爆裂五郎 著『良い人、悪い人』感想 ~良し悪しはゆれ動く。では、それを受けて、どう生きるか?~

天声蹟譜

良し悪しはゆれ動く。では、それを受けて、どう生きるか?

 このレビューは、「おすすめレビュー」というフレームにしては内容が純粋なおすすめじゃなくなっているので、合わないと感じたらおだやかにブラウザバックして頂いてもいい。この内容は、良し悪しの絶対的な基準はないという筆者の達見に同感しさらに補強を加えながらも、そこから先の提唱について明らかに毛色の違う意見をしていく話である。


 二元論、というものがある。「白い⇔黒い」「理想⇔現実」のように、二つの存在を対置する考え方のことだ。だが、例えば「白い⇔黒い」のあいだには、黄色や赤色、緑色など、白でも黒でもない色が存在する。また、マーブル模様のように白い箇所もあれば黒い箇所もある状態というのを私たちは知っている。だから「白」「黒」のほかに「白でも黒でもない」「白でもあり黒でもある」が存在するのを説明できない二元論は、間違った理論だ。そう、「良い⇔悪い」もまた、二元論である。

 ところが、誰かと会話するとかTV番組で喋られている話を聞くとか、人との関わり合いの中で取り交わされる話題にそれほど理論的厳密性を求められていなかったならば、内容に平然と二元論が潜在していてもさほど問題視されない。なぜなら、話題の奥底にあるのはいわば日常の暇つぶしの「あなたと自分は同じ時間や現実を共有している」連帯感を得ることであって、「情報が必ず正確に授受されていることを要請する」緊張感をもたらされるためではないからだ。

 それどころか、もし言ってる内容が二元論だよと批判されると、何が二元に当たるのかそもそも解ってなかったり、解っていながら意図的に情報操作などし始めたりする人がある。それは、自分の話が間違っていることを認めてしまったら、今まで支払ってきたコストはいったい何だったのかと引きを恐れる心境も、原因の一つにありえる。そうして、話をした自分について自己正当化を図りはじめる。

 そんなことを行う人が、もしとある群衆に支援されている(推されている)有力者/有名人だったらどうだろう。「あなたと自分は同じ話題を知っているし、なんならあなたの疑問や苦しさというのはこういうことですよね解りますとも」と圧倒的連帯感のある空間を共有させられるような人だったらどうだろう。心理学上、支援者にとって連帯感空間を造り出せる人には信頼や好感を抱く、ラポールという感情が生まれる。マックス・ウェーバー『経済と社会:支配の諸類型』によれば、誰でも持ちうるわけではないような性質を恵まれているとのように支援者に評価されていること、もっと言えば、性質というのが客観的に正しいかどうかはどうでもよくて如何に支援者に承認されているのかが、カリスマのカリスマ化にとって問われるようだ。この、正しいかどうかはどうでもよいというのが、話題に理論的厳密性を求められないこととも相まり厄介だ。支援者はいまの有力者を支援しているのであって、みずから過ちをうけて引いてしまった有力者を支援してくれるとは限らない。それに、ことは有力者みずからの認識ミスでは済まず、その認識ミスを支援する不特定多数の人々による論理的認識力の失態でもある、と飛び火しえるだろう。支援者はその一人ひとりが自らの過ちを他責化することなく、皆素直に受け入れられるだろうか。支援する意向が恥辱感や失望感、憎悪心に反転して有力者の方へ刃を向けないと言い切れるだろうか。有力者にとって増々いまさら引くに引けそうにない。

 このような有力者による議論は、大概、相手の話の論理性が妥当かを検証するよりも、相手が敵か味方か、敵ならどう揚げ足を取り味方なら論理性よりもこちらとの同調性を重んじられるか、印象面でのやりとりが強めになりやすい。カール・シュミット『政治的なものの概念』によれば、敵とはただの討論相手ではなく、自らそのものを否定する存在なのだ。ちなみに、「味方⇔敵」は二元論だ。



 なにが「良い」でなにが「悪い」のか、かつてなら宗教や伝統的価値観がそれを規定していたし、在りようや人格/生き方でもあった。人々はそれに組み入れられるだけでよかった。だが近代に入り、目的達成のために手段を最適化し、さらにそれを実現する道具として一貫した思考を相手に明らかにするという、合理主義が進む。合理主義は宗教の超常現象をも科学によって合理的に説明できるはず、という見解を取っている。これによって宗教や伝統的価値観は、神秘的かつ生き方の指針から、世俗的な手段へと移る。さらに合理主義は外に在る価値観だけでなく、自分自身が何であるかを対象化するようにも至り、それは自分の在りようを自分で納得しつつ世間的にも受け入れられている状態……アイデンティティ(自己同一性)の確立の必要をもたらすことにもなった。宗教や伝統的価値観が世俗化してしまったことで、それらの倫理観に依って社会秩序を保つ方法に期待できなくなった以上、これからは個々人が自ずから如何なる在りようであるべきかを導き出し、それへ向かって律せる人でいてもらわなければならなかったからだ。

 ジャン=フランソワ・リオタール『ポスト・モダンの条件:知・社会・言語ゲーム』によれば、ある時代の社会・文化全般がどのようなものかを示すディスクール(内容)のなかでも、その社会に居る全員が共有する行動様式や価値観の枠組み/ディスクールのことを〔大きな物語〕と呼んだ。資本主義が発展し国家間の産業競争に勝つことが求められてゆく近代の国家は、人々を秩序破壊しない勤勉優秀な「国民」という労働力にするべく、生活基準の「標準化」と、決められた標準に国民が同調することを要求する「規範化」を行った。ここで用いられたのが「大きな物語」であり、国民はそれを反映した理念上の人格を参照することで、自己の行動を位置づけるようになった。ジョージ・ハーバート・ミード『精神・自我・社会』によれば、先程の理念上の人格のことを〔一般化された他者〕と呼んでいる。近代において、人の生き方は「大きな物語」―それを反映する「一般化された他者」―それをもとに確立させる「自己」、というつながりで成り立つこととなった。

 例えば、戦前なら大きな物語は皇国史観で、一般化された他者は皇国の臣民だ。なのでそれに填まらない共産主義者などは非国民扱いだった。1960年代なら大きな物語は高度経済成長神話で、一般化された他者は一億総中流/ヤングが挙がる。それに沿わない漫画家などは異端なので、手塚治虫は有害作家扱いされたし、悪書追放運動絡みで漫画そのものまでもが俗悪化されている。

 このことから、犯罪や病気はそれ自体が自然に存在するのではなく、その時の社会において「悪い」とされた現象が「犯罪」や「病気」にさせられていると判る。エミール・デュルケム『社会学的方法の基準』によれば、「犯罪だから私たちは非難するのではなく、私たちが非難するから犯罪なのだ」。


 その当時の何者かによって非難されるから何かの現象が犯罪であるのなら、非難されないように行動するには、犯罪的な振る舞いを予測して自らそれを抑制すればいいことになる。人によっては、それを倫理観と言うだろう。だが、問題がふたつ考えられる。

 ひとつは、宗教や伝統的価値観を失いながら資本主義が発展し、それにより社会が巨大で複雑に成熟した結果、次のようなことが起きた。

 まず、その複雑化してゆく人間関係をうまく取り持とうと、他人の考えや気持ちをモニタリングしながら行動しようとする同調的性格が出現した。デイヴィッド・リースマン『孤独な群衆』ではそれを〔他人指向型〕性格という。だがそうなると、人は次第に神経症的に空気を読み、他人に(他人が気づかないほど)繊細な思いやりを示しながら、一方で他人からは思いやりの不足を感じられるようになってしまった。アイデンティティ確立に必要なのが、世間に自分の振る舞いを受け入れられている状態を含むからには、たとえ表面的でもわざわざ互いに思いやりを示し合うことを通して自分の存在証明を得られるように実践する。わざわざ、というのが注目で、社会が巨大で複雑になり多様な価値観を包容するに至り、互いに思いやり合う方向へ変革すると、少し価値観が違うだけでその相手なりの思いやりを思いやりとして受け取り満足できる要素の範囲が狭まっていく。すると、思いやりが足りない、もっとあるべきだ、と満足基準が突き上げられるので、人の面子のためにと思いやりを作為的にひねり出さねばならなくなった。2013年の新語・流行語大賞に「お・も・て・な・し」が選ばれ、観光立国政策が打ち出されたのは、ひとつの結晶だといえる。

 また、複雑化してゆく人間関係は、宗教や伝統を背景に持つムラ社会や血縁の関係とは違い、単純に仕事上要るからとか、純粋にその人が好きだからとか、制度的支えのなく個々人の感情のみに基づく。もし満足感を得られなければ、わりと容易に関係が解消される。アンソニー・ギデンズ『親密性の変容』ではそれを〔純粋な関係性〕という。だがそうなると、こんにちの様々な関係のすべてが不確実な内面的感情に依存して構築されるので、脆いものになった。そこで人は、関係をともに築いている他人の感情を傷つけないように、他人や自己をモニタリングし始める。とはいえ社会が巨大で複雑になったことで、個人は多様なそのつどの役割や期待される在りようを持っているのだから、はたしてどれを以って応ずべき他人/自己の振る舞いと言えるのか正解がなくて予測不可能さが増す。そうして絶え間ない不安に襲われ、やがて自分はいったい何者なのか、自己についてどのような面でも同じものが見える揺るぎない一つの芯や在りかたの存在を目指されているなら、その反面多様な役割を持ついまの自分とは嘘の自分なのか、などと自己嫌悪感を生ずるようになった。その発展として、自分の内面/精神的真正さを求めようとする動向……いわゆる「自分探し」が始まった。2000年代にはスピリチュアルブームが発生したし、文部科学省『心のノート 中学校』平成21年度~平成25年度版には「自分さがしの旅に出よう」「思いやる心は、きっとあたたかい」といった文言があった。

 ふたつは、犯罪や病気に該当するものがとある時点での社会ごとに流動的に変わるというそもそも論もそうなのだが、2020年代のいまにおいて、社会を造り出す構成員の総てが共通で認識している大きな物語と呼べるものが、在るとは言えない。すると、ある人にとっての許しがたい現象は、ある人にとって悪いことだとは思っておらず、かつ両者の見解はどちらか一方が修正を迫られねばならないようなことにもならず、併存/乖離しているようになった。従って、犯罪や病気になる現象も、相違する見解が並び立ち拮抗までするようになったことである。

 先述、近代の人の生き方は「大きな物語」―「一般化された他者」―「自己」というつながりで成り立つと説明した。それは戦後に入ってもしばらくは有効だった。だが、アメリカによってもたらされた日本国憲法が基づいている戦後民主主義イデオロギーは、経済発展による個人生活の自立化が可能になるや、暮らしの消費生活化と個人の欲望最大化を正当化する大義として使われだす。人は自前の経済力に裏打ちされた個々人の自由の謳歌を望み、企業側も次々に商品を売りたい供給欲と合致し、そうして情報化社会/消費社会が進んでいくごとに大量の「他とは少しずつ違う商品」群が出回り、個人の選択肢が多様かつ細分される。価値観についても同様で、民主主義の自由/平等/人権尊重などの理念が消費活動に回収されて、公益より私益を優先する欲望(ミーイズム)へ成長する。他のものとは少しずつ違う商品を個々人がそれぞれの好みに沿って買う、すなわち価値観の個別化であり、人は自らの基準に拠る個別の価値観を成すことを促される。すると様々な価値観が乱立することになるのだが、ということは、それぞれの価値観は何かの選択肢の一つに過ぎないことをどこかで自覚させられ価値観の絶対性が低くなる、つまり相対化することでもある。この差異化行為は、大きな物語と一般化された他者の成立を不可能にさせる。従って、いままでそれに支えられることで確立させてきたかたちでの自己も、あやふやになる。ただし、それは現代人が個人の欲望最大化を望んだ必然の結果であって、この傾向は進展することがあっても後戻りすることはない。

 これらふたつの問題が指し示すとおり、宗教や伝統的価値観が世俗化した近代だからこそそうあるべきとされていた人の在りよう……理念上の人格を参照し自律してアイデンティティを確立させるかたちでの自己が、機能不全になった。ということは、犯罪を抑制する手法としての社会の構成員それぞれにおける自己抑制の機能は、価値観の違いによって許容されない現象が違うために、ある人にとっては自己抑制しているはずが別の人にとってそれは到底受け入れられる振る舞いではなかったり、突き上げられた満足基準によって尋常ならざるほどの自己抑制を互いに要求されたりする状況が頻発するようになる。また、「良い」一般化された他者が参照できない以上、在りようの制度的定型化による社会全体共通の「悪い」の抑制を望むことも、できないのだ。

 では今後、自己や良し悪しの基準はどうなるのだろうか? くわしくは以降で言及していくが、あらかじめ述べるとすれば、自分の好きなことや目的など内面に沿った、仲間内で解りあえている小規模で専門的なグループ諸世界への複数加入から見えてくる総和体としての自分、その一方で、偶発的に出会った話題について、不特定多数の人々と感覚で意見を同調させるような自分が発生する。こうして、従来の約束事や倫理観というていの自己抑制システムは崩壊するが、それがすなわち犯罪件数の膨張を意味するのではなく、犯罪の現象が変化するということである。

 そしてここからが、筆者と私の意見が違っていく箇所になる。筆者によれば、「考え続けなければならないというのは、とても疲れることだ。(…)しかし自分の事を決めるのは自分自身であるべきだ」としている(違っていましたらごめんなさい!)。それは、近代における自己の成立のさせ方に即して今後を生きる考え方と読むことができる。だがこれからは、そんな在りようも尊重されはしつつも一つの価値観として相対化されるだろう。そして主流になると考える在りようは、先述したような「思いやりが足りないとか、自分の存在や好きなものを非難されるくらいなら、その価値観を尊重してはあげるけれどこちらが離れていくか相手に出て行ってもらう」、といったような感覚だ。論戦による問題解決より、離脱による問題解消の手法だ。そこでの犯罪的かそうでないかの基準は、自分が、あるいは自分が現時点で属している同じ価値観を共有するグループが、とある行動現象を許せるかどうか、となるだろう。



 良い悪いの絶対的基準はなく、その当時の社会が受け入れがたい現象が在る。それは真理だ。だが世の中、絶対はあり得ないことを曲解して無秩序状態を創る根拠に悪用されないように、すでに法律といったような「標準化」から逸脱する現象が何かを規定する存在が設定されてある。にもかかわらず、なぜいまでもなお、良い悪いの基準のあやふやさについて悩まされるのだろうか。

 これまで述べてきたことを振り返ってみる。①近代の合理主義によって宗教や伝統的価値観が世俗化したことで、個々人が国家や社会からして望ましい在りようをみずから目指して律する、自己の確立が必要となった。だがそれはやがて人間関係の不確実さを導き、自分の内面へもその不確実さに悩まされるようになった。②戦後民主主義イデオロギーが個々人の価値観を個別化/相対化へと向かうように使われ、社会に居る全員が共有する行動様式や価値観の枠組みが成立できなくなった。加えて、こんにち的社会における教育は、自分探しをさせられるなど、良くも悪くも個人化した。③かくして、人生選択の自由が与えられたかわりに、選択する行為は個人の感性に拠っており、しかもその結果は自己責任化する傾向があるから。

 ところが今後こうした多様な選択肢とそれを選ぶことの自己責任の悩み……特に、自分の内面へ向かって「独自の見解・自分らしさ」を追い求めていく在りよう――近代的な自己の確立システム――を前提にしているからこそ生まれてしまう、完全オリジナルな見解や唯一無二の芯とか生き様とかいったものの定まらない悩ましさは、解消されていくだろう。なぜなら、そもそもそういうかたちでの「自分らしさ」を求めなくとも良くなることで、悩みは悩み化するようにならなくなるからだ。

 現代人は個々人の欲望最大化を望んだ結果としての価値観相対化という産物を、考えようによっては必要経費として受け容れている。選択肢の多様で細分なさまは、戦後民主主義イデオロギーと消費が連結したことから成るミーイズムからすると、自然だし快適でもある状況だ。それに、企業側も個々人の欲望に応えるように、様々な付加価値のついた商品や情報ネットワークの整備を提供してきたことで、もはや個々人それぞれにとっての日常あらゆる現象を好きな物/情報で埋め尽くせるほどに取捨選択できるようになった。言い換えれば、何を選択するかの主導権がいつも個人の側にあるままだから、その人にとって都合のいい情報ばかり集めることができ、選択の自由を阻む現象――目障りな情報、意見が合わない他人――を回避し、プライバシーを重んじて保護しだした。人と直接対面コミュニケーションせず、それどころか本名を秘匿し素顔を仮面化させても、大抵の日常生活を営めるどころか、本業として仕事できるようにまでなった。

 結果として、個人から見れば、それぞれの人間関係はプライバシー防衛のためにその人の一側面でだけやり取りされる。また、あるグループ世界から見れば、個々人が持つ価値観は一つと限らず一定でもなく、人のとある欲望を充足させる価値観を提供できたとしても別の箇所に不安/不満を見いだされてしまう。多様な価値観は多様な欲望ということであり、それには単一の大きな物語/一般化された他者で対応できるものではない。他人の価値観と自分の価値観は相対化されるからこそ優劣も序列もないものとなり、ある価値観にどれくらい共感するかは個別化されるとともに、個別の価値観は逆に絶対化され、選択の自由を阻む現象は排除されていく。様々な人々の欲望のために様々な価値観が存在し応える社会のなかで、自分の好きに従って価値観を複数選択して組み合わせるのだ。

 こうして、どんな集団・組織にどれぐらいの深度で参加しているかによって、自然と「いまのその人にとっての心地よさ」が構成される。ゲオルク・ジンメル『社会学』によれば、人格というものを社会との関わりにおける無数の交点として、様々なグループに対する各適応の結果として解釈した。いうなれば、個人が所属する集団の数によってその個人の在りようは発達し、しかもグループ間の重なりが小さければ小さいほど発達する。むしろ小規模で限定的な――とりわけセクトのような自発的に結成される排他性を持ったグループの――関係だけしか持たない場合、個人はグループの性格に融合してしまい、発達が阻害されうる。こうした、他人に人間関係を束縛されない自由によって生まれる「自分の心地良い状態」は、いくつもの他人や集団とのかかわりから創り上げられていくものである以上、「たとえ自分の価値観が他人から見て平等に相対化されるものだとしても、かつ情報化社会において自分の価値観の絶対性は低くてそれぞれの価値観に優劣も序列もなくとも、それでも同時に自分が選び取った価値観のそれぞれはどれも自分にとってやはり大切なもので、自分にとってだけが自分の価値観を何にも替えられないものだ」と観念的で主観的な姿勢に転換する。

 教育の面でもこれを後押しする傾向がある。こんにち的社会における教育は良くも悪くも個人化した、と先述したが、それは教育が個人化を促しているということでもある。そうなると、自己実現は社会に向かわず、内面へ向かう。どんなことをしたいか、内面の好き嫌いに照らし合わせることで、良くも悪くも社会から引き離されて個人化へ向かっていくのだ。ただしいくら内面を客観視したところで、複数ある自分の役割から真正な正解を導くことなどできはしないし、役割も永続的なものであることもない。だからいっそ正解を導こうとせず、単に自分の好きの感覚は他の何にも替わらないものだと解釈する。

 いろんな意見が相対化されながら尊重される。旧来だったら絶対と思われたろう価値観がまた相対化されることになるのだ。そう、「自分の独立した考えを持たねばならない」という価値観も、である。重要なのはこの箇所であり、繰り返すが「自分の独立した考えを持たねばならない」価値観も同じく相対化されるのであって、皆が共有しているだろう絶対に上位にあるべき、という価値観は、もうすでに皆という規模でもなければ共有されてもいない。あるのは、様々な価値観の重なり合いによって可変する、自分という名の価値観総和体だ。

 却って、他人との関わり合いを排除してみれば見えてくるというタイプの「自分らしさ」、人生を一貫する自分オンリーの芯や価値観が確立しているゆえにやりたいこともはっきり判っている自分、その現実的で客観的な姿勢は、考え方に自由がない頑なな印象となって取っ付き難いと見なされる。それは、まず自己があって、自己は独立した考えを持っていなければならない一方、それが社会的に大外れしてまで行かないように自己のふるまいをモニタリングする、という生き方システムからの脱却ということでもある。『般若波羅蜜多心経』でいう空が色を生ずるように、様々なグループに自分の好きの深度によって属している自分の在りようというのは、その在りようを構成するどれもが自分という人を説明する一側面で、どれかひとつが本当の自分というものはなく、一側面の集合体として捉えるだろう。様々な価値観が並立し、それぞれなりの良し悪しの基準というものがあり、個人は様々な価値観をいくつも掛け持ちして組み合わせ、自分なりの価値観をつくり出して、それを大切にする。その意味での学習の需要や「自分らしさ」が求められていくのだ。

 自分の好きを組み合わせ、その結果、複数の価値観を併せ持つ総和体としての自分らしさが、これから在るようになる。それに伴い、何を以って総和体としての自分となるかに関わってくる多様な価値観から選択するうえでの、個別の価値観に対するのめり込みの程度の深さ具合が、関心を寄せられる箇所となる。例えば、目に余るほど熱心な環境保護セクトの参加者や支援者は、温室効果ガスを排出する類のエンジンを使う乗り物を好きと言うのはおかしいし、乗ればなおさら自己矛盾だ。もしそうしているのが露見すればセクト内外からバッシングを被るはずだ。とある欲望を充足させる価値観は、それとは別の価値観に基づいて眺めれば多少の不安/不満を見いだされてしまうものなのだが、だから不安/不満を人生から無くすためといって小規模で限定的な関係だけしか持たないようだと、大きな物語もそれに裏打ちされた一般化された他者も無い現代ではより、歪んで頑なな変人に見なされる。複数の価値観を併せ持つということは、内面のどこかに矛盾を少しづつ複数同時に持たざるを得ないことでもある。何度も言うようだが、これでは近代的な自己の確立はできない。だからそれでも近代的自己の確立に相変わらず固執するよりも、複数の価値観の調整/均衡の具合から自分らしさを描き出す、そのための選択された各価値観に対する好きの深度に気を遣うほうが、力まず自然体で楽に生きられる、そう感じられているのである。


 ならばこれからを生きる現代人はもう自分らしさに関する悩みなどなくなるのか? そうではない。悩みそのものはなくならない。悩みの内容が変化するだけだからだ。

 ここまでの話を受けて、もしかしたら「複数の価値観をつまみ食いして適当なコーディネートをしておけば立派に現代人らしくなれるだろうか」と考えてしまう読者は居るかもしれない。だが、近代的なシステムで自己を成立させられなくなった、ということなのであって、結局のところ自己という構成は自分の状態を何と説明するかの概念として、未だに有効なままだ。私たちは自分の観念上で、誰かの視点から客観的に見た体裁での自分の在りよう(自己)を観察できるからだ。その自己は、今や社会の総ての構成員が共有する大きな物語とそれを反映する一般化された他者を参照しえない、小規模のグループ世界における物語/ディスクールとその反映としての一般化された他者の、総和体となった。価値観相対化の社会において、小規模グループ世界は質的に絶対性が低い。だから現代人は、単一の価値観だけを選択することで歪んで頑なな変人となって限られた人々からしか自己を承認してもらえない、という生き辛さを自ら創造しないように、独特の調整/均衡のとれた価値観の総和体であることを目指す。このことから、相手の価値観を尊重せず自分本位な消費に走ったり、好きな小規模グループを見つけられないとかそもそも好きでもないのに居るとかしたりすれば、それを調整/均衡と見なしてはもらえないだろう。調整の無さが現代における異端であり、例えば「老害」とされた人/風土へのバッシングといった形で顕在化する。

 価値観相対化は個人の思考や行動を、大きな物語を受けた一般化された他者の下で拘束させない状況を造り出した。だが、まずあらゆる価値観があらゆる個々人の欲望に応えるように存在する状況では、個人やグループや企業は、物質的/金銭的に恵まれているかよりも、どれほど自らの在りようを魅力的で支援したくなるような価値観/イメージを持っているという有力者の体裁で居られるかによって、評価や伸長が起きるようになる。だから参加者や支援者に対してはその支援参加活動において望まれる在りようというものを提示でき、その結果どのようになったか成果を報せることができなければならない。また、有力者側にせよ支援者側にせよ、つまるところ自らの在りようが誰かからも容認されていなくては平穏に価値観相対化社会の日常生活を営めないのに、その価値観相対化によって大概個人の価値の絶対性が低くなっている。個人の価値観が個人の自由によるということは、個人の状況次第で常に不安定で揺らいでいるということでもあるから、自分の好きな心地よさを保つためには、いくつもの人間関係をいつも思いやりでつくろわねばならないだろう。そうして居れば、いくら自分の好きの感覚は他の何にも替わらないものだと思っても、それは他人とて同じ思いをしているので、普段から自分の社会的存在感を実感できない。

 社会的存在感を実感したい欲望から発生するものとしては、小規模グループの垣根を越えた不特定多数の人々と、感覚で意見を同調させることで互いの自己を承認しあうようなシステムがある。個人の価値観の相対的低下は現代人の多様化/細分化志向の帰結であってコストと捉えられる状況でもあるから、個人が持つ価値観/好きの総ての自由を統制することを認めるようなディスクール――そのディスクールに個人の在りようが適合しているか客観的に測れるような論理的基準――は避けられる。しかし、個人の自由を邪魔することのない体裁――それが好きか嫌いかを個人の感覚的基準にまかせる体裁――を採っていれば、ディスクールをどう解釈するかは個々人次第としてミーイズムは温存されたままに大規模群衆を成立させられるのだ。例えば、いわゆる「炎上」現象がこれに相当する。

 その群衆では、ディスクールというよりももっと要素が削られ特化/尖り化されたような、知識の無い人がちょっと寄ってみた短時間でもすぐさま解りやすいような極論が在るようになっている。なぜなら極論であることで、それにノッた各々は瞬間的かつ感覚的に、互いの在りようを認め合えるようになるからだ。構成員全員、個人の自由を妨げられないまま極論を感覚によって支持しているので、極論を支持しないという者など初めから居ない。そうして自分の感覚と不特定多数の人々との感覚が同調している最中、構成員は自分と小規模グループを超えたより大勢の意識、もはや社会のような共通のなにかを、ひるがえっては同じ感覚を持っているんだという構成員仲間の意識を、抱けるようになる。それは、大きな物語を受けた一般化された他者の擬製となり、従って近代的な自己(社会一般から承認されるような、同質性のある自己)のような在りようを実感し得ることにもつながる。とはいえあくまでそれは、大きな物語から論理的に自己を位置づけるものではなく、感覚の共有/同調からなる親密感や連帯感に満ちたまぼろしの自己を視るシステムである。

 さらにそういった大規模感覚同調群衆において、極論が意味するところの内容もそうだが、極論を誰が言ったかもまた、群衆の巨大化やノりやすさにとって関わってくる。なぜなら正体不明な者によって極論が提唱されるよりも、ラポールを発生させられる有力者によるほうが、安心されこよなく支援されやすいからだ。もっといえば、価値観が相対化するとともに逆に個別の価値観が絶対化している現代では、そうだからこそ、有名でもない一般人の知り合いの価値観を全面で服することにほとんどなりようがない。

 ただしこのような大規模感覚同調群衆は、まずその群衆構成員たちにとって互いの在りようを承認しあう根拠が同調という感覚である以上、群衆に掲げられている極論に対する絶対的な視点が高い。日常では価値観総和体としての自分の在りようしか持ち得ないのだから、社会のような共通のなにかと親密感/連帯感で一致できるシステムによって実際の社会を変えてしまえたならば、群衆構成員としての自分は絶対性の低い自分から抜きん出られるからだ。ところが極論に反対する者はいないとはいえつつも極論の内容解釈は個人の自由で、かつそうやって群衆が感覚に基づき成立しているのだから、極論の目標が達せられればたちまち群衆は解散してしまう。もともとこのシステムは、ディスクールとなった論理的基準で設計されていないし個人の役割もほとんど持たれることはない、純粋に親密感/連帯感という利得を獲ることが可能な状況までしか続かないものだからだ。極論が解りやすい反面奥行きがないぶん、より瞬間的で感覚的に群れ、そして解散する。

 また、有力者がわざと設計した極論を提示しメディアを操って大規模感覚同調群衆を引き起こしてしまえれば、群衆構成員は感覚に基づいて行動しているゆえに、有力者はその意向によって大規模な状況をコントロールできてしまう可能性がある。群衆はその構成員にとっての親密感/連帯感という利得があるまでしか続かない、論理的に人間を統制しないから組織性もない群衆なので、基本としてはこの群衆が独裁者を生み出し継続的な政治力に寄与することにはならない。だが問題は、有力者が群衆構成員に親密感/連帯感を提供し続けられるトリックスターな才能があった場合だ。例えば総理大臣時代の小泉純一郎がそうだが、明快ですぐ何を伝えたいのかが解りやすい極論を、確信しているようなパフォーマンスで、とくに個々人に直接訴えかけられるようなメディア上で展開するようだと、人々は次第に、極論の内容よりも極論を堂々と展開しているその人自身がコンテンツとして面白いと、ラポールが発生していると感じられるようになる。こうなった場合、本質は先述のようにあくまでその者への支援とか存在しえない大きな物語への支持とかではなく、その者コンテンツへの面白がりに過ぎないとしても、ずっと面白がり続けた結果そのあとの状況がかつての群衆構成員にとって幸せである保証は一切ないまま、どんどん状況ばかりが進まれるようになる。

 このように現代人は、一方で価値観の多様化/細分化志向を肯定していながらも、他方で群衆構成員として均質化/画一化をも志向することがあるという、解離性同一症(多重人格障碍)のような性格を抱いている。矛盾した両方を同時に持つさまは、近代的自己に慣れた人々にとっておかしなことのように感じられるかもしれない。だがこの現象は、価値観相対化の現代が生み出した必然の結果であり、現代人にとっての行動様式であり、悩ましい病でもあるのだ。


 このことから、そもそも良し悪しの絶対的基準というものを、社会に在る単一の何らかのグループのみ属したうえで考察し評価しようとすることそのものの意味が消えていく。

 変わって、なにかの現象が良いか悪いかというのは、有力者によって決まっていくだろう。有力者というのは、政治家というのは思い浮かび易いし、宗教教祖とか民間の指導者も、支援を得られれば有力者たり得る。さらに先述では有名人とも併記し、芸能人/インフルエンサーなどが含まれる。微妙な表現になるが、政治家や教祖だから社会を動かせるというよりも、ある価値観を持った者がこの人を魅力的だとして支援する参加者グループを動かしていて、その職業が政治家だったりインフルエンサーだったりする、ということなのだ。魅力的で支援したくなるような価値観/イメージを持っているか具合で有力者は有力たり得るのであり、価値観相対化の社会の中で個別の価値観はどこかに別のそれと折り合いの悪さを持っているために、有力者たちはどれほど他人の興味関心を手中に収められるかによって競い合う。筆者は多数派か否かを条件に挙げているが、数の多さは良し悪し決定のいち要素になるものの、それがすべての趨勢を決するわけではないと考える。例えばソビエト連邦やナチス・ドイツ、あるいはマルティン・ルターらキリスト教改革運動者のように、従来とは画期的な理論を根拠にした少数の人間たち/政府が、相対的に比較して多数の民衆の良い悪いの価値観を変えることはあるからだ。

 もちろん、殺人のような、相手の価値観を肉体ごと否定する行為は引き続き犯罪として認識されるし法律もそのままだろう。だが、思いやりの満足基準が価値観相対化によって離散/並立した現代では、各々の倫理観や暗黙の同意に基づく治安維持手法は、うまくいかなくなる。また、犯罪は犯すと悪いのだから犯罪ではあるが、犯罪者がそれまで属してきたグループの価値観が他の価値観ほとんどを迫害するものだった場合――環境の劣悪なことによって精神衛生の荒廃した状態の自己表現の果てが犯罪だった場合――、追求すべきは犯罪者だけでよいだろうか? 環境原因のほうも気にしなければ、再び同じことが起きるだろう。

 チャールズ・ライト・ミルズ『社会学的想像力』によれば、自己と世界との相互浸透を把握するのに欠くことのできない精神の資質を指して、「社会学的想像力」といった。一見すると個人の問題に見えることは実は社会の問題かもしれないし、しかし総てを社会の問題としてもその社会には誰かだけでなく自分という個人も含まれているから、多様な観点を用いて自分もともに問題に向き合わなければいけない、という姿勢のことである。

 では、もしかしたら自分の望まない悪い未来に誘われそうだったり、犯罪になるかもしれなかったりする現象に出会ったとき、とりあえずどうするのがいいだろうか。

 まず、価値観相対化の現代では自分の好きに従える、ということを生かして、ある価値観のグループや群衆の所業にノることがあるとしても降りる意識も同時に持つことである。ところで降りるためには、まず好みで接近しノるというのがどういうことなのかを解っていなくてはならない。だからこの話は、根拠や背景、ひるがえって読者のいまの具合をもを含め体型的に客観視することができるように、ずっと説明をしてみた。

 また、個々人の好きが肯定され相対化されながら尊重されるのだから、参加することもその深度も抜けることも、個人の自由だ。だから、主観的に何が好きだから参加/支援するよう行動するよりも、その自分の行動自体を客観視して、「その好きは進んでいい好きか?」を検証する、いわば嫌い側の意識を持ち出せるようにすることである。これは、自分の人間関係それ自体の相対化とも言い表せるだろう。

 このようにして、なにか有名な、あるいはセクトの、しらずしらず寡占的になっている、価値観の機械的な仕事をしないように、素材を比較のなかから捉える試みを以って生きていくのが、俯瞰して観れば必要な資質だと私は思っている。

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爆裂五郎 著『良い人、悪い人』感想 ~良し悪しはゆれ動く。では、それを受けて、どう生きるか?~ 天声蹟譜 @nicht_ehrlos

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