異常性癖の「噛み合わない事件」
森本 晃次
第1話 古き良き時代に思う
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年4月時点のものです。お話の中には、事実に基づいた事件について書いていることもあれば、政治的意見も述べていますが、どちらも、「皆さんの代弁」というつもりで書いております。
時代が進んでも、昔から言われる、
「閑静な住宅街」
と呼ばれるところは、夜になれば、しっかりと夜のとばりが降りで、犬の遠吠えが聞こえてくるような気がする。
小高い丘になったようなところに建っている新興住宅というのは、昭和の頃からあったが、山を切り開いての街というのは、結構大変なことであっただろう。
山を切り開くというのも、そんなに楽なことではない。元々何もない、
「森林である山を、いかに住宅地に作り替えるのか?」
ということを考えただけで、それが、
「途方もない計画だ」
ということは、その建設に携わった人でなければ分からないだろう。
もっといえば、
「事務所でただ、資金繰りに奔走している人などは、その忙しさは仕方がないといえるであろうが、現場に一度も足を踏み入れることはない」
ということを考えれば、
「どうしても、現場第一の人間が、すべてを作っている」
と思えて、逆に、
「裏方として、表に出てこない」
という人は、ある意味、損をしているといっても、無理もないことであろう。
山を切り開く場合は、何も、
「新興住宅地を作る」
という場合だけではない、
もちろん、住宅地を作るというのは、人口増加にともなって、仕方のないことであったが、それ以上に重要だったのは、
「道路の整備であったり、拡張という、
「インフラの整備」
というものであった。
特に、オリンピック前後には、
「高速道路で、主要都市を結ぶ」
ということが至上命令とでもいうような時代だったので、高速道路の建設や、鉄道網の拡張ということでは、国交省も大変だったことだろう。
ただ、
「インフラの整備」
であったり、
「住宅地に対しての土地の買収」
というのは、政治家にとっては、一種のドル箱だったという時代があった。
「うまくやれば金が儲かり、しかも、地域住民の得票が得られる」
という、一石二鳥を狙った人もかなりいただろう。
実際に、
「選挙公約」
というものに、
「土地の有効利用」
「地元に、高速道路を通す」
などと言った、
「地元の人が、儲かり、さらに、仕事である産業が発展する」
ということで、失業問題を解決するというようなものを掲げれば、それだけで、固定票がかなり集まるというものであった。
特に、高度成長期という時代になると、
「地元に力を」
ということで、首相に就任した人が、その力をいかんなく発揮し、
「地元はもちろん、日本の過疎地と呼ばれていたところを、活性化させた」
ということで、
「地元が活性化しないと、中央との差が激しければ激しいほど、摩擦が起きる」
といっていたが、まさにその通りだったのだ。
特に、昭和40年代後半から、50年代にかけての発展は目覚ましかった。
「一家に一台」
と、電化製品が普及し始め、
「国としての事業」
ということで、
「ほとんどの道路の舗装」
あるいは、
「水洗便所というものの普及」
などと、
「生活水準の格差をなくす」
ということと、
「生活最低水準の底上げ」
というものが叶うことで、社会生活が充実していき、
「国家が、先進国へと歩んでいく」
ということになるのだ。
戦後の30年の間に、ここまで発展したというのは、
「奇跡」
とも言われたが、それだけに、昭和の末期、平成初期に、
「バブルの崩壊」
というものに見舞われ、
「それがいまだに尾を引いている」
ということで、
「失われた30年」
と言われた今の時代を考えると、
「時代が悪いのか、それとも政府が悪いのか?」
と言われても仕方がないだろう。
それが、日本の悪いところでもあり、ひいき目に見れば、
「いい面だ」
といってもいいのかも知れない。
そんな、
「インフラ整備」
であったり、
「公共事業の拡張」
などという時代から、ちょうど、半世紀が経とうとしている。
このくらいの時代になると、何が問題になるのかというと、
「老朽化」
という問題なのではないだろうか?
ニュースなどを見ていると、
「老朽化した建物や、施設が崩壊する」
などということが言われていたりする。
もちろん、
「形あるものは、必ず滅びる」
という、
「諸行無常」
であったり、
「盛者必衰」
と言われるような、
「平家物語の冒頭の文章」
のような発想が出てくるというものであった。
鉄道などでも、毎日のように、いろいろなところで。
「車両点検で引っかかった」
というような、整備不良があることで、電車がいつも遅れが出ているということになっている。
それこそ、
「同じ時期に大量に作ったものが、同じ設計で作られたのだから、同じ時期に寿命を迎えるのは当たり前」
ということである。
だから、
「鉄道会社たるもの、車両の寿命についてくらいは当たり前のように意識しなければいけない」
ということになるのに、それを怠っていて、しかも、
「同じ時期に寿命を迎える」
ということがどれほど大変なことなのかということを、まったく意識していないということになるのだろう。
特に鉄道会社というのは、毎日のように、いろいろある。
「車両点検による不備が見つかる」
ということ。
「人身事故」
「踏切内への侵入」
一歩下がって、仕方がないこととしてでいえば、
「急病人救護」
などがそうであろう。
これを鉄道会社が、
「すべて仕方がないこと」
などと考えているとすれば、それはとんでもないことである。
まず、
「人身事故」
というものであるが、これは、そもそも、ほとんどが自殺だと言われている。
鉄道への飛び込み自殺というのは、自殺というものの中でも、
「一番割が合わない」
といってもいいだろう。
というのは、
「残された人間が、損をするから」
ということになるのだ。
それは、
「電車を止めた」
ということで、事後、鉄道会社から、相当金額の賠償金が課せられるからである。
その金額は、数百万とも、数千万ともいわれていて、しかも、自殺者が死んだ場合には、「その家族にその累が及ぶ」
ということになるのだ。
それは、実際には理不尽であり、それこそ、やり口は、
「やくざ顔負け」
という状態で、
「泣いてもわめいても許してはくれない」
というのが、国家だということであった。
それを分かっていて、電車に飛び込むというのだから、確かに、
「死を覚悟すれば、あとのことはどうでもいい」
と考えるのかも知れないが、だとしても、電車に飛び込むというところまで覚悟を決めなければいけないというのは、そもそも、
「国家に責任はないのか?」
ということである。
「国家や社会が自殺という形で、本人を追い込んでいるのに、その罪は問われることなく、残されて、途方に暮れている家族に追い打ちをかける」
というのだから、これほどの悪党はいないということになるだろう。
確かに、電車が止まって被害を受けた利用者からすればたまったものではない。しかし、この賠償金というものも、実は、被害があった一般の利用客に還元されるということは一切なく。それこそ、
「鉄道会社の丸儲け」
ということになるのだろう。
それも、
「もし、鉄道会社が、事故保険のようなものに入っていれば」
ということであるが、事故保険のようなものが存在しているのであれば、入っていて当然だろうから、それこそ、昔にあった。
「交通事故で入院すれば、入院が長引けば長引くほど、入院患者が儲かる」
という仕組みと似たようなものではないだろうか?
そもそも、
「電車を止めた」
ということで賠償金をもらったとしても、被害額から考えれば、数百万くらいで足りるというのだろうか?
それを考えると、理不尽に感じることも少なくはないといってもいいだろう。
だから、
「賠償金というものをせしめることに何の意味があるのか?」
といえるのではないだろうか?
となれば、
「賠償金の意味」
ということで考えた時、
「事故への抑止力になるのではないか?」
ということになると考えた場合、本当にそうであろうか?
「これだけ毎日のように、どこかで人身事故が多発しているのだから、これで抑止が働いているなどというのであれば、へそでお茶を沸かすとでもいうようなものだ」
といえるだろう。
それだけ、人身事故というものが、曖昧なもので、一番の被害者であるはずの、乗客には還元されず、抑止が利くわけでもなく、ただ、
「見せしめ」
であるかのごとく、
「賠償金という悪しき伝統のようなものが残っているということに対して、どうして、誰も意義を申し立てることをしないのか?」
ということである。
「まあ、そうなっているんだから、仕方がない」
という、
「まるですべてが他人事」
として片付けられるということになるのだろう。
確かに。
「他人事」
というのは、日本人の悪しき伝統だといってもいいだろう。
特に、世の中に、物資が溢れてくると、
「他人事」
ということに反比例してくるかのように感じさせる。
「マンションで隣に誰が住んでいるか?」
などということをまったく感じない状態になったのは、いつからなのだろうか?
昔であれば、引っ越してくれば、手土産をもって、せめてお隣さんくらいにはあいさつにいくというのが普通であり、さらに以前は、
「引っ越しそば」
といって、そばを振舞うという時代もあったではないか。
今では、そんな
「引っ越しそば」
などといっても、
「誰も知らない」
という時代になってきたといってもいいだろう。
それだけ、近所づきあいが希薄になってきたといってもいいだろう。
考えてみれば、
「バブル経済が崩壊してからというもの、奥さんも働かなくてはいけなくなった」
ということで、
「昼間は留守宅」
というところが増えただろう。
奥さんは、パート先などで、コミュニケーションを図ることは多くはなったが、家出の家庭としての、近所づきあいということでは、皆無ということも少なく無いだろう。
だから、隣に誰が住んでいるのかが分からないだけではなく、
「住んでいるのか、空き家なのか?」
すら分からないということも普通にあるだろう。
特に、今の時代は、
「眠らない街」
という時代になってきていて、
「仕事はシフト制」
ということで、
「昼間の通常勤務の人には、隣の人の生活臭がしてこない」
という場合も多い。
夜に出勤していき、朝の出勤時間に帰ってくるのだから、それも仕方がないといえるだろう。
特に独身の一人暮らしであれば、その傾向が強く、しばらくは、
「隣は空き家なんだ」
と思い込んでいる人も一定数はいるだろう。
それを考えると、
「マンションに住んでいるといっても、完全に皆他人事なんだ」
ということを思い知らされる時代をとっくに通り越し、
「これが当たり前なんだ」
という時代になってきた。
それを、
「昔が、近所づきあいがあった」
ということで、昔がよかったとして、近所づきあいというものを押し付けようとするのは、
「今の時代にそぐわない」
ということになるのであろう。
また、
「列車遅延の問題」
ということで、
「踏切内侵入」
というものがある。
これは、いわゆる、
「私鉄」
というものよりも、昔は、
「国鉄」
と言われていた会社に多い。
こちらは、
「機械的な問題」
ということで、考えられる。
「私鉄の場合は、遮断機が下りる時のタイミングとしては、列車が入ってくる時間から、一定時間さかのぼる」
ということで決められている。
しかし、旧国鉄の場合というのは、
「踏み切りと、近づいてきている電車との距離で遮断機を下す」
ということになるのだ。
ということはどういうことなのかといえば、踏切のすぐ横に駅があったとすれば、時間で判断する私鉄であれば、
「例えば、停車時間が一分の駅であれば、踏切が降り始めるのが、電車が通過する予定の一分前と考えた時、電車が駅に到着してから、やっと踏切が降りてくる」
という計算になる。
しかし、旧国鉄という踏切の仕掛けは、
「距離で行う」
ということなので、隣に駅があれば、駅に停車する電車は、駅からまだまだ遠いところで、遮断機が下り始めるということになる。
ということは、
「駅に停車時間が一分、そして電車が減速し、駅に到着するまでに、一分以上がかかるとすれば、合計で二分ちょっとという遮断機が下りている時間」
ということになる。
そうなれば、
「旧国鉄は私鉄の倍以上、遮断機を下ろしていることになる」
ということになり、複線以上であれば、反対側からも列車が通過するということになるので、時間によっては、平気で、
「開かずの踏切」
というのが出来上がるというものだ。
下手をすれば、朝のラッシュの時間などでは、
「二十分ちかく、遮断機があがらない」
などということが平気で起こったりするというのである。
これであれば、
「安全確認さえすれば」
ということで、踏切を乗り越えるという人も少なくはないだろう。
だから、センサーに引っかかって、
「踏切内侵入」
ということで、誰もいないのに、列車が止まるということになるのである。
また、これが人ではなく、車だったら、もっと大変なことになる。
というのは、
「踏切が閉まりそうな状態で、このままダラダラしていると、また二十分待たないといけない」
ということで、ここまでくるにも数十分かかっているとすれば、
「少しでも無理して先に進もう」
と考えるだろう。
しかし、実際にその状態で、先に進もうとして、前の車がまだ踏切を出ていない場合、「前に行けないどころか、下手をすれば、後ろからも車が来ていて、にっちもさっちもいかない」
ということになるだろう。
そうなってしまうと、
「電車を止めるしかない」
ということになる。
止めなければ、電車が車に突っ込んで、大惨事ということになるだろう。
けが人はおろか、死人が出てしまうと、
「運転手の人生が終わった」
ということになるかも知れない。
このような事故は、実際に結構あるというもので、それを分かっていながら、
「旧国鉄は、検証もしていない」
ということであろうか?
素人が単純に考えただけでも、
「原因から導かれる結果というもの」
が分かるということなので、
「これを、鉄道会社は仕方がないということで片付けていいものだろうか?」
ということになるのだ。
今では、高架になったり、電車が高架橋のような形になったりで、踏切も減ってきた。
しかも、鉄道法で。
「新しい踏切を作るということが許されない」
ということになっているので、踏切というのは、減って行くばかりだといってもいいだろう。
確かに、踏切というのは、
「煩わしいだけしか感じない」
という人も多いだろうし、人によっては、それまで生きてきた人生の中で、かなりつらいことがあったと思っている人は、
「踏切の音を聞いただけで、勝手に身体が、線路の方に向かっていく」
というような衝動に駆られるという、トラウマを感じている人もいるかも知れない。
それくらい、
「遮断機の音」
であったり、
「踏切の照明」
というのは、
「人間に、トラウマとして、衝動的行動を残すものだ」
といえるのではないだろうか?
ただ、中には、
「踏切の音が、時代を作ってきた」
と感じる人もいたりして、
「なくなっていくのは、寂しい」
と感じる人もいるだろう。
それだけ、世の中にはいろいろな考え方や事情というものがあり、
「人のかずだけ、事情や考え方がある」
といっても過言ではないだろう。
昭和のドラマなどを、ケーブルテレビなどで見ると、
「電車の線路のそばの二階建てのアパートに住んでいるような人が多かった」
というイメージがある。
当然、家賃も安かっただろうし、若い人が所帯を持つ前であったり、新婚夫婦が借りるアパートとして、今からは考えられないような、
「四畳半一間」
という、いわゆる、
「1DKのアパート」
を想像してしまう。
部屋にはトイレも風呂もない。トイレは、共同トイレであったり、風呂というと、
「銭湯に通う」
というものであろう。
今では、
「銭湯といえば、スーパー銭湯」
というものしか想像ができない人が多い。
「脱衣所の入り口は男女それぞれあり、中に入ると、目の前に、男湯、女湯それぞれの受付として、
「番台」
というものがあり、風呂屋の亭主か、女将さんが座っているのが定番だった。
昭和名物として、ビン牛乳や、コーヒー牛乳を飲むというのが、これも定番である。腰に手を当てて飲むそのスタイルは、いかにも、
「昭和の銭湯」
というものだった。
中に入れば、大きな浴槽のその向こうに、
「富士山の絵」
が描かれているのも、当たり前ということで、
「銭湯と藤さんとでは、切っても切り離せない関係だ」
といってもいいだろう。
そして、銭湯というと忘れてはいけないのが、表から見た時の、銭湯の建物の後ろにそびえる、
「大きな煙突」
というものであった。
煙突は、煙をモクモクと挙げているが、もし、今どこかにいきなり銭湯が出現すれば、意識してその煙を見るだろうが、当時は当たり前のことだったので、いちいち空に向かって伸びる煙を意識する人は少なかったことだろう。
「洗面器にタオルと石鹸などを入れて、通う銭湯」
いかにも、
「昭和におけるフォークソングの時代」
ということの代表的なシーンだったのではないだろうか?
そんな時代は、今と違って、駅前というのが、結構にぎわっていたりしたものだ。
これも、
「駅の老朽化」
ということで、平成以降に結構立て直したりしたところも多い。
特に、
「新幹線の駅ができる」
ということで、立て直しに伴っての、立ち退きなども増えてきたことで、
「駅前は、昔のような賑わいはまったくなくなってきた」
といってもいいだろう。
特に、
「最近の駅前では、赤ちょうちんと言われる、
「焼き鳥屋」
「居酒屋」
さらには、
「炉端焼き屋」
などという言葉はまったく聞かなくなったといってもいいだろう。
「炉端焼き」
という言葉を聴いて、
「なんだそれ?」
という人も少なくはない。
中年以上の人くらいでないと、ピンとこないことだろう。
時代が進むと、
「便利になってきている」
ということはいえるのだろうが、それよりも、
「古き良き文化が失われる」
と思っている人も多いだろう。
駅前が閑散としてくるというのも時代の流れというもので、これは、
「駅前」
というものに限ったことではない。
時代が進めば、次第に駅前というものが、発達してくるのと裏腹に、
「いいものが失われる」
ということを誰も意識しないというものか。
これは、今に始まったことではなく、昭和時代にも大きな問題であった。
実際には、その時代の思い出などという生易しいものではなく、
「実際に住んでいるところを追われる」
という事態に追い込まれるということだってあったのだ。
こちらも、
「インフラ整備」
というものが問題となってきたわけで、特に、
「ダム建設」
などというのはひどいもので、
「過疎化した村が、ダムの底に沈んでしまう」
ということが平気で行われていた。
そこには、ゼネコンと政府の癒着というものが、あったとかなかったとか。
今となっては分からない。
もちろん、表に出て問題になったことも少なくはないだろうが、それこそ、
「氷山の一角」
ということで、どうしようもない状態となったといってもいいだろう。
「時代は繰り返す」
というが、それは、
「ブームや流行」
というだけではなく、限界のあることの限界に達すれば、
「一度壊さなければいけない」
という事態になってくるのではないだろうか?
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