戦場で煙草を吸うとき、俺もまだ人間だった

わんし

戦場で煙草を吸うとき、俺もまだ人間だった

 夜明け前の塹壕。空はまだ深い闇に包まれている。湿った土の匂いと、乾いた血の臭いが混ざり合い、鼻をつく。泥にまみれた軍靴が、動くたびにぬかるみに沈む音を立てる。冷たい風が吹き抜け、疲れた兵士たちの肩を撫でていった。


 名も無き兵士は、塹壕の壁にもたれかかりながら、ポケットの中をまさぐった。指先が細長い感触を捉える。それは、彼にとって唯一の楽しみであり、戦場の中でわずかに残された安らぎの証だった。


 取り出した煙草は少し湿っている。戦場の湿気が容赦なく紙巻きの中に染み込んでいた。彼は軽くため息をつき、もう片方の手でライターを取り出す。親指で金属を擦る。


「カチッ、カチッ」


 なかなか火がつかない。


 兵士は顔をしかめ、ライターを何度も擦った。数回目の試みでようやく小さな炎が揺らめいた。彼は素早く煙草の先を炎にかざし、ゆっくりと吸い込んだ。紙が焼ける音が小さく響く。口の中に広がる煙の苦味と、僅かな甘み。


 深く吸い込んだ煙が、肺の奥まで染み渡る。しばらくして、彼は静かに息を吐いた。白い煙がゆらゆらと宙に舞い、闇の中へ溶けていく。


──銃声はない。


 だが、戦争が終わったわけではない。遠くではまだ誰かの声が聞こえる。怒号とも、悲鳴ともつかぬ声が、夜の冷気にかき消されながら響いている。兵士はそれを聞き流した。もはや何の感情も湧かない。


 彼の肩には軍服があり、手には銃がある。それが彼を「兵士」として形作っている。だが、それ以上の意味はない。自分が何のためにここにいるのかも分からない。ただ命令に従い、戦い、生き延びる。それだけの存在だった。


 煙草の火が赤く灯る。兵士はもう一度、ゆっくりと煙を吸い込んだ。


「おい、一本くれ」


 声をかけてきたのは、塹壕の隅にうずくまっていた同僚の兵士だった。顔には泥がこびりつき、目の下には深い隈ができている。戦争が始まる前の彼がどんな表情をしていたのか、兵士はもう思い出せなかった。


「……最後の一本かもしれないぞ」


「だったら、なおさら吸いたい」


 兵士は苦笑しながら、ポケットの中の煙草を取り出した。残りは三本。彼は一本を抜き、相手に投げてやる。男は受け取ると、震える手でライターを擦った。


「……戦争が終わったら、何をする?」


 ライターの小さな炎に照らされた顔が、かすかに微笑んだ。


「そんなもの、考えたこともないな」


 兵士は答えながら、もう一度煙を吸った。煙草の先が赤く光る。


「だろうな」


 男は小さく笑い、ゆっくりと煙を吐き出した。夜の闇に紛れるように、白い煙が消えていく。


──戦争が終わったら、何をする?


 その問いは、あまりに遠く感じられた。生き延びることすら約束されていないこの場所で、未来を考えるのは贅沢すぎる行為だった。


 それでも、煙草の火が灯る間だけは、彼らはまだ人間だった。


 煙草の先から灰がぽろりと落ちる。兵士はそれを見つめながら、ふと考えた。


──あと何本、吸えるだろうか。


 ポケットの中を探ると、残りは二本。昨日は三本だった。明日はどうなるだろうか。一日で一本ずつ減っていく計算になる。つまり、この戦争が終わる前に、煙草は尽きる。


 彼は皮肉げに笑った。戦争が終わるのが先か、煙草がなくなるのが先か。どちらにせよ、楽しい結末ではない。


「……煙草、一本くれ」


 隣に座っていた同僚の兵士が、手を伸ばしてきた。兵士は少し迷ったが、ポケットの中の一本を取り出して相手に渡した。


「助かる」


 その男もまた、ライターを擦る。小さな火が灯り、彼の顔がぼんやりと浮かび上がる。若い顔だった。だが、目の奥に宿る疲れは、年齢以上のものを感じさせた。


「……明日、生きてるかな」


 ふと、男が呟く。兵士は答えなかった。ただ、ゆっくりと煙を吐き出した。


「……お前は?」


「さあな」


 その言葉で会話は終わった。二人はただ黙って煙を吸い続ける。


 兵士は煙草をくわえながら、ふと塹壕の向こうを見た。


──闇は変わらず、そこにある。


 遠くで誰かが笑っているような気がした。いや、泣いているのかもしれない。そんな区別すらもうつかない。


 やがて男は煙草を吸い終えると、小さく笑って、地面に寝転がった。


「もう、考えるのも疲れたな」


 そのまま男は動かなくなった。眠ったのか、それとも……。兵士は確かめることなく、ただもう一度煙を吸った。


 この塹壕では、眠りと死は見分けがつかない。


──遠くで小さな歌声が聞こえた。


 兵士は顔を上げる。歌っているのは別の部隊の兵士たちだろうか。それとも誰かが歌うふりをしているだけか。


「♪──ふるさと……」


 不意に、馴染みのあるメロディが耳に届いた。


 思わず兵士は笑った。誰かが命を懸けて戦っている最中に、歌うことができる人間もいるのかと。だが、その歌声は不思議と胸に響いた。


 彼はそっと目を閉じた。頭の奥で、遠い記憶がよみがえる。


──土埃舞う田舎道。


 麦わら帽子をかぶった少年が、川沿いを走っている。蝉の声が降り注ぐ中で、母親の呼ぶ声が聞こえた。


「もう帰っておいで!」


 少年は振り返り、笑った。


 だが、その顔が次第にぼやけていく。


──記憶はすぐに途切れる。


 兵士は目を開け、目の前の塹壕の壁を見た。ただの泥と血に染まった壁だ。ふるさととはほど遠い。


「……おい」


 隣に寝転がったまま動かない男に声をかける。返事はない。


 兵士は彼の肩を軽く叩いた。だが、男はそのまま眠り続けるように動かなかった。


 彼の指先から、吸いかけの煙草がぽろりと落ちる。燃え残った火が泥の上でかすかに揺れた。


 兵士はゆっくりと腰を下ろした。隣で眠る男の頬に泥がこびりついている。彼はそっとその泥を拭おうとしたが、指が途中で止まる。


「……やめとくか」


 そう呟いて、彼は最後の一本を取り出した。


 手がかすかに震えている。疲れか、寒さか、それとも別の理由かは分からない。


 彼はライターを取り出し、親指で擦った。


「カチッ」


 一度目は火がつかなかった。


「カチッ」


 二度目もつかない。


「カチッ」


 三度目でようやく、小さな炎が揺らめいた。


 兵士は煙草に火をつけ、深く吸い込む。煙が肺の奥まで広がり、思わず目を閉じた。


──煙草の味は、さっきよりも苦かった。


 彼はゆっくりと煙を吐いた。白い煙が冷えた夜気に溶けていく。


 兵士は隣の男を見た。


「……生きてるか?」


 答えはない。


 彼はふっと笑った。


「そうか……」


 煙草をもう一度、深く吸い込む。


 遠くで銃声が響く。誰かが叫んでいる。


 だが、兵士はもう動かなかった。ただ、煙草を吸い続けた。


 冷たい風が、煙草の火をかすかに揺らしていた。


 朝が来ても、戦場の空は鉛色のままだった。


 兵士はじっと煙草の火を見つめた。最後の一本が、もうすぐ燃え尽きようとしている。


 隣に横たわる男は動かない。昨夜と同じままだ。いや、違う。頬を伝った血は、すでに乾いていた。


「……また一人、減ったか」


 呟くように言って、兵士は立ち上がった。どこかで誰かが命令を叫んでいる。銃声と爆音が響く。


 戦争はまだ終わっていない。


 彼はポケットを探った。煙草の箱は空っぽだ。


──終わりだな。


 ぽつりと笑った。煙草が尽きるのが先か、戦争が終わるのが先か。結果はもう出ている。


「おい、そろそろ行くぞ!」


 仲間の兵士が叫ぶ。彼は頷き、ライフルを手にした。


──これで最後かもしれない。


 そんな考えが頭をよぎるが、もはや何も感じなかった。


 彼は塹壕を抜け、戦場へと足を踏み出した。


 夜が明けた。


 空は白み始め、戦場は静寂に包まれていた。


 兵士は、地面に仰向けに倒れていた。


 顔に泥がこびりつき、軍服は血と土にまみれている。胸には撃ち抜かれた跡があった。戦争の終わりは、彼にとってはここだった。


 彼の手のそばに、一本の煙草が落ちていた。


 火はすでに消え、短くなった吸い殻だけが残っている。


──最後に吸った煙草は、どんな味がしたのだろうか。


 誰も知らない。誰も気にしない。


 戦場には、無数の命が転がっていた。名も知られぬ兵士たちの屍。


 彼もまた、その一つに過ぎない。


 けれど、確かにそこにいた。


 誰にも記憶されることはなくとも、彼は最後の一瞬まで生きていた。


 そして、煙草を吸っていた。


──その時、彼はまだ人間だった。

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