第8話 関空プロジェクト〜世界の百貨店人〜

1995年、春。

大阪湾沖の人工島に、新たな空の玄関口を建設する――そんな壮大な計画が現実になろうとしていた。関西国際空港、通称・関空。バブル経済の余熱がまだ冷めやらぬ中、日本の経済界は新しい“国際都市の顔”を求め、確実に動き始めていた。


武一のデスクに、ある日一枚の社内通達が届いた。

――「関西国際空港旅客ターミナル内 商業施設 事業者選定コンペ 参加について」。


その文字を見た瞬間、胸の奥で何かがカチリと音を立てた。これまでの経験――ハーバータウン、南港、そして九州シープラザ。数々の現場で培った「風土」と「人の温もり」。しかし、今回の舞台は人工島。風土のない場所で、どうすれば“空間の魂”を生み出せるのか。考えただけで胸が高鳴った。


会議室で、西村部長が静かに口を開いた。

「武一くん。うちがこれを獲れたら、当社はもう一度、関西での流通での王になれる。我らの城を、空の玄関に建てようや」


その言葉は、武一の胸に静かに染み渡った。百貨店の人々は、自分たちを「百貨店人」と呼ぶ。商社マンが「商社人」とは言わないし、銀行や証券もそうだ。なぜ、百貨店だけが自らの職業を名乗るのか。それは、そこに誇りがあるからだろう。かつて先輩に言われたことを思い出す。

「それはしたらあかん。俺らは百貨店人やぞ」

その響きは、まるで日本人として恥ずかしくない行動を求められたあの日の教えに似ていた。


武一はいま、前任がニューヨーク支店にいた事業開発部の加藤とともに、ドイツ・マイン空港に立っていた。再来年に開港予定の西日本国際空港のショッピングプラザ開発コンペに向け、映像によるプレゼンテーションを作るための取材旅行中である。二人は映像クルー二名を伴い、すでにシンガポール・チャンギ空港、イギリス・ガトウィック空港、フランス・ド・ゴール空港を訪れた。各国空港の許可を取り、立入禁止区域まで案内してもらい、旅人の動線やショップの配置、休憩スペースの状況を丹念に調査してきた。


今日のマイン空港では、ショッピング棟のビアホールが撮影場所だった。カメラを構えた瞬間、客席から声が飛んだ。ビールジョッキを手にした初老のドイツ人が、こちらに向かって何かまくしたてている。


「え、クレームですか……?」武一は隣の加藤に小声で尋ねた。

「違う違う、怒ってへん!」加藤が笑いながら耳を傾ける。「カタコトの英語や。“お前たちは日本人か?”って。それから……“ドイツはすぐイタリア野郎と降参したが、お前たちは最後まで戦った。すごいぞ!ビールを一杯奢らせろ!”やて」


武一はぽかんとした。「戦争って……湾岸戦争? いや、“連合国”って言ったよな……。まさか、太平洋戦争のこと……?」


ドイツのビアホールに響く陽気な笑い声の中、七十年も前の歴史が、ふいにジョッキの泡の向こうから顔を出した気がした。


撮影を終え、夜には空港内レストランバーでのお疲れ会。今回の海外出張の全日程が終了し、肩の荷が下りたのか、加藤が赤ら顔でグラスを掲げた。


「今はもう九〇年代だけどさ、僕がニューヨーク支店にいた七〇年代の頃はね、先輩からよく言われたんだ。“十二月七日は外をウロつくな。家で大人しくしていろ”って」


「どうしてですか?」武一が尋ねると、加藤は淡々と続けた。


「その日は日本が真珠湾を攻撃した日だ。日本人だと知られたら、背中から殴られるぞ――そう言われた。実際、そういう目に遭った駐在員もいたらしい」


終戦から二十年以上が過ぎても、世界の目に映る日本は、まだ“戦後”を引きずっていた。窓の外では、深夜の滑走路に照明が走り、離陸する飛行機の尾灯がゆっくりと夜空へ溶けていった。――この空の先に世界がある。そして、その世界の目に映る日本を、自分たちはどう描くのか。


帰国後、武一はすぐに関空コンペのナレーション原稿に取りかかった。取材ノートを開くと、各国の空港で感じた“差”が浮かび上がる。休憩スペースが乏しい、店舗ファサードはどこも似通っている、旅人の導線は考慮されていない。これを変えたい――空港を“出会いと癒やしの街”にしたい。


ビデオ会社との編集も順調に進み、プレゼン当日を迎えた。映像の最後に流れたフレーズは、

「旅立つ人にも、見送る人にも、温かな時間を」。


会議室を出た後、担当役員が満足そうに言った。

「先方の反応も上々だった。よくやったな、武一くん」


だが、武一は小さな違和感を覚えた。視察したマイン空港のショッピング棟は、活気がなかった。それは鉄道駅舎から遠く、出入国ゲートの反対側という不便な立地のせいだ。今回の関空計画も同じ構造を抱えている。新しい滑走路と第2ターミナルが完成すれば解消されるかもしれないが、果たしていつになるのだろう。


1994年、西日本国際空港が開港した。翌年には、タケマツヤ空港プラザもオープン。上層階にはホテル、会議場、レストラン、診療所、レンタカー取扱店など、多彩な施設が並んだ。しかし、ターミナルから外れたその複合ビルに人々の足は向かわず、赤字が続いた。やがて、タケマツヤは撤退する。


だが、挑戦は無駄ではなかった。百貨店人たちは、バブル経済の崩壊、景気低迷、1995年の阪神・淡路大震災にもめげず、あらゆる大型開発に挑み続けた。戦前には「十銭ストア」を生み、1980年代にはセレクト型売場や専門館構想を次々打ち出した。百貨店は単なる販売空間ではなく、“文化を売る場所”としての使命を担っていた。商品を通じて日本人の生活文化を発信する――その信念こそが、百貨店人の誇りであり、祈りであったのだ。


武一は窓の外の夜景を見つめながら、ふと思った。これからの開発は、単に物理的な施設を作ることではない。歴史と文化、そして世界の目を意識し、訪れる人の心に残る体験を創ることだ。人工島でも、空港でも、人々の記憶に残る“魂のある空間”を作る。百貨店人の誇りを胸に、彼は新たな挑戦へと歩を進めるのだった。

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百貨店人の誉れ〜店が、街を、時代をデザインした〜 @mayuko123

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