し、変わった?」

 唐突に、彼女がそう言った。僕は驚いて彼女を見た。

「どういう意味?」

「何か、決意したみたいな目をしてる。今までは、ただ会いに来るだけだったのに、今年は、何かをしようとしているような……そんな風に見えるの」

 ドキリとした。図星だった。

 今年こそ、彼女の正体を知りたかった。どうして現れて、どうして消えるのか。そして、どうすれば……彼女をこの世界に“戻せる”のか。

「……君に、もう少し、いてほしいと思ってる。春だけじゃなくて、もっと、長く」

 彼女は何も言わず、ただ風を受けながら空を見上げた。

「桜が好きなの。春の終わりが近づいても、桜はちゃんと咲ききる。短くても、美しく生きる。私も、そうありたかった」

 その言葉の奥に、僕は彼女の過去の影を感じた。けれど、それ以上は語られなかった。

「桜が散るときが、いちばんつらいのよ」

 彼女がぽつりとこぼしたその言葉は、風に紛れて消えそうだった。

 その沈黙の中に、僕は確信した。彼女はきっと、ここに“何か”を残していった。そしてそれが、彼女をこの桜に縛り付けているのだ。

 今年の春も、桜は満開だった。そして彼女は、いつもと同じ場所に、同じように咲いていた。



 その日を境に、僕は彼女と会うたび、少しずつ質問をするようになった。どこに住んでいるのか、何をしているのか、なぜ毎年ここに現れるのか――けれど、彼女は多くを語ろうとしなかった。ただ、「春が好きだから」と、微笑むだけだった。

 それでも、ほんのわずかな隙間から、少しずつ情報はこぼれ落ちてきた。

 彼女が最後にこの場所を訪れたのは、十数年前の春だったということ。その時に何かが起き、それから彼女は“ここ”に縛られるようになったということ。そして、夏が来ると、その縛りは解けるのだと――。

「でも、毎年戻ってきちゃうの」

 そう呟いた彼女の目は、どこか遠くを見ていた。

「忘れられないことがあるから?」

「うん。忘れたいのに、忘れられないの。たぶん、それが“未練”なんだと思う」

 それが何なのか、彼女は語らなかった。僕はそれを知るために、彼女の過去を調べることを決意した。

 僕の家には、古い町の地図や、地域の歴史に関する本がいくつもあった。祖父が郷土史を集めていたからだ。その中に、昔の河川敷の写真が載っている一冊があった。

 ページをめくると、見覚えのある桜の木が写っていた。今よりもずっと細く、若い木。その傍らに立っていた少女の姿に、僕の指が止まった。小さく写っていたが、確かに彼女だった。

 写真の隅には、「平成十七年 三月」と書かれていた。

 今から十五年前。その年、何があったのか。

 僕は図書館へ行き、過去の新聞記事を検索した。地元の事件や事故、行方不明者、亡くなった子どもたちの記録。

 そして、見つけた。

 『高校生女子、河川敷にて転落死』という見出しの記事。日付は、あの写真と同じ年の四月。場所も、あの桜の木の近くだった。

 名前は「沢渡さわたり 紗英さえ

 年齢は十六歳。僕が彼女に出会った年と、ちょうど重なっていた。

 記事には、事故として処理されたと書かれていたが、目撃者の証言によれば、自ら川へ歩いて入っていったとの記述もあった。

 僕の背筋に、冷たいものが走った。

 彼女は、自分の意思で命を絶ったのか――?

 次の再会の日、僕は思い切って彼女に名前を訊ねた。

「君の名前、沢渡紗英……で合ってる?」

 彼女は、驚いたように目を見開いた。しばらくの沈黙のあと、ゆっくりと頷いた。

「どうして……覚えてたの?」

「調べたんだ。君のことを知りたくて」

 彼女は視線を落とし、微かに震える声で言った。

「私ね、あの時、自分で終わらせたの。でも、それをずっと、後悔してるの」

 その言葉は、深く、僕の胸に刺さった。

「どうして……そんなことを」

「誰にも言えない苦しみがあったの。家でも、学校でも、自分の居場所がなくて。だけど、本当は、助けてほしかったんだと思う。今になって、そう思う」

 彼女の声は風にかき消されそうだった。

「だから、春になるとここに来てしまうの。もう一度やり直したいって、ずっと思ってる。でも、時間は戻らない。私はただ、同じ季節に囚われて、繰り返してるだけ」

 その時、彼女の指先が小さく震えているのを見た。声に出せない感情が、肌の奥に隠されている気がした。僕は彼女のそばに一歩だけ近づいた。

「君のこと、助けたい。今からでも、何かできることがあるなら」

 僕の言葉に、彼女は微笑んだ。泣いているようにも見えた。

「ありがとう。でも、私が“ここにいる”ことができるのは、もうそう長くないの。あなたが、私の名前を呼んだから、もう少しだけ、自由になれた」

 それはまるで、別れの予告のようだった。

「ねえ」彼女が言った。「誰かが、ほんの少しでも、私を気にしていてくれたら、違っていたのかな」

 僕は答えられなかった。だけど、代わりに彼女をまっすぐ見つめた。

「今、僕が君を想ってる。遅かったかもしれない。でも、それでも、君を忘れたくない」

 その言葉を聞いた彼女は、ふっと顔を上げて、少しだけ笑った。それは、これまで見せたどの笑顔とも違う、本当に自然な表情だった。

「それだけで、救われることもあるんだね」

 桜の花が、ふわりと風に舞い上がった。彼女の髪にも、一枚の花びらが留まった。彼女はそれをそっと指先で摘み、僕の方へ差し出した。

「これ、持っていて。もし来年も私に会えたら、その時に見せて」

 僕はうなずき、花びらを受け取った。小さくて儚い、けれど確かに存在する重みがそこにあった。

 その後も、彼女との時間は春の日差しのように、やさしく流れていった。何気ない話も交わすようになった。彼女が好きだった小説の話、苦手だった食べ物、好きだった音楽。普通の女の子だったと感じられる瞬間が、嬉しかった。

「生きていた頃、こんなふうに誰かとゆっくり話すこと、あまりなかったの」

 そう言ったときの彼女は、遠い記憶を見つめていた。

「いつも何かに追われてた。誰かの期待とか、空気とか、自分で勝手に作った理想とか……そういうものに押しつぶされそうで。だけど、ここに来て、あなたと話してると、全部ほどけていくみたい」

 僕はそれに何も返せなかった。ただ、その言葉を大切に心に刻んだ。

 彼女はもう一度、生きたかったのかもしれない。だけどそれは、戻れない時間の向こう側だった。

 だからこそ、今ここにいる“彼女”が少しでも安らげるように、僕は願った。

 彼女の“未練”を見つけ出し、それを解き放ってみせる。

 彼女が、春だけに縛られた存在ではなく、もう一度“生きて”いると感じられるように。

 それが、僕にできる、唯一の償いだと思った。

 そして、彼女のような存在がこの世にいるなら、もしかしたら“救い”だってまだ残っているのかもしれない。そんな希望が、胸の奥で静かに灯った。

 翌週も、その次の週も、僕は彼女に会いに行った。彼女は、まるで春そのもののように、そこにいた。ただそこにいてくれるだけで、僕の心は落ち着いた。けれど同時に、焦りもあった。桜の花が散っていくのと同じように、彼女との時間も限られていると、僕ははっきりと感じていたからだ。

「……君が消える日は、近いの?」

 ふと、そんな質問を投げかけたのは、四度目の再会のときだった。彼女は驚いたように目を見開き、それから静かに目を伏せた。

「たぶん、今年が最後になると思う」

 淡々とした口調が、かえって僕の心を強く揺さぶった。

「そんな……どうして?」

「あなたが、私の名前を思い出してくれた。それがきっかけなの。自分の存在を、誰かが覚えていてくれること。それは、私をこの世に縛っていた理由でもあり、解き放ってくれる希望でもあるの」

 春の風が吹き抜け、彼女の髪をなびかせた。目を細めてその風を感じる彼女は、まるで旅立ちの準備をしているかのように見えた。

「でも、僕はまだ……君ともっと話したい。もっと知りたいんだ」

「私も、そう思う。でも、時間は止まってくれない。私の春は、もう終わらなきゃいけないの」

 僕は拳を握りしめた。何もできない自分が悔しかった。だからこそ、彼女のためにできることを考えた。せめて、彼女の“未練”を完全に解いてあげたい。それが、僕にできる唯一のことだと思った。

 その日から、僕はさらに調べ始めた。紗英のことを知っていそうな人物に会いに行き、卒業アルバムを見て、当時の学校に連絡を取った。時間がなかった。彼女の春が終わる前に、真実に辿り着かなくてはならなかった。

 何度も電話をかけて、ようやく連絡が取れたのは、当時の担任だった女性教師だった。受話器越しの彼女の声は、少し戸惑いを含みながらも、記憶の底から引き出すように語ってくれた。

「とても真面目な子でした。でも、ある時期から急に元気がなくなって。ある男子生徒との間で何かあったみたいなんです。詳しくは分かりませんでしたが、何度か保健室に通っていたようでした」

 僕はその男子生徒の名前を控え、彼のSNSを探した。そして、彼の投稿履歴を追っていくうちに、信じられない記述を見つけた。

『あいつがいなくなったのは俺のせいかもしれない』

 その一文は数年前の投稿で、今では削除されていたが、キャッシュに残っていた。他の投稿でも、紗英をからかうような内容が複数あった。

 僕は怒りに震えた。彼女が抱えていたものの一端が、ようやく見えた気がした。

 次に会ったとき、僕はそのことを彼女に話した。彼女は少し驚いたようだったが、やがて静かに言った。

「……あの人のこと、忘れてた。記憶から抜け落ちてた。でも、そうだったかも。目が合うだけで、背筋が凍った。放課後の廊下を歩く音がするだけで、心臓が跳ね上がった。なのに、誰も気づいてくれなかった――それが、一番、怖かったの」

 彼女の瞳が震えた。僕は彼女の手をそっと握った。

「もう大丈夫。君は、もう誰にも縛られない。君を覚えている人が、ここにいる」

 そのとき、彼女はふいに泣き出した。声を立てず、静かに、ぽろぽろと涙を流した。その涙が、春の陽光に照らされてきらめいていた。

「……ありがとう。こんなふうに泣ける日が来るなんて、思わなかった」

 その日の別れ際、彼女は微笑んで言った。

「きっと、あと一回だけ会える。その時、さよならを言わせて」

 僕はうなずいた。胸が締めつけられるようだった。

「でももし、あなたが忘れずにいてくれるなら、私はきっと、どこかで咲き続けられる気がするの」

 その一言に、僕は息を呑んだ。

 彼女は、消えることを受け入れようとしていた。でも、完全には諦めていない。その思いが、確かに言葉の端々ににじんでいた。

 僕はその晩、ノートを開いた。紗英との出会いから今まで、そして調べたこと、聞いた話、彼女の言葉……すべてを時系列で書き留めていった。

 それは、彼女が存在した証を残すためだった。誰かが読むことはなくても、少なくともこの世に記録されることで、彼女が“いなかったこと”にはならないと思ったからだ。

 たとえ誰の目にも触れなかったとしても、未来のどこかで、誰かが似た孤独に出会ったとき、この記録が灯りになれたらと願った。

 書きながら、ふと思った。彼女は確かに僕を変えていた。彼女に出会う前の僕は、どこか世界に対して冷めていて、仕事も人間関係もただこなすだけだった。

 でも、桜の木の下で過ごした時間が、僕の中の何かを少しずつ変えていた。彼女を救いたい――いや、彼女を通して、僕自身も何かをやり直したかったのかもしれない。

 だから僕は、ただ春を待っていたのではなく、春を“迎えに行く”ようになったのだ。

 そして、最後の春が近づく。桜のつぼみがほころび始め、冷たい風にわずかな温もりが混じる季節。

 僕の胸には、期待と恐れ、そして、何かを迎えに行く確かな予感があった。



 沢渡紗英という名前を知ってから、僕の行動は一変した。彼女の死にまつわる真実を、もっと深く知りたいと思った。未練を解き放つには、彼女の過去と向き合うしかない。それが復活の鍵になる、そう信じた。

 彼女の名前で検索をかけ、古い掲示板やSNS、同年代の卒業アルバムの情報など、あらゆるものを漁った。やがて、とあるブログにたどり着いた。それは、紗英と同じ学校に通っていたらしい女性のもので、彼女について少しだけ語られていた。

『沢渡紗英ちゃんは、優しくて真面目で、でも少し影があった』 『最後の頃は、誰かに付きまとわれていたって噂もあった』 『誰にも助けを求められなかったみたい』

 その断片的な言葉たちは、紗英が生前どれだけ孤独だったかを物語っていた。

 僕はいてもたってもいられず、ブログの管理人に連絡を取った。数日後、返事が届いた。やり取りの末、僕は直接会って話を聞かせてもらえることになった。

 カフェで向かい合ったその女性――坂口優美は、当時の同級生だった。

「沢渡さんね……うん、よく覚えてる。すごく静かな子だった。いつも窓の外を見てて、なんか夢見がちっていうか」

「その……付きまとわれてたって話、本当ですか?」

 優美は一瞬、言葉を詰まらせたあと、小さく頷いた。

「たぶん、本当。彼女、男子生徒の一人に執拗に付きまとわれてた。最初は好意だったみたいだけど、だんだんエスカレートして……手紙とか、後をつけたりとか。先生も気づいてたと思うけど、表沙汰にはならなかった」

「……誰も、助けてくれなかったんですね」

 優美はうつむきながら言った。

「私も、何もできなかった。見て見ぬふりをしてた。後悔してる。あの時、誰かがちゃんと止めていれば……」

 その言葉は、痛いほど分かる気がした。僕もまた、これまでの春、彼女に何も聞けなかったことを、どこかで後悔していた。

 その日から、僕は桜の木の下で、紗英に話しかける時間を長くした。彼女は最初こそ戸惑っていたが、少しずつ、過去のことを話してくれるようになった。

「学校、苦しかった。毎日が、罰みたいで」

「家では、親に何も言えなかった。完璧を求められてたから」

「だから、ここに来てたの。桜の木の下だけが、私の居場所だった」

 彼女の声は、どこか儚く、けれど確かに僕の心に届いていた。

「君は、今もここに来てる。じゃあ……この場所が、まだ君の居場所だって思ってる?」

 紗英は、はっとしたように僕を見つめた。

「……そうかもしれない。でも、本当は、もう終わりにしたいとも思ってる。思い出の中にずっといたら、前に進めないから」

 その瞬間、僕の中で何かがつながった。

「君の未練って……“一人じゃなかった”って、誰かに認めてもらいたかったことなんじゃないかな」

 紗英は、ぽつりと涙をこぼした。

「……そうだね。誰かに、ほんの少しでも、心を預けたかった。私がいたって、証明してくれる人がほしかった」

「じゃあ、僕がその役目を果たす。君は確かにここにいたって、僕が伝える」

 その夜、夢の中で、僕は中学生の頃の紗英に出会った。

 彼女は制服を着て、あの桜の木の下に立っていた。

「君が……来てくれたんだ」

「うん。何年も遅れてしまったけど」

「でも、間に合ったよ」

 彼女は嬉しそうに微笑んで、手を差し伸べた。僕がその手を取ると、光の粒がふわりと舞い上がった。

 目を覚ますと、桜の花が一斉に散り始めていた。

 彼女の復活は、もうすぐだった。

 次に彼女と会ったとき、彼女の雰囲気が少しだけ変わっていた。春の陽射しの中で、彼女の輪郭が少しだけ淡く、けれど穏やかに光をまとっていた。

「……何かが、変わった気がするの」

 彼女がぽつりと呟いた。

「たぶん、それは君が前に進もうとしているからだよ」

 僕は彼女の隣に立ち、風に揺れる桜を見上げた。

「もうすぐ、この季節が終わる」

「うん。でも、怖くない。今は、ちゃんと誰かが見ていてくれるから」

 彼女は僕を見つめ、ゆっくりと微笑んだ。その笑顔は、過去ではなく未来を見つめているようだった。

 そしてその日、彼女は初めて、自らの足で桜の木の下を離れた。

 一歩、また一歩と、柔らかな春の草を踏みしめるその姿を、僕は黙って見送った。

 その背中は、もう“こちら側”のものではないように見えた。けれど、それは決して悲しいことではなかった。彼女が自ら歩き出したその一歩に、かすかな誇りすら感じていた。

 彼女と過ごす時間は、もう長くはない。そう分かっていたからこそ、僕は最後にできる限りのことをしようと決めた。彼女の物語を、自分の言葉で書き残す。それが、彼女の存在が確かにこの世界に“いた”という証になると信じていた。

 白紙のノートを開いて、最初のページに「桜の下の君へ」と記す。出会いの春、沈黙の時間、交わした言葉、初めて名前を呼んだ瞬間。一つひとつの記憶を丁寧に、色を塗るように綴っていった。

 ノートに記すたび、心の奥が少しずつ解けていく気がした。苦しみや後悔も、文字にすることで、未来に託せるようになっていった。

 ある夜、夢の中で、彼女は再び現れた。

 今度は制服ではなく、白いワンピースを着て、いつものように桜の下で微笑んでいた。どこか少し、大人びて見えた彼女は、やさしく僕を見つめながら言った。

「ねえ、覚えてる? 最初に会った春」

「ああ、覚えてるよ。桜が咲き始めた頃だった」

「あなたが隣に座ってくれたの、嬉しかった。誰かがそばにいてくれるだけで、こんなに心が軽くなるんだって、あの時初めて知ったの」

 僕は尋ねた。

「もし、あと一つだけ望みがあるなら、何がしたい?」

 彼女は少し考えてから、答えた。

「春の空の下で、もう一度だけ、笑いたい」

 その願いが、ずっと心に残った。

 そして、その“春の空”は訪れた。

 満開の桜の下、彼女は最後の姿を見せてくれた。花の香り、風の音、朝の静けさが重なり合い、まるで時間がゆっくりと流れているようだった。

「今日で、本当に最後になると思う」

 僕は頷いた。もう、言葉は必要なかった。

 彼女はゆっくりと歩き出し、僕の前を通り、そして振り返った。

「ありがとう。私の春を、最後まで一緒に歩いてくれて」

「ありがとう。君がいてくれて、僕も変われた」

 そして彼女は、桜の花びらに包まれながら、静かに、ふわりと溶けていった。

 でもその瞬間、風の中に彼女の声が確かにあった。

「――さようなら。そして、さようならだけじゃなくて……こんにちは」

 それは、未来へ向けた言葉だったのだろう。

 空を見上げると、今年も変わらず桜が咲いていた。けれどその春は、少しだけ違って見えた。

 翌日、僕は彼女と最後に過ごした場所へ足を運んだ。桜の花びらが川面を彩り、風が木々を揺らす。けれど風景には、どこか柔らかさが宿っていた。

 桜の根元に腰を下ろし、彼女の気配を思い出す。声も、笑顔も、風に乗って耳元で再生されるようだった。

 胸ポケットから、小さな桜の花びらを取り出す。あの春、彼女がくれたものだ。とっくに色あせていてもおかしくないのに、形も色も変わっていなかった。それはまるで、彼女の想いがそこに残っているかのようだった。

 僕はその花びらを、ノートの最後のページに挟み込んだ。

 彼女が遺していった「さようならだけじゃなくて……こんにちは」という言葉を、ずっと考えていた。それはきっと、僕自身への言葉だったのだろう。過去に別れを告げて、新しい未来を迎えに行く――そんな勇気をくれた。

 人生は一度きり。でも、心が春を迎えるたびに、人は少しずつ生まれ変われるのかもしれない。

 彼女が教えてくれた優しさ、強さ、そして希望。それを胸に、僕はこれからも桜の咲く日を待ち続けるだろう。

 ある日、公園のベンチに、一人の少年がぽつんと座っているのを見かけた。顔は伏せられ、制服の袖口をぎゅっと握りしめている。その姿に、昔の自分が重なって見えた。

 僕は、ほんの少しだけ彼の隣に腰を下ろした。

 少年は驚いたように顔を上げたが、僕は笑って桜を見上げた。

「この木、きれいだよね。春になると、いろんなことを思い出す」

 それは、ただのひとこと。でも、あの春、紗英がくれた言葉のやさしさを、今度は僕が誰かに渡す番だと思った。

 もう一度、誰かの春に寄り添うために。

 それが、彼女と出会ったこの春の、本当の意味だったのだと思う。



 その年の春は、例年よりも少しだけ長く感じられた。空は澄み、風は柔らかかった。まるで、何かが終わり、そして始まろうとしていることを、この季節そのものが知っているかのようだった。

 桜の花が散りきる直前、僕は彼女と最後の時間を過ごすために、例の木の下に立っていた。あの桜は、いつもと変わらず咲いていたが、その景色はどこか違って見えた。そこに流れていたのは、日常とは違う時間――静けさの中に、深い感情が満ちていた。

 風は穏やかで、空には雲ひとつなかった。足元には淡い花びらが敷き詰められ、踏むたびに柔らかな音が響いた。僕は深く息を吸い、春の匂いを胸いっぱいに感じた。

「来てくれて、ありがとう」

 紗英は白いワンピース姿で、春の光をまとい、そこに立っていた。少しだけ大人びたその笑顔には、これまでに見たことのない穏やかさと、確かな安堵が宿っていた。

「きっともう“未練”は消えたよ」

 僕はそう言って手を差し出した。彼女はその手を見つめ、そっと指先を重ね、小さく笑った。

「あなたに会えてよかった。誰かに心の奥を見てもらえるって、こんなに温かいことなんだね」

 春の日差しが、二人の影を優しく伸ばしていた。桜の枝が静かに揺れ、まるでその瞬間を祝福してくれているようだった。

「このまま、ここにいられたらって思う?」

「少しだけね。でも……もう、大丈夫。春の終わりは、ちゃんと次の季節に続いてる。私も、止まらずに進めそう」

 紗英がそっと手を握った。その指先には、微かな温もりが宿っていて、僕の胸の奥まで届くようだった。

 その時、風が吹いた。桜の花が大きく揺れ、花びらが一斉に空へ舞い上がる。その中心で、彼女の身体が淡く光を放ち始めた。まるで春そのものが、彼女を見送ろうとしているかのように。

「これは、別れの時なんだと思う」

「うん、分かってる。だけど、それでいい。君が春から解放されて、どこかで安らげるなら、それでいい」

 紗英は、最後にもう一度笑った。その笑顔は、どこまでも澄んでいて、何も恐れていなかった。

「ありがとう、ずっと忘れないよ」

 その言葉を最後に、彼女の姿は桜の花の中へと、ゆっくりと、けれど確かに溶けていった。

 春風が静かに吹き抜ける中、僕はしばらくその場を動けなかった。けれど、不思議と寂しさはなかった。彼女が「確かにここにいた」と、心から感じられたからだ。その存在の痕跡は、この場所に、そして僕の中に、確かに残っていた。

 数日後、僕は桜の木の根元に、小さな木製のプレートを設置した。そこには、一行だけの言葉が、そっと刻まれていた。

『ここに、春を愛した一人の少女がいました』

 それが、彼女の存在を証明するための、僕なりの“しるし”だった。形には残らなくても、想いは残せる。人の記憶は、時に何よりも確かな証になるのだ。

 誰かがその言葉を読み、ほんの少しでも心を動かしてくれたなら、それだけで彼女の春は、今もここに咲いていることになる。紗英がこの場所にいた意味は、たしかに今も生きている。

 季節はやがて夏へ向かう。空の色は濃くなり、セミの声が響き始めた。けれど、僕の中で春はまだ生きていた。過去として閉じることのない、優しく、どこまでも透明な時間として。

 プレートの横には、小さな花を植えた。名も知らぬ草花だったが、柔らかな黄色い花をつけ、まるで彼女の笑顔のように風に揺れていた。毎朝その花に水をやるたび、彼女がそこにいるような気がしていた。

 ある日、小さな女の子が母親と桜の木を見上げていた。女の子がプレートを指差し、「この人、どんな人だったの?」と尋ねた。母親は少し考えてから、穏やかに答えた。

「きっと、とても桜が好きだった人よ」

 その言葉を聞いて、僕はそっと微笑んだ。たとえ彼女を知らない人でも、こうして“想い”が伝わっていくのなら、それで十分だった。彼女の存在は、確かに未来に受け継がれていた。

 僕はその場所に腰を下ろし、空を見上げた。桜の葉は若葉へと変わり、確かに新しい季節が始まっていた。けれどその先に、いつでも“あの春”は共にある。忘れないためではなく、生きていくために覚えていたい春。

 あの春に、一人の少女がいたこと。そして、彼女が僕の中で確かに“生きなおした”こと。

 これから先も、僕は誰かの隣にそっと座り続けるだろう。春風に混じる香りが、彼女の記憶を運んでくる。

 彼女と出会ったあの日から、僕はようやく「こんにちは」と言えるようになったのだから。

 その一言には、もう恐れも迷いもなかった。それは、確かに未来へと続いていく言葉だった。


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