一番星の君へ
鈍重カビラ
第1話
心の底から『愛おしい』と思える観念を持っていて、しかもそれが、目を向けさえすれば視界に入るほどの距離に定住しており、彼の示す喜びや驚きや悲しみや怒りを、自分のことのように受け入れることができる。よすがとしてのアイドルと、そこに惜しみのない好意を抱くことができるだけの外向的な心。それらを一つの魂に同居させている人がいるとするならば、その人は、苦痛に満ち溢れた人生の途上にあって、苦痛とは無縁な、もう一つの人格を手に入れたようなものである。
幼年時代の私は、特撮物のヒーローに憧れを覚えていた。特に、彼らの特殊能力を背景とする、人間離れした活躍を見るのが大好きだった。重力を無視した挙動や魔法のように放たれる炎、巨大化や合体技などを駆使することで、毎話悪を打ち倒していく様を見ると、心の底から「自分もあのような存在になりたい」と思うことができた。たが、その一方で、そうしたヒーロー像に魅力を添えようとした場合、決まって描写される事になる葛藤の類を目の当たりにすると、幼い私は抑えようのない『義憤』に駆られてしまうのであった。戦闘シーンが大半を占めるストーリーの内で、ほんの僅かだけ映されることとなる、ヒーローの人間的な、あまりにも人間的な弱さを目の当たりにしてしまう。すると「こんなに凄い人であっても、涙を流すことはあるんだ」と、失望に似た感情、信頼していた人に裏切られたような感覚に陥り、せっかく両親が録画してくれたビデオを、放り出してしまうことがあった。フィクションで主役を張るヒーローのほとんどが、屈強な肉体の裏側に孤独を隠し持っていて、それが彼らの物語を一層輝かしいものにしている。幼い頃の私は、ただ、そうしたヒーローたちの事情を知らなかったのである。
よく「子供というものは、どこまでも純粋で、裏表がないから好き」といった意見を耳にするが、こうした幼年時代のあどけなさに目を向けてみると、子供というものは、世に説かれている程に純粋ではなく、その心根も一面的なものではないと感じる。落胆が怒りに到るまでの経緯の複雑さや、胸中を悟られるまいとして両親に対して声音を取り繕う様子、そして『義憤』という小難しい言葉を用いざるを得ないような心の傾向。そんじょそこらの大人を観察するよりも、子供の働きを見ているほうが、多くの学びを得られるような気がする。特に、自分自身の過去を省みることは、格別の勉強になるようである。単純だとか、劣っているとか、未成熟であるとか、そういった言葉で片付けてしまうにはあまりにも惜しい。幼稚であることの内側には、多くの本質が隠されていて、そこに積極的に目を向けさえすれば、得難い教訓すらもが、ひょっこりと顔を出してくれるようではないか。
それから年月は移り、少年時代の私は、毎週欠かさず音楽番組を見るようになった。「音楽番組を見よう」と意識していた訳ではなく、見逃したくないアニメ作品の後が音楽番組で埋まっていたから、流れで、ただ何となく視聴していただけだった。それでも、煌びやかなステージの上で、歌ったり踊ったりするアイドルの在り方には魅力を覚えた。歌詞の意味は分からなかったが、歌声には力があるようだったし、キレのあるダンスや集団行動の流麗さには、目が釘付けになった。また、ステージの上であれほどの存在感を放っていた人々が、音楽と全く関係のない、バラエティ番組やトーク番組にも出演していて、ある場面では滑稽・ドジな人として一座を沸かし、また別の場面では、軽妙洒脱な話術で耳目を集めている姿にも気がつくようになっていった。そんな彼らの目覚ましい活躍を画面越しに見ていると、心の大部分は躍動し、その素晴らしさに幸福を覚えたものだが、心のどこか別のところにある、ほんの僅かな部分では、彼らの美しさの中に、何か途方もなく痛切なものが滲んでいるような気がして、どうも夢中になり切ることができず、そのために、特定の個人やグループを推すということもできなかった。
歌って、踊れて、トークもこなせて、ファンの一人一人に格別の笑顔を贈ることもできる。ステージでも雛壇でも、おそらくは路傍にあっても、特別な存在感を放っている。そんなスーパーアイドルが沢山いた気がする。だから彼らは、才能の端部に至るまでをも燃やし尽くすようにして、死に物狂いで自分を犠牲にしながら、強い輝きを放ち、その輝きによって、より高い場所を目指す他になかったのではなかろうか。彼らの、その光の裏側には、すり減ってボロボロになった身体と精神、傷だらけになって血を滴らせている魂が隠されていたのではなかろうか。鉛筆を尖らせた代償としてたくさんの屑が生まれるように、何事かに先鋭化された人間を見ていると、そこに潜在する永遠に失われた部分に思い至って、唐突に末恐ろしい気持ちに陥る。少年時代の私が、アイドルと呼ばれる人々に覚えたあの痛ましさは、幼年時代の私が、ヒーローに対して抱いた義憤の、別の現れ方だったのではなかろうか。幼い頃は、完璧な人間というものを信じていて、それに期待してもいたのだが、両親や親戚一同、同年代の友人たちや先生方と関わるにつれて、「人に完璧であることを期待しても、虚しいだけだ」と思うようになっていった。失望に慣れていった私は、近しい人にバレないよう、少しづつ、人間という者共への評価を下方修正していったような気がする。だから、アイドルと呼ばれる大の大人たちが、輝きと共に高みを目指す様を目の当たりにすると、ほんの一瞬、目が眩んだそのすぐ後、「こんなのまやかしなんだよな」と思い直し、彼らに対し憐憫を抱いて、心が痛んだのである。
青年時代の私は、無趣味であった。目的意識もないまま高校に通い、無気力に食事や睡眠をとり、余った時間をバイトや蕩尽に費やすばかりで、特定の事柄に没頭することができなかった。そんな状態にあったからこそ、数少ない友人との与太話には、必要以上の関心を向けていたのかもしれない。瑣末な話題にも気を払い、自分の発言が生んだ効果や印象のことを、後になってあれやこれやと思い返しては、夜も眠れなくなることがしばしばあった。「アイドルはうんこをしない」と主張した友人のことを、私はよく覚えている。なぜならその意見には、かつて私がアイドルに対して抱いた憧憬と、似通ったところがあるようであったからだ。ある人間が完璧であることの裏付として、特別な素養が表面化する。子供の頃の馬鹿げた考えを蒸し返されたように感じて、思春期の私は苛立ちを覚えた。
この友人は、かれこれ5年もの長きに渡って、とあるアイドルグループのことを支持し続けていた。学業に支障が出るほどバイトに打ち込み、それでいて無駄遣いをすることはなく、こつこつと溜め込んだ貯蓄のほとんど全てを、そのアイドルグループに注いでいた。ライブの抽選に当たっては、嬉々とした様子で周囲の人々に布教を試みていたが、いつも勧誘は失敗に終わっていた。一人鈍行列車に揺られて、東京あたりにあるらしいライブ会場に駆り出しては、限定品なのであろう、ピンクを基調とするtシャツやタオルをしこたま買い込んできて、それらを周囲の人々に見せつけるようにしながら、決まって幸せそうにしていた。こうした友人の姿は、なかなかに狂気じみてはいたものの、何事に対しても心を開けないでいた私からしてみれば、この友人の心が外を向いているという一点において、やはり畏敬に値するところがあったので、友人の大切な領分に対して、はっきりと自分の意見を述べることが出来なかった。私は大袈裟な笑い声を立てることで苛立ちを隠し、友人の発言を冗談として受け止めようとした。だが、本当に冗談であったのだろうか?初めてこの理論を提唱した人間、そして私の友人は、自分がよすがとしている観念に泥を塗りつけてまで、一座を盛り上げようと考えたのだろうか?そんな事があり得るのだろうか?救世主の絵を踏むことよりも死を選んだ人々がいたではないか。あの友人の在り方にも殉教者的なところがあったではないか。彼らは皆、真剣、誠実、忍耐強く、清らかであると確信できた観念に近付き、そこから離れてしまわないために、懸命であったではないか。アイドルと呼ばれる人がいて、それを支える人がいる。そして、アイドルと同様に、あの友人の在り方にもまた、多くの魅力的な点があったのである。
そして今、私はウッドデッキに腰を下ろして、家の中から赤ん坊の泣き声が聞こえてこないことに安堵している。赤ん坊はつい先程まで、近所迷惑になりかねないほどの大声で泣き叫んでいたというのに、濡れたおしめを取り替えてもらい、お気に入りの音楽を聴きながら、母親の腕に抱かれると、嘘みたいに眠り込んでしまった。私はこの後やってくる夜勤を耐え忍ぶために、湯気を立てるインスタントコーヒーを啜る。すると、夕刻十七時を告げる鐘の音が響いた。公道に夕陽が落ちていき、西方の空は橙色に染め上げられていく。その反対方向の空はすでに薄暗く、目を凝らせばいくつかの星あかりを認めることができた。一月の終わりの冷たい夜は、すぐそこまできていた。風はなく、空気も澄んでいて、厳しい寒さではあるが、苦痛を覚えるほどではない。流れていく日常の中にあって、どこか安らかな時間であった。そしてふと、私は思ったのである。つまり「完璧からは程遠くとも、死に物狂いで生きることは出来るのだ。『愛おしい』と心の底から思えるもののために、懸命に生きることは出来るのだ」と。自分の心が動いているのを感じた。するとまた、赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。私は慌てて家の中に駆け入り、再び、忙しなく過ぎていく生活の一部となった。
幼年時代の私がアイドルと呼ばれる人々を見たならば、そこに完成された人の姿を認めて、歓喜したことであろう。幼稚であるがために、欠けるところのない人を信じ、可能性に満ちていたために、彼らのようになろうと願ったことであろう。
少年時代の私は、アイドルの姿に影を見ていた。完璧な人などありはしないのだと勘付き、そうあろうとする人々に対しては、憐れみの情すら抱くようになった。
青年時代の私は、アイドルがそれ単体で存在しているのではなく、決まって相関的なものであることを知った。アイドルと同様、それを支える人々も死力を振り絞っている。推しのためにと活動する程、エネルギーに満ち溢れていく友人の姿には、独特な魅力が備わっていたことを覚えている。
今、心の底から『愛おしい』と思えるものを手に入れた私は、アイドルと呼ばれる人々に親しみを覚えている。私の気まぐれに寛容であった両親と、全ての子供たちが憧れたアイドル。すぐにおしめを汚してしまう私の宝物と、排泄物を出さないという友人のアイドル。自分の居場所で生きている私と、高いところを目指し輝くアイドル。それらの間にどれほどの違いがあると言えるのだろうか。
人は星に似ていると思う。ある星は恒星であり、ずっと変わることなく、自分の居場所に腰を落ち着けている。またある星は惑星であり、浮き沈みを繰り返しながら、その動的な特性によって人の目を惹きつけている。誰しもが自分の在り方を見つけ出していて、それぞれが自分に出来る方法で存在感を示している。しかし、どんな星であっても、朝がくれば見えなくなってしまう。そしてそれは、かつての私が考えていたほどには、悲しいことなんかではないのだ。
一番星の君へ 鈍重カビラ @donjyukabila
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