王耳驢馬耳日記
野中木葉
2025年3月30日
本日は試し書きです。
金曜日まで暑かったのに突然気温が下がり、花冷えのする土曜日でした。今日も寒くて目が覚めた。足が冷たいです。カクヨムには4月の土曜日から書こうと思っていたけれど、本当に書けるのかしら?と不思議な疑問が湧いて、アカウントだけは作っていたこちらに入り込んでみた。
勝手がよくわからない。デジタルは昔から得意ではない。昨今はデジタルの進化がはやすぎる。
ポチッとな。
そういえば最近、仕事でdeep seekを使い始めた。これは中国版chat GPTのようなものだ。便利だった。現在、翻訳も自動翻訳でできるし、仕事関係の検索もAIでできる。1秒で終わるのがすごい。
そして、小説もAIに書かせて発表している人をnoteで見かけるが、正直あれは微妙である。他人の自由であるので別に表立って文句は言わないが、私は、面白いと思うものしか読まないので、AIで書かせた文書は10個あれば、9個はスルーして、いいねだけ押して終わってる。
小説を書くのにAIを使うなら、資料集めに使ったり、プロットを考えるときの助手にしてもいいとは思う。しかし、資料をもとに最後に文を綴るのは人間でありたい。なぜなら、言葉は音と想念のつながりである。文章にはリズムがあり、集約していく波紋のようなものがあり、それが人間ごとに少しずつ違う。名文を味わうというのは、その人間のその波紋に耳を傾けるようなものである。
タトゥーのようなその人間ごとの文の連なりがあるのである。
小説は文でもって読む人に体験をさせるものなのだ。言葉で引き込むためには、言葉を使いその音を日々感じ、生きている人にやってもらいたい。つまりは、この最終工程は非常に大事なものでかつ難しいところなのだ。
昨今、本を読まない人が増え、古今東西には名文名作があるが触れていないがためにその貴重さを知らない人が増えたのだろうか。確かに読みにくい作品が跋扈している日常で、人間が書いた読みにくい文章を読むくらいなら、AIが書いたものを読んだ方がマシなのかもしれないが、しかし、それだとますます美文を書く人が減ってしまうではないか。
文とは事実を伝えるだけではなく音として脳に響き、そして、心を震わすものなのである。それは本当にAIに書けるのか?あるいは小説を書きたいというのなら、言葉を綴るのが好きなはずで、それはめんどくさくないはずである。
どうしてそこをAIに頼るのか?
王様の耳は驢馬である。
ナイショの話をここに。
試し書きのつもりがつらつらと書きました。
野中木葉
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