12 花の歌
大きな仕事が入って気持にゆとりができたので、ゴールデンウィークに久しぶりに家族で旅行をした。露天風呂、小さな動物園、イングリッシュガーデンなど、子供も大人ものんびりと楽しめる温泉街だ。
一日目は早く宿に入って体を休めた。山の中なのに豊富な海産物の刺身が食べ放題の、豪華な夕食だった。
「ちょっと、トイレに行ってくる」
私は家族から一人離れた。
トイレに入ると、誰かが口ずさんでいるメロディー聞こえてきた。『花の歌』だ。花壇がメインの公園だから、つい出てしまったのだろうか。旅行先でまで聴くなんて、やはり私とは縁のある曲のようだ。
個室を出て手を洗っていると、清掃員の女性が別の個室から用具を抱えて出て来た。ああ、この人か、さっきの歌は。
「失礼します」
低い声で挨拶をされた。顔に表情がない。とても疲れているようだった。
会釈を返してトイレから出ようとした私の足が止まった。振り返って女性の横顔を見つめる。唇が震えた。
「お母さん……」
その呟きは最初、届かなかったようだ。しかし、一呼吸おいて清掃の手から力が抜けた。
「絵里花?」
「そうだよ」
握ろうとした手が撥ね除けられた。
「どうして」
「私にはあなたに会う資格がない。早く立ち去ってちょうだい」
「何言ってるの、やっと会えたんだよ」
母は背を向けた。
「あなたには会いたくなかった」
無防備に涙が溢れ出た。
「どうして、どうしてそんなこと言うの。ねえ、連絡先を教えて。今は二人とも混乱してるけど、改めて会おうよ」
「お断りします」
母の手が清掃を再開した。
「お母さん――。それじゃ、せめて孫たちに会ってよ」
肩がピクリと動いた。でもそれだけだった。私は、もう一度母に捨てられたのだ。
諦めきれなかった。でも、これ以上は母を傷つけることになる。その程度のことは分かるだけの人生経験を、私はしてしまったようだ。唇を噛んでうつむいたまま、涙を拭わずにトイレを出た。振り返る。でも、戻らなかった。
『花の歌』が、背後に遠ざかっていった。
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