猫に呼ばれて
アオキユーキ
猫に呼ばれて
夜の帳が街を包み込み、街灯の明かりだけが静かに道を照らしていた。
その夜、俺は仕事帰りの遅い時間に駅からの道を歩いていた。季節は春のはずなのに、肌寒さが残る夜風がコートの裾を揺らす。
「……寒いな」
ポツリと独り言を漏らしながら、路地裏に差しかかった時だった。
――カラン。
どこかで空き缶が転がる音がした。耳を澄ますと、小さな気配が路地の隅から漂ってくる。ふと視線を向けると、思わず足を止めた。
薄暗い路地の奥、誰もいないはずの場所に、一匹の灰色の猫が佇んでいた。
「猫……?」
その猫は、灰色の毛並みが月明かりを淡く反射し、まるで霧の中から現れたかのようだった。静かにこちらを見つめる瞳は、不思議なほど人間らしい感情を秘めているように思えた。
そっと手を差し出した。
「ほら、おいで」
だが、猫は一瞬だけこちらに顔を向けると、スッと影のように姿を消した。
「……あれ?」
まるで幻を見たかのような感覚だった。
それからというもの、灰色の猫は何度も現れては消えた。路地裏、駅のホーム、あるいは公園のベンチの隣――気づけば、いつも視線の片隅にいた。だが、どれだけ手を伸ばしても、猫は決して捕まえられなかった。
俺は次第に、その猫が気になって仕方がなくなっていった。
「……あの猫、なんなんだろう」
ある夜、猫がまた現れた。今度はいつもと違った。猫はじっとこちらを見つめ、まるで「ついてこい」と言わんばかりに、静かに後ろを向いて歩き出した。
「待てよ……」
導かれるままに、その後を追った。
猫が立ち止まったのは、街外れの古びた廃屋だった。長い間誰にも触れられていないような、朽ち果てた扉の前で、猫は振り返り、静かに見上げる。
「ここ……?」
戸惑いながら扉に手をかけると、軋んだ音とともに中へ入ることができた。
薄暗い室内には埃の匂いが漂い、静寂が支配していた。床には古い新聞紙や木片が散乱している。その奥、壊れかけた棚の上に、目を引くものがあった。
一枚の写真。
埃を払いながら写真を手に取ると、そこにはかつてこの町に住んでいたと思しき家族の姿が写っていた。
母親と思われる女性、そして幼い女の子と男の子。
「……誰だろう」
裏返してみると、小さな文字が記されていた。
『見つけてくれてありがとう』
「……ありがとう……?」
困惑していると、ふと近くから微かな鳴き声が聞こえた。振り返ると、そこには小さな黒い塊と白い塊が。
子猫だ。産まれてそう日も経っていないだろう二匹の子猫が、かすかに体を震わせながら丸まっていた。周りを見渡しても親猫はいない。
そっと子猫に触れる。体温は温かいが、弱っているかもしれない。二匹とも、どこか心細げに寄り添っていた。
俺はなんだかその光景を見て、胸がじんと熱くなるのを感じた。
「……放っておけるわけ、ないよな」
気づけば、灰色の猫の姿はどこにもなかった。
俺は子猫たちを引き取ることにした。
白い子猫は「シロ」、黒い子猫は「クロ」と名付けた。悩んでいるうちに、至ってシンプルなものにおさまった。二匹はあっという間に元気になり、家の中を駆け回るようになった。
しかし、どれだけ待っても、あの灰色の猫は二度と姿を現すことはなかった。
時折、あの廃屋で見つけた写真を眺めながら思う。
「ありがとう、か」
灰猫はきっと、あの家族の魂を守るためにずっとここにいたのだろう。そして、子猫たちを託すために導いてくれた。
部屋では、シロとクロがじゃれ合いながら無邪気な鳴き声を響かせている。
ふと、窓の外に目をやると、夜の闇の中で風がそっと木々を揺らしていた。その瞬間、微かに感じた気がした。
――遠くから「にゃーん」という、あの懐かしい声が。
まるで「ありがとう」と告げるかのように、静かに風に溶けていった。
猫に呼ばれて アオキユーキ @azimibiyori
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます