mimosaに寄せて綴る

mimosa 浜崎あゆみ


「ひとつだけ昔の自分にかけてあげられるとしたならどんな言葉にしますか?」

そんな質問よくあるよね


お決まりの台詞に聴こえるかも知れないけど

「努力は報われるから大丈夫だよ」って

きっとあの涙の苦さを忘れずにいるから


大人になったからって全てがうまく

いく訳じゃないと知れた

から歩いてるんだろう

傷は時間と共に癒えるんじゃなくて

笑顔をどれだけ上書き

出来るかじゃないかな

その為に今日も諦めずに

生きてんじゃないかな


最後から数えることなんて大袈裟すぎるし

実感が湧かないしってあっけからんと

言っていた日々は遠くなってシュールさに

ぎゅっとなる


人を心の底から信じるだなんて

何かに本気で人生賭けるだなんて

今の時代にまるで合ってないことはさぁ

わかってんだけどそれでもねぇ

やっていくんだよ

だって此処が君の居る世界なんだから


知らない人ほど言う

「大変ですね」って「わかりますよ」って

言葉が虚無感の輪になって割れた


大人になったからって全てがうまく

いく訳じゃないと知れた

から歩いて歩いてるんだろう

傷は時間と共に癒えるんじゃなくて

笑顔をどれだけ上書き

出来るかじゃないかな

その為に今日も諦めずに

生きてんじゃないかな


人を心の底から信じるだなんて

何かに本気で人生賭けるだなんて

今の時代にまるで合ってないことはさぁ

わかってんだけどそれでもねぇ

やっていくんだよ

だって此処が君のいる世界なんだから


↑上は全部、浜崎あゆみさんの歌、mimosaから引用させていただいております。


続々最後から二番目の恋 を見ていて、そのオープニングが耳に残り、誰が歌っているのだろうと思って調べたら、浜崎あゆみさんでした。


あら?


と思った。


赤裸々に申し上げますと、あんまり好きな方ではないのです。

個人が嫌いというのではなくて、とってもわかりやすくいうと、ま、あゆちゃんはギャルなわけで、私は隠れ乙女。


学校のクラスで行くと、あゆちゃんはギャルなわけで、私は表向きは優等生で、で、こう、頭の硬いスカートの長い人でゲス。こう、クラスのはじとはじにいて、用がなければ口きかない、みたいな?


つまり、嫌いというよりはタイプが違いすぎるから敬遠したくなるやつだ。


ま、でもそんな私も歳をとって丸くなったのだろう。そして歌詞からみるにあゆちゃんも歳をとって色々経験して丸くなったのかもしれない。


アップルの聴き放題をしてて、世界中の音楽を適当に聴き流しているワタクシですが、姪っ子に


「ちゃんと歌詞を読んで、何を歌っているのか聴きなさい」

「あい」


怒られて、それもあったので、粛々と全文をトレースして打ち込みました。

ちなみに自分は言葉遣いの好き嫌いがはっきりしている人間なので、現代の日本の歌の歌詞を見ていると好きだと思えないことは多いです。

あゆちゃんの歌詞は、やはりギャルと文学少女の言葉遣いが重なるわけじゃなく、かつての歌を真面目に聴いたわけじゃないが、ぐっとこさせられたことはあまりない。


その私が これ誰の歌なんだろう? と調べたくなった部分の歌詞は此処です。


大人になったからって全てがうまくいく訳じゃない


ちなみにこの好きな部分について語る前に嫌いな言葉遣いをあげておく


最後から数えることなんて大袈裟すぎるし

実感が湧かないしってあっけからんと

言っていた日々は遠くなってシュールさに

ぎゅっとなる


この最後の ぎゅっとなる というのが大嫌い。

語彙の少ない現代の若者が好んで使う言葉遣いかも知れない。


知らない人ほど言う

「大変ですね」って「わかりますよ」って

言葉が虚無感の輪になって割れた


この虚無感の輪になって割れた の部分も嫌い。

結局は自分の嫌いなポイントははっきりしていて、日本語を正しく使っていない部分に端を発しているのである。ちなみにもうちょっというと、日本語を崩している表現は実は好きです。ただ、正しい使い方を熟知している人がわざと崩して使っているなら言葉遊びなのだけど、ぶっちゃけ、これは、言葉をよく知らないからこうなった歌詞だなと思い、嫌い。


ただね、私はスカートの長い優等生で、お硬いわけ。私に好かれる必要はあゆちゃんにはないわけです。同じような言葉遣いで現代を生きている人たちには、刺さるのだからこれでいいのです。


しかし、そんな頭の硬い女、自称文学少女が、ここはいいと思った。


大人になったからって全てがうまくいくわけじゃない


この言葉だけでなく、音と共に流れる部分が良い。

ちなみにいうと、まだ背景がある。それは、最後から二番目の恋というドラマ自体です。小泉今日子さん演じる吉野さんの心の中を表すのにしっくりくる歌詞なんですよ。


テレビ局でドラマ制作という華やかな現場にいて、あと数年で定年を迎える独身女性。手放しで 全部楽しい! と言い切れないこの時に、それでも生きてゆくってのにしみじみするドラマです。


仕事はした。でも、その仕事ももっとできたんじゃないか、もっと認められてもよかったんじゃないか、みたいなモヤモヤがあり、そして、結婚はせず、子供は産まなかった。


わたしの人生、これでよかったんだろうか。


時折、入り込んでくるそういうノイズを、


いや、これでよかったんだよ!


と元気に跳ね飛ばしたい。それが、小泉今日子さんが演じるのが良い。


前に、中山美穂って誰ですか?と一回り下の男の子に聞かれたことがあるのです。私たち世代にとって、中山美穂、中森明菜、工藤静香、そして、小泉今日子さん、みんな知らない人などいない女性たちですが、知らないのか?


あっけに取られた後に、ふんわりとこういう気持ちになった。

私世代の有名な女性を知らないと言われると、自分も一緒に古いと言われたような気がした。


そして、この最後から二番目の恋で、小泉今日子さんや主題歌を歌う浜崎あゆみさんは、いわゆる、かつて一世を風靡した過去の人たち。過去の栄光を背に今を生きる人たち。


他のドラマに出ている今現在若者に人気のある人たちと並行して流されるこのドラマを喜んで見ている世代もまた、若者から見たら過去の人たち。そういう一部だけで盛り上がる感じ。


だからこそ、この主題歌はあゆちゃんでよかったなぁと思う。


バブル世代の価値観や良かった日本を知っている大人が感じる現代日本への疎外感。そんなものがこの一言に詰まっている。


大人になったからって全てがうまくいくわけじゃない


どこぞの方がどこぞの投稿で、全然別に有名ではない人ね、最後から二番目の恋をバブルを経験した人たちのみの内輪受けのドラマだと切っておりました。それは確かにそうだと思う。でもね、それでいいんだと思う。


みんなが声を揃えていいと言わなければ、言われなければ、どこか否定されたような邪魔にされたような気持ちで生きていくなんて、そんな必要ないんだと思う。つまりは、若い子に支持される必要なんてない。ただ、共存できれば良い。


ドラマの中で吉野さんは、仕事をやり切った気がしないまま定年を迎えようとしていて、それで、彼女の周りの人たちはみんな彼女が大好きで、つまりは、彼女は裸の王様のような状態なわけです。誰も、本当のことを言ってくれない。


あなたはまだまだやれる。あなたほどのセンスがある人はいない。


心に届くような称賛を求めていたわけで、


とある日、偶然久しぶりに会った人は、かつて出版の友達に引き合わせてもらった女性で、彼女は会社を定年した後に自分で制作会社を立ち上げたという。


「あなたみたいな人が参加してくれたら嬉しい」


彼女が欲しかった言葉をくれた人だった。別の日の女子会で、その人に会えて、その独立した彼女が定年後も輝いていて、そして、自分を評価してくれて嬉しかった。久々に晴れやかな顔でそういった。


まさにバブリーが再度沸き起こったような話です。


ところが、


「彼女に何も渡してないよね?契約書にサインとか」

「え?」


真っ青になった友達の語るところによると、彼女は確かに定年後に制作会社を設立した。でも、そんな簡単にうまくいくようなものではないじゃないですか。今は借金まみれで、それで、知人に投資を持ち掛けてはその出資金を巻き上げるという、いわば、投資詐欺のような状態になっていて、そして、吉野さんに会ったのも偶然ではない。騙されそうな人のリストに入っていて、そこにその日いるのを知っていて待ち伏せしていたのだという。


「わたし、そういう人に見えたってこと?」


多くを語らぬ吉野さんでしたが、語られなくても感じる彼女の心。

仕事は頑張ってしてきたけど、本当にやり切ったのかいまいち納得できず、結婚もしなかったし、子供も産まなかった。

人参を目の前にちらつかせれば、それに飛びつくという、そういう心に隙間のある人間だと自分が見えたということだ。


傷ついて、深酒をして、ふらふらと帰るその帰り道、猫がいて、そして、その猫を拾う。抱きしめながら帰る。


過去一斉を風靡し、今も華やかな側面を見せ続け、周りにいる人たちは彼女を裸の王様のように扱う、だけど、自分は過去の人間だという考えが追い払えない。そんな彼女の別の寂しい側面が前に出てくる場面だと思ったんですよね。酔っ払って猫を拾って帰るあの場面に。


小泉今日子さんが本当に私が言っているような、自分は過去の人間だという考えを持っているかどうかは別の話です。ただ、このドラマには本当に豪華ないわばかつてバンバン前面に出てきていた過去の人たちが出演してます。今の若者なら「この人誰?」というような人が。


それが所謂キャスティングだと思うんですね。視聴者はそういう過去を一世風靡した人たちの現在の姿に、自分を重ねて色々なことを感じるわけだから。


猫を拾って帰る吉野さんが圧巻でした。そんな背景があって、あゆちゃんの 大人になったからといって全てがうまくいくわけじゃないという歌詞。


しみる……

おでんのように心に沁みる。


どうしてみんなこう、若者に気を遣って生きているのかなぁ。

若者とは共存できれば良い。

別に共感できなくても良い。

共感できてもできなくても良い。

そこがやっぱり他人軸なんだと思う。

自分軸でゆけば、いつだって自分が世界の中心なのだから、それでいいじゃないか。


仕事をしていても、もう自分は古いような気がするし、

結婚もしなかった。子供も産まなかった。

やっと認められたと思ったのに、

認められたのは自分じゃなくて、口座残高のほうだったか。


私は逆立ちしても芸能人になるような人じゃないし、小泉今日子さんとか、あゆちゃんとは違うタイプの人間だと思うんです。人からどう見られるかというのを気にしているようで、気にしていない。容姿を含めた自分というものを売り物にしているわけではなく、どちらかといえば開き直り、また、見た目より中身を大事に生きていきたい人だから。


ただ、その反面、やはりせっかく自分も年を重ねてきたのだから、年をとっても人から見える自分をポジティブなままに生きたくて、うまくいかなくて、悩む人の心には寄り添いたいと思いました。


まとまりのないまま、思うままに

野中木葉

2025.5.31

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