例の人
hiromin%2
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「……というわけで、私は“例の人”なんです」
十畳ほどの会議室で、安楽椅子に腰かけていたT氏は、男の一連の発言に肝をつぶし、目を丸くしました。
「これは驚きました。まさかこの場でそんなことを聞けるとは」
「今まさにそれを、やることだってできます」
「いや、それは結構ですが」
「せっかくなので、見ていただけないでしょうか?」
「見たいところですが、時間が無くて」
「すぐ終わりますから」
「……まあ、やってくださいよ」
T氏は男にうんざりしていました。しかし彼が片意地をはったので、T氏は根負けして男の好きなようにやらせることとしました。
「お早めにお願いします」
「はい! ありがとうございます」
男は快活明朗な声で返事をしました。T氏にとってそれは好印象でした。
男はパイプ椅子から立ち上がりました。ジャケットのポケットから、おもむろに一枚のビスケットを取り出しました。
「はい、まずこちらを見てください。ポケットの中には一枚、ビスケットが入っています」
「“ポケットの中にはビスケットが一つ”」
「そうです!」
男は嬉しそうにはしゃぎました。その振る舞いがいくぶん場違いだったので、T氏は思わず苦笑しました。
「もちろん、もうポケットには何も入っていませんよ」
男はポケットの布袋を引っ張り出して、手旗のようにヒラヒラ揺らしました。
「ほう、それで?」
「再び、ビスケットをポケットに戻します」
「なるほど、続いてポケットを叩くと、ビスケットが二枚に増えるということですな」
「ご名答!」
男はすっかりご機嫌で、指をスナップさせました。T氏はムッとしました。しかし男はもう悦に浸っていて、T氏の様子には目もくれませんでした。
「いいですか、叩きますよ」
「はい、どうぞ」
「いいですか、叩きますよ!」
「……早くしてくださいな」
――パン
男はポケットを叩き、不敵な笑みを浮かべながらT氏をいちべつしました。T氏は失笑しました。
男は大げさな身振りで、ポケットからビスケットを取り出しました。すると宣言通り、ビスケットは二枚に増えていたのです。
「ほら! どうです、すごいでしょう」
男はすっかり鼻高々でした。
「どういう仕掛けなんでしょう」
「はい?」
「いや、種明かしをしていただこうかなと」
男は顔を真っ赤にしました。
「とんでもない! まさか僕を単なる手品師とでも言いたいんですか?」
「僕は童謡どおりの本物なんですよ、それを信じてくれないなんて」
「……はあ、まあ」
「じゃあ何枚までビスケットを増やせば信じていただけますか」
「……困ったなあ」
何だか面倒なことになったので、T氏はため息をつきました。これ以上、男の好きにはさせられないので、男を牽制するため、凄みを利かせた声で言いました。
「あのねえ、君、これがF商事の面接だってわかっているのかい? 確かに私は、君にアピールポイントを教えてくれと頼んだが、そこにはビジネスとの関連性が必要なんだよ」
「協調性はあるとか、我慢強いとか何でもいいのだが、いつまで君は無関係でくだらないことをするんだい?」
「話してくれよ、君はわが社のビジネスにどうやって貢献するんだい?」
男は意外そうに目をパチクリさせましたが、すぐさま応戦しました。
「じゃあこれでどうでしょう? 私はビスケットを無限に量産できるので、社員全員に毎日配布できますよ」
「それほどわが社の社員は食に困ってないよ」
「昼食を用意しなくてすむんですよ、すばらしいじゃないですか」
「社員の福利厚生として、すでに無料の軽食を完備していて」
「なるほど、ではノベルティグッズとして顧客に配布するのはどうでしょう?」
「……はあ」
T氏はもう一度ため息をつきました。いくら応酬しても、男はむちゃくちゃな言い草で反論してきそうだったからです。
「分かりました。今日はお帰りください」
「そんな、もう少し話したいことが……」
「選考結果は後日、メールでお知らせしますから」
面接を途中で打ち切り、男に退出を命じました。彼は不服そうな顔をしながらも、命令に従い退席しました。T氏はすっかりくたびれていました。
当然、男は不合格でした。が、どうやら彼は本物の、“例の人”だったようです。もっとも、F商事にはどうでも良いことでしょうが。
例の人 hiromin%2 @AC112
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