13 裏切り

「その楽器どうしたの、絵菜」

 ケースの大きさと形から見て、ファゴットだ。杉崎先生のリストに入っていたのと同じモデルのようだ。

「学校に納品されたの。このまえ言ってた奴でしょ?」

 幸せそうに、絵菜はファゴットを抱き締めた。

「ちょっと待って、納品は来週の頭からよ」

「そうなの?」絵菜はきょとんとしている。「いっぱい来てたよ」

 私はスマホを取り出して洋太くんに電話をかけた。まだ勤務中のはずだ。それなのに、何度かけても出なかった。嫌な考えが胸をよぎった。今度は杉崎先生にかけてみた。先生はすぐに出た。

「先生、予定より早く納品が始まったみたいなんですけど、何か聞いてますか」

『いや、予定通りだよ。なかなか優秀な楽器屋だろ』

 胃の底に重いものが落ちていく。

「先生、約束が違います。私の所で買っていただいたはずです」

『なんの約束だ。僕は購入予定のリストを見せてあげただけだよ』

「でも、先生は私と――」

 娘の前で言えることではない。注文を取るために、二十年の時を経て再び身を委ねた、などとは。

『君に発注するとは言ってない。それに』先生は短く息をついた。『もっと美味しく熟していることを期待したんだけどね。まるで成長が見られない。劣化が進んだだけだ。がっかりしたよ。やっぱり、新しい楽器の方がいいな』

 電話は一方的に切れた。

 私はメーカーに電話をかけて、洋太くんを呼び出してもらった。

『なんだよ、しつこいな』

「先生が、私との約束をなかったものにしようとしてる」

『で』

「すぐにキャンセルして。大変なことになる」

『無理だよ。もう製造ラインが動いてる』

「じゃあどうするの。引き取り手のない楽器が大量に私の所に来てしまう」

『売ればいいじゃないか、楽器屋なんだから』

「どこに置くのよ。それに運転資金が足りなくなる。あなただって困るでしょ」

『何も困らないよ。僕は受注を正規にこなしただけだからね』

「……知っていたの」

『いや、それだけは、はっきりと否定させてもらうよ。可能性は考えていたけどね』

「リスクを承知で受けた、っていうこと」

『商売って、そういうもんだろ』

 私が呆然としている間に電話は切れていた。

 絵菜と目が合った。その瞳にはなんの色も浮かんでいなかった。

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