第3話 「パワハラと戦士のポーズ」


 オフィスの空気が重い。パソコンの画面を見つめながら、麻美は奥歯を噛みしめた。


「これ、やり直し。なんでこんなミスをするんだ?」


 部長の佐伯が冷たい声で言い放つ。資料をデスクに叩きつける音が、オフィスに響いた。


「申し訳ありません。すぐ修正します」


 麻美は平静を装って答える。だが、心の中は怒りと悔しさでいっぱいだった。ミスと言っても、ほんの些細な数字のズレだ。しかも、それをチェックするのは本来、佐伯の仕事のはず。なのに、いつも彼は部下のせいにする。


 ここ最近、佐伯の叱責はエスカレートしていた。細かいミスを執拗に責め、理不尽な理由で残業を命じる。周りの同僚も皆、息を潜めている。麻美は耐えてきた。でも――


(もう限界かもしれない…)


 気づけば、拳を強く握りしめていた。爪が手のひらに食い込む。


* * *


 その夜、ヨガスタジオ「ルナ」に足を運んだ。


 スタジオの柔らかな灯りとアロマの香りが、ピリピリとした神経を少しだけほぐしてくれる。


「今日はヴィラバドラーサナ、戦士のポーズをやりましょう」


 沙月の穏やかな声が響く。


「戦士のポーズは、ただ強く立つだけのポーズではありません。本当の強さとは何か、感じながらやってみましょう」


 麻美はマットの上に立ち、指示に従う。


 片足を大きく後ろに引き、膝を深く曲げる。腕を真っ直ぐ前後に伸ばし、視線は前方へ。力強く、大地を踏みしめる。


 だが、足が震えた。体がぐらつく。


「力が入りすぎていますね」


 沙月がそっと声をかける。


「強さとは、ただ力を込めることではありません。しっかりと地に足をつけ、自分の軸を持つこと。揺るがない意志があれば、余計な力は必要ないのです」


 麻美はゆっくりと呼吸を整えた。肩の力を抜き、地面を踏みしめる。すると、先ほどよりもずっと安定する。


「そう、その調子」


 沙月の微笑みに、麻美の心が少しだけ軽くなった。


* * *


 翌朝。


 麻美はいつものように出社した。佐伯がすぐに呼びつける。


「昨日の資料、またミスがあったぞ」


 淡々と言い放つ佐伯。その目には、「どうせ言い返せないだろう」という余裕があった。


 だが――


「どの部分でしょうか?」


 麻美は、まっすぐ佐伯を見つめながら尋ねた。


 佐伯が一瞬、驚いた顔をする。これまでなら「すみません」と謝るだけだった麻美が、はっきりと言葉を返したから。


「えっと…この数字が…」


 佐伯は資料をめくるが、指摘するべきミスが見つからない。


「それ、昨日修正済みのはずです。ご確認いただけましたか?」


 麻美の声は落ち着いていた。


 佐伯はバツが悪そうに咳払いをし、「まあ、いい」と呟いて席に戻った。


 オフィスに沈黙が流れる。やがて、同僚たちが小さく頷いた。


 ――空気が変わった。


 麻美はそっと拳を開く。強く握りしめなくても、軸さえしっかり持っていればいい。


 戦士のポーズのように。


 その日、麻美は仕事を終えたあと、静かにヨガスタジオへ向かった。


 夜の街を歩く足取りは、いつもよりずっと軽かった。


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