『止まれ』の恩返し

星乃かなた

『止まれ』

 長時間労働のあげく、上司の晩酌に付き合わされた。『もっとがんばれ』という上司の発言を思い出しつつ、疲労感を肩に乗せながら、アパートへの道を歩く。


「俺、そんなにがんばれないよ」


 小さい頃、疲れた顔の大人たちを見て、心のどこかでばかにしていた。大人のくせに情けない、もっと楽しく働けるだろ、なんて。今思えば身の程知らずもいいところだ。今の俺は、昔、俺がばかにしていた大人たちの足元にだって及びやしない。


「どうしたもんかねえ」


 今の仕事に意義が見出せない。本当はもっと、やりたいことがあった気がする。自分に向いていて、やりがいを感じられそうな、何かが。


 アスファルトの道をうつむきながら歩いていると、ふと、視界に影が落ちる。顔を上げると、目の前に標識が立っていた。『止まれ』の標識である。


「あんたはすごいよなあ、誰に褒められずとも、24時間365日、文句も言わずにずっと立ちっぱなしで」


 目の前の働き者に称賛を送る。多少の酔いも手伝っていた。そんな働き者の根本を見ると、なにやら汚れていた。


「おっと、なんか落書きされているな。待ってろ、今拭いてやる」


 自分の言葉がおかしくて、ふっと笑みが漏れる。待ってろも何も、標識なんだから動きやしないのに。


「俺なんか8時間もがんばれないよ。あんたは、立派だ。たくさんの人たちに、しっかりと一時停止するように案内し続けている」


 持っていた未開栓のペットボトルの水でポケットティッシュを濡らし、落書きをふき取りながらねぎらいの言葉をかける。標識をふいて汚れを落とす手に、尊敬の念がこもる。


「よし、これでキレイになった。いつもお仕事、お疲れ様」


 標識の落書きをキレイにふき取ると、俺は深々と頭を下げ、その場を離れた。


 その数日後のことだった。仕事から帰宅し、風呂から上がったタイミングで、チャイムが鳴った。こんな時間に誰だろうか、と玄関へ向かう。

 チェーンをかけたまま扉を開けると、若い女性の顔が目に入った。


「夜分遅くにすみません。隣に引っ越してきたとまりです。ご挨拶にうかがいました。こちら、つまらないものですが」


 彼女、泊さんはそう言うと、手に持っていた菓子折りを差し出してきた。


「ありがとうございます。真庭まにわと申します。困ったことがあれば、なんでも聞いてください」

「ええ、ありがとうございます」


 泊さんはあどけなさの残る愛らしい顔に笑みを浮かべた。それにしても、いつ引っ越してきたのだろう。まったく気付かなかった。

 それに、なんだろう。彼女とはどこかで会ったような。


「初めて会った気がしないですね」

「あら。ナンパですか」

「失礼、そういうつもりは」

「違いますか、少し残念です」彼女はいたずらな笑顔で続ける。「真庭さんにナンパされるのなら、まんざらではありませんが」


 口ぶりからするに、やはりどこかで会ったことがあるのだろうか。けれど思い出せない。記憶からひねり出すべく、うー、あー、とうなっていたが、次に続く言葉がそれをかき消す。


「真庭さん、今から晩御飯ですか」

「はい、そうですが」

「よろしければ、ご一緒させていただけませんか。私、料理の腕には自信があるんです」


 なんと。初対面の相手に手料理を振舞おうというのか。この子、大丈夫だろうか。


「引っ越してきたばかりでしょうし、疲れているのでは」

「いえいえ、せっかく隣に引っ越してきたので」

「俺にそこまでしてくれる意味が分かりません」

「何をおっしゃいますか」


 泊さんはドアチェーンの隙間から顔を突き出し、強く言った。


「むしろ、このために引っ越してきた、まであります」


 どういうことかは分からないが、とてつもなく押しが強い。根負けした俺は、内心焦りながらも彼女を部屋に招くことにした。


「そこまで言うのなら、お願いします」

「それでは、失礼します」


 泊さんは部屋に入ると、てきぱきと支度を始めた。前もって準備していたかのごとく、食材や調理器具まで持ち込んできている。


「リクエストはありますか」

「いや、特にないですけれど、できれば手料理っぽいものを」

「分かりました」


 その後、彼女は俺の曖昧な要望から、見事な晩御飯を作り出した。あまりの美味しさに、気付けば食べ終わっていた。


「塩おむすび、味噌汁、サバの塩焼き。どれも美味しかったよ」

「そう言ってもらえてよかったです」


 泊さんが嬉しそうに破顔する。


「真庭さん、明日はおやすみですか?」

「ああ、そうだけど」

「先ほどお食事中におっしゃっていた、お悩みのことなんですけれど」

「ああ、仕事について悩んでるって話しちゃったっけ」


 彼女が聞き上手なため、つい、語ってしまったのだった。くだけた口調で話してほしいと要望されたのも、心を開いてしまった原因かもしれない。


「ごめんね、いきなり悩みなんて聞いてもらって」

「いえ、真庭さんのことが知れて、うれしいです」


 彼女は肯定的に返すと、それから。


「お役に立てるかもしれません」


***


 それから数週間後。俺はなんと、塾の講師に転職していた。泊さんには色々とお世話になったので、今日はお礼も兼ねてカフェを共にすることに。


「ありがとう、泊さん」


 泊さんに心からの感謝を告げる。それも、彼女のおかげで自分の進みたい道に方向転換することができたからだ。


「君のおかげで、俺は後悔しない人生を送れそうだ」

「それはよかったです。でもそれは私じゃなくて、紹介した転職サービスのおかげですよ」


 たしかに、それも間違いではなかった。彼女から教わった転職サービスは、自分の強みや適性を見事なまでに見出す素晴らしいサービスだった。


「それから」と、彼女は続ける。「なにより、真庭さんががんばったからですよ。真庭さんがこれまでがんばってきたことの積み重ねです」


 彼女は優しい笑顔で謙遜を並べる。あの日から何度も助けてもらったり、食事を共にしたりしているのだが、感謝を告げるといつもこうやって褒め返されてしまう。それがまたうれしくて、再び俺は感謝を口にする。


「本当にありがとう」

「いえいえ。これくらい、当然です」


 当然。彼女はいつもそう言うが、俺にとっては不思議でならない。


「なぜ、ここまでしてくれるんだ?」


 俺はカフェの外、かつて『止まれ』の標識があった場所に目を向けながら語る。あの日からなぜか、あったはずの標識が消えている。近所の人たち曰く、気付いたら消えていたのだとか。今は応急的に、『ここは一時停止です』という看板が立っている。


「そんなに不思議なことではありませんよ」


 泊さんも、俺が視線を向けた場所に目を向け、語る。


「人生には、立ち止まる時というものがあってもいいと思うのです。迷ったり、悩んだり、休んだり。けれどつい、人は焦って走り続けてしまうものです」


 彼女の話に、「うん」と頷くけれど、抽象的でちょっとよく分からない。


「だから私は、立ち止まるように案内する仕事をしていたんです。毎日、毎日」


 なるほど、仕事の話か。そういえば、彼女の仕事の話は聞いたことがない。


「けれど、そんな私を評価してくれる人はいませんでした。中には無視して、危険をおかしてしまう人だっていたんです」


 泊さんも、苦労したのだろう。内心で呟きつつ、頷きで返す。


「だけど、そんな私に優しく声をかけて、撫でてくれた人がいました。労ってくれた人がいました。お疲れ様って。本当、に、うれしかった、なぁ……」


 泊さんの声が途切れ途切れになった。その目には、涙が浮かんでいた。


「泊さん、大丈夫!?」

「あっ、すみません。その時のこと思い出しちゃって、つい感極まってしまいました」


 彼女はハンカチで目元を拭くと、笑顔で続けた。


「それで、ですね。私もその人みたいに、誰かのいいところや秘かな努力を、評価できる人になりたいって思ったんです」

「なるほどねえ」

「そこに自分の仕事を織り込んで、悩んでいる人にいったん立ち止まってもらって、その人の進みたい道に導くことができたらなあ、って。そう思ったんですよ」

「へえ……」

「だから、真庭さんにもそうできたらなって」


 そこまで聞いてやはり思った。この人は、素敵だ。また、彼女にそう思わせた人物も、素敵だ。


「君も、君にそこまで思わせたその人も、素敵だね」


 俺がそう言うと、泊さんは「ふふ」っと微笑んでから、俺をまじまじと見つめた。


「どうかした?」

「いいえ、何も」


 彼女は意味ありげな笑みで続ける。


「本当に素敵な人ですよって、思っただけです」


***


 それから数日後。彼女に伝えたいことがあり、意を決した俺は、隣の部屋のインターホンを鳴らした。しかし、彼女は出なかった。その次の日も、次の次の日も。


 何日も不在なようなので、大家さんに彼女のことをたずねてみたが、首をかしげられた。


「真庭さんの隣の部屋は、ずっと空き部屋でしたよ」


 狐につままれた気分になりながらも、気付けば駆け出していた。


 一時停止標識。『止まれ』の標識があった場所に、走った。


 そこには先日まで行方をくらましていたはずの『止まれ』の標識が、あの夜と同じようにそこに立っていた。


 心なしか、その姿がより一層、力強く見えて。

 行き場のない感情が込み上げてきて、少し、泣いた。

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