第11話

いつもと同じ朝。

いつもと同じ部屋。

――でも、いつもと違うのは、私の胸の高鳴りだけ。


ついにこの日が、やってきた。


下に降りると、お母様とにこやかに朝の挨拶を交わす。

今日を境に、もうこんなふうに顔を合わせられないかもしれない――。

そう思ったら、思わずお母様の笑顔をじっと見つめてしまった。


「葵、どうかした? 私の顔に何かついてる?」


「……いいえ、お母様。いつも通り、素敵な笑顔だと思って」


「もう、急にどうしたのよ」


照れたように笑うお母様。

もし、あなたの知らない私を、今日知ってしまったら――。

もしそれで、どれほど失望されることになっても。


「お母様。葵は、お母様のその笑顔が……大好きです」


真剣に、真っ直ぐに目を見てそう言った私に、

驚いたような表情を見せたあと、「もう、からかってるの?」と笑って返すお母様。


「さ、朝ごはんにしましょう」


私たちは、食卓へと向かった。



いつもと変わらない朝の食卓。

お祭りの話で、お母様と私、そしてお父様の三人は、楽しげに言葉を交わす。

ライブにあまり乗り気ではなかったお父様も、イベントが目前となると、どこか声が弾んでいるようだった。


いま、この温かい時間を、私はしっかりと噛みしめる。


お父様、お母様――本当に、ごめんなさい。


きっと私のせいで、この日向のように優しい空間は、壊れてしまう。

それでも、私は……今日、歌いたいのです。

そしてその先へ――歩いていきたい。


心の中で、謝罪と決意の言葉を繰り返しながら、二人を見つめていた私に、ふと気づいたお父様が尋ねる。


「どうかしたか? 葵」


変わらぬ、優しい笑み。


「いいえ。なんでもございませんわ」


そう穏やかに返すと、お母様が笑いながら言った。


「葵ったら、朝からちょっと変なのよ。急に私の笑顔を褒めたりして」


「そりゃ、良美の笑顔はいつだって素敵だからな。私もよく褒めただろう?」


「最初のころだけでしたわよ」


くすくすと笑いが起きる。


ああ――お父様。お母様。

私は、心から思っています。

あなたたちの娘で、本当に、よかったと。


音にならない心の声で、私はそっと呟いた。



食事を終え、着替えを済ませた私たちは、車に乗って夏祭りの会場へと向かった。


目的地が近づくにつれ、胸の鼓動は少しずつ速く、大きくなっていく。

汗ばんだ手のひらを、スカートの裾でそっとぬぐった。


そして――窓の外に会場が見えた瞬間、私は思わず息を呑み、身を乗り出した。


広い広場いっぱいに立ち並ぶ、色とりどりの屋台。

カラフルなのぼりが風に揺れ、焼きそばやたこ焼きの香ばしい匂いが鼻をくすぐる。

ステージには紅白の幕が張られ、真夏の陽射しの中、スタッフたちが慌ただしく準備に動き回っていた。


その向こうには、人、人、人――

子どもたちの歓声、大人たちの笑い声。

窓を開けた車越しに見える、うちわをあおぐ人の風すら、火照った肌に触れるようだ。


「すごい……」


お兄様が尽力した企画が、こうして形となり、人々の笑顔で彩られている。


人の波、陽射しのまぶしさ、そして押し寄せる期待と不安――

足元がわずかに震えた。


やがて、ステージのスピーカーから開幕のアナウンスが響く。


「お待たせしました! 今年の夏祭り、いよいよ開幕です!」


大きな拍手と歓声が、一斉に空へと弾けた。

まばゆい太陽の下、私のすべてを懸けたステージまで、あと少し。



「ねぇ、悠太のステージって何時からだっけ?」


「確か15時くらいじゃなかった? もう待ち遠しいよね」


歩くたび、周囲のざわめきの中に自然と小野悠太の名前が混ざってくる。

本当にすごい人気だ。きっと、今日この会場に来た人たちの多くが、彼を目当てにしているのだろう。


私だって、彼のライブは心から楽しみにしている。

それこそ、自分が歌う緊張を一瞬忘れてしまうほどに。


しばらく家族3人で歩いていると、前方から葉月お姉様と、その隣に婚約者の洋介さんが並んで歩いてくるのが見えた。


「お姉様!」


お母様の手前、大きく手を振ることはできず、控えめにそっと手を振る。


「葵、それにお父様とお母様も。もうこちらにいらしてたのね」


「宗一郎さん、良美さん。ご無沙汰しております。――君が、葵さんだよね? 初めまして」


そう言って差し出された洋介さんの手を取り、「初めまして」と握手を交わす。

なるほど、確かにお姉様の好みだと納得できる、整った顔立ちの方だった。


「洋介君、葉月。二人も来ていたんだね」


「ええ、天気も良いですし、今日はゆっくり楽しませていただこうかと」


「そうか。会場の雰囲気はどうだったかな?」


「正直、驚きました。想像以上に立派で、屋台の数も活気も圧巻です。誠一さんのご尽力の賜物ですね」


「その言葉を聞いたらきっとあいつも喜ぶ」


そんな上品なやり取りが交わされるなか、お母様も加わって、三人は和やかに会話を弾ませていた。


私は少し離れたところからその様子を見つめていたけれど、ふとお姉様が私の袖を軽く引く。


「葵、今日は思いっきり楽しみましょうね」


「はい。小野悠太さんのライブ、兄様から聞いたときからずっと楽しみにしていました」


目を細めて微笑むお姉様。


「それも楽しみだけど……私は、その後の歌唱大会の方が、待ちきれないの」


ドキリと胸が跳ねる。

お姉様、もしかして私が出ることを知って――?


「そういえば、お兄様が“人手がいくらあっても足りない”って仰ってたわ。もしかしたら、私たちにも手伝ってくれって頼みに来るかもしれないわね」


あくまで自然に、でも確信めいた声でそう言うお姉様。


「これだけの人をさばくのは、確かに大変そうだよね。誠一さんからお願いされたら、喜んで手伝うよ」


そう言って洋介さんが穏やかに微笑む。


「その時は、葵も手を貸してくれる?」


首をかしげて、優しく問いかけてくる。


「も、もちろんです!」


願ってもない展開に、力強くうなずいた。


その返事を聞いたお姉様と洋介さんは、「じゃあ、また後で」と二人で歩き出す。

少しだけ振り返ったお姉様が、私にだけわかるようにウインクをした。


――ああ、もう。敵わないな。


胸の奥に、じんわりと温かいものが灯る。


そして、また歩き出そうとしたそのとき――


「葵さーん!」


聞き慣れた、よく通る明るい声が私を呼び止めた。


「楓さん!」


振り返ると、満面の笑みを浮かべながら駆け寄ってくる楓さんと、その隣には黒井さんの姿があった。


近くまで来ると、楓さんは優雅な所作でスッとお辞儀する。


「宗一郎様、良美様、ご無沙汰しております。武藤楓です」


「ああ、楓さん!いつも娘がお世話になっております」


「本当に久しぶりだね。直接会うのはいつ以来かな。それに黒井さんも、変わらずお元気そうで」


和やかな会話が続き、ひとしきり場が落ち着いたところで、楓さんが私とお祭りを一緒に回りたいと申し出る。


「もちろん、葵、行っておいで」


「私たちは先に設営会場で待っているから。15時までには戻ってらっしゃい」


そう言って手を振りながら、父と母は人混みの中へと歩き出していった。


その背中が遠ざかるのを見届けてから、楓さんが私の方に顔を向ける。


「葵さん、いよいよですね!」


「ええ。あとはもう、やるだけです」


そう言って微笑み合う私たち。

やっぱり、歌う前に楓さんの顔が見られてよかった。

彼女と話すと、不思議と肩の力が抜けて、心が軽くなる。


「向こうの方で、花子先生もお待ちなんです。さあ、行きましょう!」


そう言って私の手を取ると、楓さんは楽しげに駆け出した。

私たちは、賑やかな人波をかき分けながら、噴水広場の前へと向かっていく。


「あら、ふたりとも。こっちよ」


手を振る花子先生が、屋台の陰から顔を覗かせていた。

私たちは小走りでそのもとへと駆け寄る。


「はい、これ。喉、乾いてるでしょう?」


そう言いながら、先生は屋台で買った瓶入りの飲み物を手渡してくれた。


「今日は本当に暑いわねぇ。いろいろ話したいこともあると思うけど……まずは、お祭りを楽しみましょう」


瓶を軽く掲げながら微笑む先生。

私と楓さんは顔を見合わせ、「乾杯」と声をそろえて、手にした瓶を掲げた。


カァン――と、瓶が触れ合う音が、近くに響く祭囃子の中に溶けていった。



「ギターの方は、もう会場に運んであるわ。桜葉詩乃の名前でね。それと、歌う曲もちゃんと伝えてあるから」


お祭りの中を歩きながら、先生が前日に済ませた打ち合わせのことを報告してくれる。


「先生、本当にありがとうございます」


「私、昨日からワクワクして眠れなかったんです! ステージの上に立つ葵さんの姿を想像したら、もう…!」


「ふふ、楓さん。それ、実は私もよ」


笑い合うふたりの声を聞いても、もう緊張は感じない。

むしろそれは、私の背中を押してくれる力強い期待として、しっかり胸に届いていた。


「葵さん」


先生が、あたたかな眼差しをこちらに向ける。

何度、この目に支えられ、私は前を向くことができただろう。


「もう、私から言うことはないわ。精一杯、楽しんでらっしゃい」


「はい。そのつもりです」


私の返事に、先生は満足そうに頷いた。


「そういえば葵さん、ご両親のもとから会場へ向かう手筈は整っているのかしら?」


「ああ、それは……多分大丈夫です。いざとなったら、先生の言った通り、逃げ出してでも向かいますから」


ぱっと笑い合う私たち。

そのあとしばらくは、普通に屋台を回ったりして、お祭りを存分に楽しんだ。


やがて、ふと時計台に目をやると、針は14時30分を指していた。


――そろそろ、時間だ。


「花子先生。楓さん。では、私、行ってきますね」


私の言葉に、ふたりは静かに笑顔を返してくれた。


言葉はなくとも、その眼差しがすべてを語っている。


その想いを背中に受けて、私は設営会場へと歩き出した。

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