第2話 「社内恋愛と三角のポーズ」
夜のオフィス街は、ネオンと車のテールライトで煌めいていた。千佳はスマホを握りしめ、深く息を吐く。通知が来るたびに期待して、そして落胆する。
彼からのメッセージはまだ来ない。
千佳は同じ部署の同期、拓海と1年前から付き合っている。社内恋愛は禁止ではないが、周囲の目を考え、秘密にしていた。最初はスリルが楽しかった。でも、今は違う。彼が他の女性社員と笑い合うのを見るたび、心の奥がチクリと痛む。
「私たち、バレてるのかな…」
最近、同期の奈々にそれとなく探られることが増えた。ランチのとき、「拓海って、誰かと付き合ってるのかな?」と意味深な笑みを浮かべて言われた。千佳は必死に取り繕ったが、奈々の目は鋭かった。
嫉妬、不安、焦り。感情がぐちゃぐちゃに絡まり合って、心が休まらない。
――こんなんじゃ、ダメだ。
千佳はふと足を止め、目の前のビルを見上げた。そこには、馴染みのヨガスタジオ「ルナ」のロゴが光っている。少し迷ったが、そのまま足を踏み入れた。
* * *
スタジオには、すでに数人の生徒がマットを敷いていた。千佳も静かに準備をする。室内にはアロマの香りが漂い、外の喧騒とは別世界のようだ。
「今日は、バランスを意識したレッスンにしましょう」
沙月の落ち着いた声が響く。彼女の存在感はいつも特別だった。姿勢ひとつとっても美しく、吸い込まれるような魅力がある。
「では、トリコナーサナ(三角のポーズ)をやってみましょう」
沙月はゆっくりと動きながら説明を始めた。
「足を大きく開き、片足を外に向けます。そして、体を横に倒して、片手を床に、もう片方の手を天井へ。視線は上に…」
千佳も指示通りに動く。片手を下げ、もう片方の手を天井に伸ばす。だが、足がぐらつき、うまくバランスが取れない。
「バランスが崩れそう?」
沙月が優しく声をかける。
「はい…なんだか不安定で」
「それはね、どこかに力を入れすぎているからよ」
沙月が千佳の肩をそっと支え、体の使い方を直していく。
「軸をしっかり作れば、余計な力を入れなくても安定するの。どこかを強くしすぎると、逆に崩れやすくなるのよ」
その言葉が、千佳の心にじんわりと響いた。
――どこかに力を入れすぎている。
それって、恋愛も同じなのかもしれない。
彼を独り占めしたくて、嫉妬や不安に振り回されて。そうやって気持ちが偏るから、苦しくなっていたのかも。
千佳は改めて、ポーズを取る。余計な力を抜くことを意識すると、ぐらつきが少なくなった。
「そう、その調子」
沙月が微笑む。
千佳はゆっくりと呼吸を整えながら、目を閉じた。
* * *
レッスンが終わり、帰り道。千佳はスマホを取り出した。
拓海からのメッセージは、まだ来ていない。
でも、さっきまでの焦燥感は不思議と和らいでいた。
自分が勝手にバランスを崩していただけかもしれない。彼との関係も、仕事も。大切なのは、軸をしっかり持つこと。そして、余計な力を抜くこと。
千佳は夜空を見上げ、深呼吸した。
恋もヨガも、バランスが大事なのだ。
スマホの通知音が鳴る。
拓海からのメッセージだった。
『遅くなってごめん。明日、少しだけでも会える?』
千佳は笑みを浮かべ、ゆっくりと返信を打った。
『うん。無理のない範囲でね』
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