今は昔の現世なんて

「どうしても転生しないというのであれば、現世に戻ると言う選択肢もあります」


 倒れている俺を見下ろしながら、淡々と天使さん。


「そんなこと出来んの!?」


 その言葉に、ガバッという擬音を思わせる勢いで上体を起こす俺。

 天使さんの不意を突き、近距離に迫ろうとした訳でない。断じて。


「……可能です。あなたが望むなら」


 俺の行動を読んでいたのか、危なげなく飛び退った天使さんは、ふわりと着地しながらそう告げた。


「本来は案内しない事なんですが、あなたほどでなくても、転生したくない方は極稀にいらっしゃいますから」

「でもそれだと死んだ人が生き返りまくってしまうのでは?」


 天使さんの方へ歩み寄りつつ質問する。天使さんは後ずさって逃げる。


「そうはなりません。少し前にお伝えした様に、これも誰にでも開かれている道ではないのです」


 二度目の蹴りで更に小さくなった天使さん。今は二十歳前後というところだろうか。


「ふうん。何か知らんけど、俺は条件を満たしていて、生き返れるってことかな?」

「どうでしょう。生き返れるかどうかはわたしにはわかりません。専門外なので」


 専門とかあるんだ、と思いつつ、天使さんに近づく歩を早める俺。バックステップにキレを見せはじめる天使さん。


「あれかな。なんか生まれ変わりとかなんかな? それとも同じ人生をやりなおすとか」

「どうでしょうね。わたしにわかることは、『あなたは現世にも戻れる』、というそれだけなので」


 最早駆け足にさえなって天使さんを追い掛けるが、ますます磨きのかかったバックステップで距離を縮められない。

 まるで俺たちの心のようだね、天使さん。


「わかってるじゃないですか、そうですよ。いくら追いかけても無駄なんですよ? 諦めましょう? あと、天使さん天使さんうるさいです」


 そういう天使さんも可愛すぎてどうにかなりそうだった。美人だとか、綺麗だとか、キュートとか、世の中の容姿を褒める言葉が全て天使さんには当てはまる様な気がした。

 そんな彼女を全力疾走で追いかけるが、既に一回のバックステップで数メートルは後方に高速で飛び退る天使さんに、追いつけるビジョンが持てないでいた。


「大袈裟ですよ。それに虚しくないんですか? この姿はあなたのイメージが作り出したものです。言ってしまえば虚像です。それは最初の姿も然り。本当のわたしなんて、あなたは見る事もありません。勝手な幻想を、幻影を勝手に押し付けて、勝手に好きになられても、応えられません! だいいち私は、人間じゃないんです」


「関係ねえ!」


 その一言で、天使さんの鋭い目つきの、眉間が僅かにピクりと動いたのを、俺は見た。


「そんなの全部全然関係ないね! 天使さんは俺が作り出した姿だ? 俺にとっては『だからどうした』って話だね! 俺が今の天使さんを好きだって感情に、理屈なんか要らない! 惹かれちまったもんは仕方ないじゃん!」


 ぜえぜえ息を切らしながら、そんな事を口走っていて、俯瞰をしている自分としてはドン引きしてしまうのだが、主観の自分は一所懸命思った事を伝えているつもりらしかった。


「キモ…」


 全くである。

 しかし俺は止まらない。


「現世にだって未練はねぇ! だってそこに天使さんおらんやろ? 異世界転生にも興味はねえ! 天使さんがいない世界なんて、居る意味がない!」


 天使さんは相変わらず険しい表情で俺を睨みながら、飛び退き続けている。この光景ちょっとシュールだな、と、俯瞰している方のオレは他人事のように思った。


「俺は絶対天使さんに追いついてみせる! 天使さんを振り返らせてみせるぞうおおおおおおお」


 そう言うが早いか、俄かにオレの走るスピードは増していき、スタミナも無尽蔵であるように感じられた。天使さんとの距離も徐々に縮まり始めている。

 俺は気づいたのだ。

 ここは俺のイメージが像を結ぶ世界。どんな大怪我も、俺の気の持ち様でさっさと治ってしまいさえする。

 ならば。

 ならばこの、天使さんとのイチャイチャ追いかけっこも、俺の気の持ち様次第なんじゃないか?と。

 俺は自分を信じて、自分で自分に対していつのまにか抱いていた限界のイメージを更新するように、努めて頭を、心を働かせる。


「気づきましたか……それで、追いついて、どうするつもりです?」


 え?


 途端にピタッと静止する天使さん。

 俺は突然のことに対応できず、そのまま猛スピードで天使さんの横を通り過ぎていってしまう。

 俯瞰している俺は、頭を抱えた。

 通り過ぎていった俺はそのまま勢いを殺すことができずに走り続け、こけて、盛大に地面を何回転もしながら、はるか遠方で漸く静止したようだった。


 それを冷ややかに振り返って見つめる天使さんのまつ毛のなんと長いことか!

 流し目が艶やかで、心を奪われる。息を呑む。


 彼女はそのまま、こちらに眼を向ける。転んでいった方の俺では無く、俯瞰している方の俺にだ。正直視線に貫かれて、心臓が止まるかと思った。


「ここのことがわかってきたようですね。もうそんなにハッキリと俯瞰出来るんですか。適応力はあるんですね」


 褒められたのかな?


 天使さんは前に向き直り、眼を瞑って大きく息を吸い込み、そしてゆっっっっくりと吐き出す。

「すぅ…………」


 その一挙手一投足が俺には美しくて、眩いくらいに輝いて見えるが。


 ふと、天使さんはそうではないんだよなという事実に、今更向き合う。


 一方的に好意を伝えても、迷惑なことが多々ある事は知っていた。

 だけれども。

 積極的に当たっていくことで、実る恋もあって、俺はその手法に味を占めていたのかもしれない。

 当たり前で、大事なことは、彼女をちゃんとみて、ちゃんと人として付き合うことなんじゃないか。

 今再び、そんな事を逡巡しながら、ゆっくりと息を吐く彼女を見つめていた。

 彼女が人ならざる者であろうが関係なく、一人の存在として、しかと向き合うと言うことだ。

 それは恋がどうこうとか、好意がどうこうじゃなくて、礼儀として、そしてお互いの関係として、必要なことに思えた。

 ずっと前から知っていたことだった筈なのに、すぐに失念してしまう俺はバカだな、と、少しまた、恥ずかしくなった。


「セレィシェ」


 透き通る声が、そう言った。

 声の主を見遣ると、再び振り返っていて、遥か遠くで伸びている俺を見つめているらしかった。


「セレィシェと。呼ばれる事もあります」


 そう言って今度はこちらを見つめ直す。


「セレェシェとか、セレェシャとか。日本語で正確に言うのは、難しいのですが」


「セレィシェ」


 俺も口に出してみる。

 なんだろう、彼女にぴったりの、名前に思えた。現世の者ではなく、透き通った彼女にぴったりの。


 でも何故突然教えてくれる気になったのだろうか?


「だって、あんまり天使さん天使さんうるさいので」


 聞いてるこっちが恥ずかしいんですよとセレィシェは言う。

 その姿にこっちはますます恋してしまった訳だけれども、これは言わないでおこう。どうせ心の声として、聞こえちゃってるだろうけど。


「改めてよろしくね、セレィシェ。俺の名は」

「言わないでください。言ってはいけません。絶対に」


 突然、今まで見せたことのない剣幕でセレィシェは俺を制止した。


「? なんで?」

「なんでもです。説明できませんが、それを言ってはいけないのです」

「? わからん」

「私の名前を教えたお返しは、あなたの名前ではなく、あなたの名前をあなたが口に出さない、という約束です。今ここでしてください」

「ええ、なんなんそれ」

「いいから」


 セレィシェのあまりの剣幕に気圧される


「わかった、わかったよ」

「それじゃあ私に許可してください。名前を言わない様に出来る事を」

「う、うん? うーーーん? え?」

「いいから早く」

「ちょっとそれはどういう」


 セレィシェは目にも止まらぬ速さで俺の懐に潜ると、俺の服の襟を掴んで顔を引き寄せた。


「私とずっと一緒に居たいんでしょう? だったら、早く」


 ごくり。

 と、自分が生唾を飲む音を聞いた。

 俺は熱にうなされている様な心持ちで、セレィシェの口からそんな言葉が出たことが嬉しくて、思わず


「許可する。俺の名前を俺が言わない様にすることを」


 まるで魔法にかけられたかのように、そんな不思議な言葉を口遊んだ。


 セレィシェの俺の見る目が、瞳の輝きが、増してゆく。

 焔の様にそれは妖しく揺らめいて、頭にはぐわんぐわんと鐘でも打っているかのように振動と音が響く。

 セレィシェと俺は閃光に隔てられ、俺の襟を力強く掴んでいた細い手も解かれる。

 俺は全力でセレィシェの声を呼んでいる筈なのに、あらゆる音はその役割を放棄し、何も聞こえない。

 先ほどの鐘のような音も既になく、ただ無音の中で、激しい旋風と振動。

 手も伸ばしてセレィシェを探したが、ただ空を掴むばかりで、彼女は周りのどこにもいない様に思えた。


 何か騙されたのだろうか!?

 言ってはいけない事を言ってしまったか?

 それは許可してはいけなかったのではないか。

 そんな思いが次から次へと湧いてくるが、俺はその全てを即座に否定していく。


 セレィシェを信じたかった。


 出会ってからさしたる間も経っていないけれど、俺はあのセレィシェの真剣な眼差しを信じたかった。


 俺の周囲を飛び交っていた閃光が、渦を巻きながら俺に収束していく。

 何かが変わってしまうのだろう予感を覚えながら、俺はただ、セレィシェの無事を祈っていた。

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