フウセンカズラは四季折々の夢に出るか

水鏡ミラー

フウセンカズラは四季折々の夢に出るか

 あの人を何かで形容するならば、きっと『四季のような人』になるのだろう。

 春のように爽やかで、夏のように明るく、秋のように華やかで、冬のように細やか。一介の高校生が持つには有り余るほど、彼女は魅力に溢れる人物であった。

 また彼女は、季節を追う人でもあった。春の時節には花輪を乗せて学校にきたり、梅雨のある雨の日には紫陽花を頭のてっぺんに差したりしていて、見る人からみれば変人とも称されかねないほど、彼女は季節感を大事にしていた。

 ふと、外を見る。三階の教室から見える曇天は、雨水を抱えて今にも溢さんとしているようだった。六月の半ば、昨年までは梅雨なんてもう無くなったのではと思っていたのに、ここ数日は雨が頻りに降り続いている。

 あの時も、雨だった。

 あの人――三春廻――が学校に来なくなったのは丁度去年の、曇天が覆う梅雨の時期だった。

 

 あの時も、なんて因縁めいた言葉を使ったけれども、私は彼女が不登校になった理由を知らない。特別な出来事があったわけでも、ましてや彼女が学校に来なくなった原因を作ったわけでもない。あの日は普通に登校して、彼女と他愛のない会話を幾度かしたに過ぎない。会話の中に何か、彼女が傷つくことを言ったというのも、なかったはずだ。

 そう……ない、はずだ。

 不登校の理由について、先生も詳しくは話さなかった。不登校から一ヶ月経ってからは噂話ばかりが闊歩して、クラスの男女の囁きだけが耳に付いた。彼女は男女問わず注目されがちだったから、彼女が居なくなった後も一際大きな潮流を作り出していた。

 それから少し経って、夏の盛りの茹だるような日々に、さらに一つの噂が立った。発生源は同じクラスの女子グループからで、それは悪意というよりも、むしろ好奇心の産物のようなものだったのだろう。内容はシンプルで、三春廻は援助交際をしていて、それがバレたから転校したという趣旨だった。高校生というのは特に多感な時期で、私の学校ではそういう会話が好きな姦しい連中が多かったので、そういう噂が発生したのも致し方のないことだったのかもしれない。しかし、友だちだった私にとってそれはとにかく、気持ちの良いものではなかった。注目を集めたいがために目撃者を騙る者もいた。その時ほど、「死人に口なし」という言葉を恨めしく思ったことはない。私はそれらを耳にする度に、唇を噛んだ。

 それから数ヶ月して幾つかのテストを超えていくと、もう彼女の噂を語る人も、噂を騙る人もいなくなった。私も、あまり彼女のことを考えなくなった。

 教室の外、遠くの空で雷鳴が幽かに響いている。

 肌に伝わる大気の振動に少しくすぐったさを感じた。

 教壇に立つ先生が、板書された文字に沿って言葉を重ねていく。

 国語。聞かなくてもある程度はわかる。

 サアっという音がなる。それを合図に雨が校庭を濡らしていく。

 今、三春さんは生きているのだろうか。

 ただそれだけだった。それだけが知りたかった。

 彼女ともう一度話せたらだとか、学校に来なくなった理由を知りたいだとか、そんなことはもうどうだっていい。あの人が、ただこの空の下で笑っていてくれたら。それだけが私の願いだった。

 ああ……。

 思考がナイーブに染まっていくのを自覚する。

 もう考えない方がいいって、決めたのに。

 ありったけの知恵を使い、手当たり次第に情報を集めた時期もあった。身の回りの友人や、SNS、実地調査など、今思うとストーカー紛いのことを脇目もふらずやっていた。それこそいなくなってからの最初の一週間から、クソみたいな噂話が立つまでの間、私は死に物狂いで彼女を探した。それでも、大した成果は得られなかった。

 彼女に友人といえる友人はいなかった。強いていうなら、自分が友人に該当する人物だろう。華やかで奇抜な彼女を遠まきに恋慕する者は数多くあったけれど、容易に近づこうとする者はいなかった。

 私だって、話しかけられるまでは積極的に話そうなんて思わなかった。

 きっかけは選択科目の倫理の時間だった。グループディスカッションで隣同士ペアになって話し合うという人見知りには中々厳しい状況で、偶々彼女の隣に座っていたのが私だった。いきなりだったので、しどろもどろになりながらも会話だったのに、三春さんは話をしっかりと聞いてくれた。グループディスカッションはその後何度も行われ、私が三春さんと会話をしたのはその一回だけだったが、それ以降、なぜか彼女は私によく話しかけてくるようになった。

「よそ見をしない!」

 先生が、外を眺めている私を注意する声で、思考が霧散した。

 もう振り返るのは辞めようと決めていたのに。

 暇さえあれば、彼女のことを考えている。


 四限が終わる頃には、天気は土砂降りに変わっていた。

 何故だか落ち着いていられなくて、お昼休みの暇つぶしに廊下を歩くことにした。教室の中から、女子の騒ぐ声が聞こえる。男子がカードゲームに興じているのも見えた。人が群がる購買や、人気のない特別棟を通り過ぎ、行きついたのは屋上に続く階段だった。

 屋上に出る扉は封鎖されていて、その手前までしか行くことが出来ない。

 思い返せば、彼女はいつもここでご飯を食べていた。

 人目を気にする性格でもなかったのに、どうしてこんな埃くさい場所で独り、食事をしていたのだろうか。

 いつか聞きたいなと思っていたが、聞きそびれてしまった。

 そう思ってから、自分の行為に気がついた。

 また私は三春さんの姿を追っている。

 一年も経つというのに、私はまだあの曇天に、心を囚われたままでいる。


 教室に戻れば、机をくっつけて駄弁っていた友人グループがいたので、輪に加わった。今日は人と話す気分ではなかったが、とにかく気を紛らわせたかった。

「その小説がさー」

 私たちのグループはスクールカーストの浮動枠のような位置づけで、周りで起こるカースト抗争とは無縁の平和なグループだった。今年同じクラスになってからずっと一緒の、いわゆる仲良しグループというやつでもあった。昨日読んだ小説の感想や、さっきの授業の愚痴を言い合っているのを耳半分で聞き、外を眺めていると気が休まる思いがした。彼女たちは私の内心を知ってか知らずか、いつもと違う私の様子にも特に触れることなく、会話に興じてくれている。

 窓の外では雨が降り続いていた。

 雷鳴も、すぐ近くまで迫っていた。

 

 五限にもなると、雨模様は突風も加わって、嵐の様相を呈していた。

 授業を担当する先生が一向に来ないので、教室内は騒がしかった。期待を膨らませた賑わいの声。天気を調べると、大雨洪水警報が発令していた。

 少しするうちに先生が、ツカツカと床音を響かせながら入ってきた。

「はーい、皆静かに。といってもこの状況じゃ無理もないか。君たちの期待通り、今日は大雨のため下校となりました。これからさらに強くなるみたいだから、皆寄り道せずに気を付けて帰ってね」

 そう言い終わると、教室は歓声に包まれた。豪雷雨で下校という非日常に、皆昂りを隠せないでいる。気の早い男子はすぐさま鞄を背負い教室を飛び出していき、そうでもない人も雨が強くなる前にと帰宅の準備をする。部活動をしている生徒はとりあえず部室に寄ってみるなどして教室を後にし、ものの数分で教室にいるのは私だけになってしまった。

 教室の電気を消し廊下に出れば、人の気配はすでになく、風の音が不気味に響いている。

 特別棟への道のりも、同じように薄暗く、もの寂しさに満ちていた。特に目的があるわけでもない。ただ、今帰るのはなんとなく気が引けて、私は一人廊下を歩いていた。

 図書室に行ってみると、中は電気がついていた。扉を開けてみても、先生の気配はなく無人だった。少し休もうと書簡に並べられている本を眺めていると、ふいに後ろから話しかけられた。

「あれ、こんなところで何してるの?」

 声の主は図書委員長だった。何度かあった委員会活動でお世話になった人。普段ならここでお喋りでもして暇を潰したいところでもあるけれど、タイミングが良くなかった。

 人と話したい気分ではない。だけど無視できるほど、私の心は強くもなかった。

「ううん、雨強いから様子見ようかなって思って」

 遠くでまた、雷鳴が響いた。雷の中心は少しずつこちらに向かってきているようだった。

「もしかして傘無いの?」

 確かに傘も無かった。置き傘をするほど横着でもない。

 委員長は少し微笑んで、私の前に相対する。

 だけど私の内心では嵐が猛っていた。

「うん」

 早くひとりにさせてほしい。

 そんな思いだけが心の中にあった。本当に、普段ならなんてことないはずの状況が、今だけは勘弁願いたかった。

「よかったら家まで送ろうか。傘一本あるし」

 ああ、本当になんでこんな時に限って。

「ごめん。ちょっとやることがあって」

 さっきと言っていることがチグハグな発言。それは委員長も感じたようで、一瞬怪訝な顔をした。しかし、ここが委員長の人気がある所以なのだろう。委員長は残念そうに、だけど重くは見せないで爽やかに言った。

「そう、じゃあ仕方ないね」

 その後、流石に申し訳ないので昇降口の方まで連れ立って、委員長の見送りをした。

「用事、早く終わるといいね」

 帰り際の委員長の言葉。良心がチクリと痛む。

 本当に、いつもでも囚われてばかりではいられないというのに。

 委員長が昇降口を出た後、私は階段をひたすら上に昇った。

 電気の付いていない、うら寂しくて寒々しい特別棟の廊下。三階へ到達すれば、その窓から見える空模様が、より荒々しさを増していることが分かった。さらに階段を上がると、屋上の出るドアのある空間に行き着く。昼休みにも行った場所。三春さんの場所。

 ある時、彼女はいつも通りここで昼ご飯を食べながら、引っ張られる形で付いてきた私に質問をしたことがあった。

「ねえ、人が成長するってどういうことなのかしらね」

 どういう意図だったのかはわからない。どこか物憂げに問う彼女の表情がひどく印象に残っていた。しかしその当時、私は答えを出しきれずにいた。それは今も変わらない。

 私は、あの時から成長したのだろうか。



 暫くの間ドアにもたれかかってぼんやりしていると、ふいに階段を上る足音が聞こえた。

 恐らく教員だろう。下校時間はとっくに過ぎている。こんなところにいるのがバレたら、怒られることは確実だった。

 身を縮こませて、階段からは死角になる踊り場の隅に隠れた。カツカツと軽快な音を鳴らす音はパンプスの靴音だろうか。

 お願いだから気づかないで。

 息を潜めて足音が踵を返すのを待つ。しかし、階を上がる足音は三階の踊り場――私のいる場所の一つ下――で唐突に鳴り止んだ。切迫した気配。まるで見えない何かを探して捉えようとしているようにも感じた。

 再度足音が再開した。しかし、今度は明らかにこちらに対して進路をとっていた。

 階段に足をかけた堅い音が、私との距離を着実に縮める。

 まずい。

 と思った瞬間。

 耳をつんざく爆音が校舎全体を貫いた。

 どうやら近くに雷が落ちたらしい。続く雷鳴の引きずりがそれを証明していた。

 僥倖だったのは、雷鳴の後、その足音が階下へと向かった事だった。足音の主も今の音を聞いて帰宅を急いだのかもしれない。

 とにかく、良かった。

 だが、もう学校に居続けるのは限界だった。

 そうして何も解決しないまま、私は雷雨のもと帰路に着いた。


 私の願いに反して、雷雨はより一層激しさを増していた。吹きすさぶ風と横殴りの雨が外にあるもの全てを押し倒そうとしている。この段階になると、傘などあっても無駄だろう。道には人はおろか車もほとんど通っておらず、まるで世界に私のみが取り残されたようだった。

 通学鞄は特別棟の踊り場に隠しておいたので教科書は守られたが、そのせいで自分の身が犠牲になった。本末転倒だなと思った。

学校を出てから数分。すでに全身ずぶ濡れで、髪の毛に溜まった雨水が頭を重くして鬱陶しい。顔に振りかかる雨粒を避けるために俯きがちに歩けば、多少はマシになるだろうか。

 行く手を阻む風を一身に感じながら、先ほど思い出した三春さんのあの質問を反芻する。

 私は成長したのか。

 彼女がいなくなった後、確かに私は色々な経験をした。彼女がいなくなってからも人生は続き、この一年で知り合いや交友関係も変わった。変化することが成長と呼ぶのなら、私は少なからず成長している。

 だけど、それだけだろうか。

 心的成長。私が精神的に成長しているかどうか。問われているのはこちら側なのではないか。

 当時も今も私は私。それは揺るがない。今と一年前で私の中の信念や信条の一部が変わることがあっても、全てが変わったわけではない。まるで継ぎ接ぎのように、私の中の変わった部分と変わらない部分が混在している。そのパッチワークの仮定で全てが一新した結果を成長だというのなら、しかし私は成長しているとは言えないのかもしれない。

 だって、私の心は今も。

 一歩一歩、風に煽られないように地面を踏みしめて歩く。

 そのうちに、三叉路に差し掛かった。右に行くと大きな公園、左に行くと住宅地。

 家は左方向だが、右に行くことにした。何故だかわからなかったけど、そっちに行きたかった。

 雨風は、なおも強く吹いている。

 

 公園の土は水浸しだった。いつもはすっきりとした芝生の地面も、水と泥濘で進むたびに泥が跳ねる。自分の気持ちに従った結果とはいえ、何でこんなところに来てしまったのだろうか。私は私が解らなくなった。

 頭上で雷鳴が轟く。地鳴りのような低いうねりが上空でわだかまっていた。雷が鳴るたびに雨が強くなる。髪に溜まった雨水が頭をあげることを困難にさせる。

 限界を感じたので、公園内にある屋根付きの休憩所に行くことにした。辿り着くためには長い階段を登らなければいけなかったが、この際仕方がなかった。

 弾丸の如き雨を耐えながら目的地まで辿り着く。丸太でできた屋根と申し訳ばかりの壁は横殴りの雨さえも凌ぐ防壁となって、私にしばしの安息を与えてくれた。服は絞って、髪は振るって、溜まった雨水を地面へと落とす。幾分か軽くなった身体で腰掛に座ると、疲労がドッと来た。この嵐の中を傘も差さずに帰ることは、一介の女子高校生には中々無謀なことだったと反省した。

 どうしてここに来ようと思ったのか。

 自問すれば答えは自明で、彼女の面影を探しているからに他ならなかった。

 こんな天気だから、もしかしたらと思っていたのかもしれない。この町にいる確証もないのに。それだけ、私の中で彼女の存在は大きいものになっていた。大した交流などしていないはずなのに、何故こうも想ってしまうのか。それはよくわからなかった。



 雨音が弱まることなく屋根を叩く。

 何処からか歌が聞こえたと思ったのは、疲労に負けた私が休憩所の中で微睡んでいた時だった。初めは幻聴だろうと思った。こんな雷雨の中で歌う者などいない。いるとしたらよほどの変人だ。

 しかし、それは確かに聞こえる。微かだが、雷雨と共に透き通った旋律が微かだが聞こえる。子守唄のような、微睡の中にいる私を落ち着かせるような歌声。雨音が土を叩く轟音の中、芯の通った高らかな調べは自然のものでは決してない。

 誰かの家から聞こえてくるのだろうか。だけどここの周囲は森ばかりだったはずだ。

 外に出て様子を見にいくべきか。

 少し迷ったが、行ってみることにした。

 どうしても彼女の面影が脳裏にチラついてしまう。まだ服も満足に乾いてないのに、私は再び土砂降りの下へと身を投げた。

 休憩所の周りを回り、誰もいないことを確認する。この視界不良の中だから、人か木かの判別もいまいち付かなかったが、声だけは聞こえてくるから大まかな方向だけは解る。足元に気を付けながら再び広場の方に行くと、中央に傘も差さずに立ち止まっている人がいた。その影は黒く長く、大雨で視界が悪い中にあってもその姿は際立って見える。歌もそっちの方から聞こえてくる。

「すみません!大丈夫ですか?」

 何が大丈夫なのだろうか。自分で言っていておかしいと感じながらも、訂正できずに返事を待つ。歩きながらも距離はおよそ三十メートル。雨に負けじの大声は、それでも届く頃には微かだろう。

 しかし私の問いかけは、人の耳に届いたようだ。歌が止み、雨が作り出すもやがその人の輪郭だけを作り出している。

 その人が、返事もせずに近づいてきた。

 もしかして何か取り込み中だったのだろうか。あるいは誰かを探していたり、逆に私の方が怒られるパターンとか。

 いや、よく考えたらこの状況は危険なのではないかと考えた時にはもう遅かった。雨の中に女が一人、犯罪に良くあるシチュエーション。

 その自覚と同時。相手が突然、私に向かって走り出した。

 危険を知らせる頭の警報。

 逃げようとして、次いで足がもつれる。

 雨と泥濘が口を満たす。眼前の草と雨粒と、頭上の曇天がやけにはっきり見えた。

 もうだめだ。

 諦めるのが早すぎだと思った。だけど恐怖よりも諦念が先に湧いた。自暴自棄のような感覚。疲労感が全身だけでなく頭までもを鈍らせたのだろう。私はもう動くことも諦めていた。

 天を仰ぐ。その瞬間に、黒い影は私に重なって、白い服と長い髪の黒が目の前いっぱいに広がった。人間の確かな重みを感じる中、死の一文字が脳裏を過る。

 ああ、さようなら。

 脱力のせいで後頭部を軽く打ち付けながら、いっそ一思いにと目を瞑る。瞼の裏には彼女の姿が見えた。

「久しぶり!!!!」

 だからその言葉が私の耳に届くのに、数瞬かかった。

 久しぶり?

 強張った目を恐る恐る開けると、クッキリとした双眸が私の顔を見ていた。四つん這いになって、雨から私を守るような形で、その人はいた。その人の顔から私の両耳に、水が滴る黒髪が御簾のようにかかっていた。その中心には、端正で可愛らしいあの日見たきりの顔があった。

 思考が急発進する。

「三春さん!?」

 あの、去年の今頃にいなくなった、私がずっと探していた彼女が今、目の前にいる。

 私の心と重なり合っているかのように雷鳴と稲妻が空を引き裂いた。

 言葉が出ない。あれほど探していたのに、探し尽くして諦めもしたのに。

 絶句状態で固まる私をよそに、彼女は瞳を輝かせながら、こちらを見続けている。

「ああ、会いたかった。ずっと、あなたに会うのが待ち遠しかった」

 三春さんは、私を押し倒したままそういった。その声色は、私が覚えていたものよりもずっと熱く、迸っていた。

「学校、全然行けなくて。心配かけちゃってるかもって思って。ごめんなさい、遅くなっちゃった」

 眉尻を下げながら、贖罪を口にする三春さん。

 私は見上げたまま、天の雫を一心に受ける彼女を見て、頭を振った。三春さんには三春さんの、やるべきことがあったのだろう。何があったのかは解らない。だけど、それでいいんだ。心配はしたけど、あなたが生きていることが何よりだから。

 なんて、驚きで言葉は未だに出せなかったけれど、それが動きで伝わってくれたらと思うのは、流石に傲慢が過ぎるだろう。

 だから、数呼吸。早鐘を撃っていた心臓を落ち着かせて、手を伸ばす。私に覆いかぶさる彼女の顔に、その肌に、本物の彼女の実在を感じたくて。泥だらけでゴメンねって心の中で思って、頬に触れた。雨に濡れてもなお、三春さんは暖かかった。

「私も待ってた。三春さんに会えるのを。突然いなくなっちゃったから……。でもこうやって会えて、嬉しい」

 昂る気持ちが、今になってやってくる。涙が雨と混じって、頬を伝った。三春さんはそれを拭って、手を伸ばしていた私の手を取った。

「…………よかった。私、嫌われちゃったのかと思った……」

 呼吸の音。轟く雷鳴。篠突く雨。

 世界から、私たちだけが取り残されたかのように、他には何もない。

「ねえ、もっと近づいていい?」

 俄かに、三春さんが言った。

 泥まみれの私の身体。

 三春さんもきっと、泥だらけ。

「汚れちゃうよ」

 少し笑って。

「良いの」

 三春さんの上半身がゆっくりと降ろされていく。

 服越しに体温と鼓動が伝わる。耳元にかかった吐息が、彼女が生きていることを伝えてくれる。人一人分の重みが、彼女の実在をこれでもかと教えてくれる。

 背中には泥と水の冷たい感触。

 その寒暖差が心地好かった。

「ずっと、もっと最初から……こうしていたかった」

 言葉の終わりに、雷が落ちた。

 それはすぐ近くだった。

 雨がさらに強まった気がした。

 だけど私たちは、暫くの間、そのままでいた。




 嗚呼。

 貴方はきっと知らないでしょう。

 世界を狂わす嵐のことを。

 知っているのは私だけ。厳密に言えば私の家だけ。

 だけどそれももう終わり。長い時間がかかったけれど。

 ようやくこれで終わりが見えた。

 早く貴方に会いに行きたい。無邪気で無垢な貴方の元へ。

 かつて奇異の視線で雁字搦めだった私を明るい笑顔で照らしてくれた、輝くような貴方の元へ。

 貴方はなんていうかしら。黙っていなくなったから、責められても仕方がない。もしかしすると、もう私の事なんて、忘れてしまっているかもしれない。

 そうだったら、私は狂ってしまうかも。

 だけどこの気持ちはもう止められない。

 貴方に会うまで、私は終われない。

 後少しだから。

 それまで待ってて。

 愛しの貴方。

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