第11話
いつもと同じ朝。
いつもと同じ部屋。
――でも、いつもと違うのは、私の胸の高鳴りだけ。
ついにこの日が、やってきた。
下に降りると、お母様とにこやかに朝の挨拶を交わす。
今日を境に、もうこんなふうに顔を合わせられないかもしれない――。
そう思ったら、思わずお母様の笑顔をじっと見つめてしまった。
「葵、どうかした? 私の顔に何かついてる?」
「……いいえ、お母様。いつも通り、素敵な笑顔だと思って」
「もう、急にどうしたのよ」
照れたように笑うお母様。
もし、あなたの知らない私を、今日知ってしまったら――。
もしそれで、どれほど失望されることになっても。
「お母様。葵は、お母様のその笑顔が……大好きです」
真剣に、真っ直ぐに目を見てそう言った私に、
驚いたような表情を見せたあと、「もう、からかってるの?」と笑って返すお母様。
「さ、朝ごはんにしましょう」
私たちは、食卓へと向かった。
*
いつもと変わらない朝の食卓。
お祭りの話で、お母様と私、そしてお父様の三人は、楽しげに言葉を交わす。
ライブにあまり乗り気ではなかったお父様も、イベントが目前となると、どこか声が弾んでいるようだった。
いま、この温かい時間を、私はしっかりと噛みしめる。
お父様、お母様――本当に、ごめんなさい。
きっと私のせいで、この日向のように優しい空間は、壊れてしまう。
それでも、私は……今日、歌いたいのです。
そしてその先へ――歩いていきたい。
心の中で、謝罪と決意の言葉を繰り返しながら、二人を見つめていた私に、ふと気づいたお父様が尋ねる。
「どうかしたか? 葵」
変わらぬ、優しい笑み。
「いいえ。なんでもございませんわ」
そう穏やかに返すと、お母様が笑いながら言った。
「葵ったら、朝からちょっと変なのよ。急に私の笑顔を褒めたりして」
「そりゃ、良美の笑顔はいつだって素敵だからな。私もよく褒めただろう?」
「最初のころだけでしたわよ」
くすくすと笑いが起きる。
ああ――お父様。お母様。
私は、心から思っています。
あなたたちの娘で、本当に、よかったと。
音にならない心の声で、私はそっと呟いた。
*
食事を終え、着替えを済ませた私たちは、車に乗って夏祭りの会場へと向かった。
目的地が近づくにつれ、胸の鼓動は少しずつ速く、大きくなっていく。
汗ばんだ手のひらを、スカートの裾でそっとぬぐった。
そして――窓の外に会場が見えた瞬間、私は思わず息を呑み、身を乗り出した。
広い広場いっぱいに立ち並ぶ、色とりどりの屋台。
カラフルなのぼりが風に揺れ、焼きそばやたこ焼きの香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
ステージには紅白の幕が張られ、真夏の陽射しの中、スタッフたちが慌ただしく準備に動き回っていた。
その向こうには、人、人、人――
子どもたちの歓声、大人たちの笑い声。
窓を開けた車越しに見える、うちわをあおぐ人の風すら、火照った肌に触れるようだ。
「すごい……」
お兄様が尽力した企画が、こうして形となり、人々の笑顔で彩られている。
人の波、陽射しのまぶしさ、そして押し寄せる期待と不安――
足元がわずかに震えた。
やがて、ステージのスピーカーから開幕のアナウンスが響く。
「お待たせしました! 今年の夏祭り、いよいよ開幕です!」
大きな拍手と歓声が、一斉に空へと弾けた。
まばゆい太陽の下、私のすべてを懸けたステージまで、あと少し。
*
「ねぇ、悠太のステージって何時からだっけ?」
「確か15時くらいじゃなかった? もう待ち遠しいよね」
歩くたび、周囲のざわめきの中に自然と小野悠太の名前が混ざってくる。
本当にすごい人気だ。きっと、今日この会場に来た人たちの多くが、彼を目当てにしているのだろう。
私だって、彼のライブは心から楽しみにしている。
それこそ、自分が歌う緊張を一瞬忘れてしまうほどに。
しばらく家族3人で歩いていると、前方から葉月お姉様と、その隣に婚約者の洋介さんが並んで歩いてくるのが見えた。
「お姉様!」
お母様の手前、大きく手を振ることはできず、控えめにそっと手を振る。
「葵、それにお父様とお母様も。もうこちらにいらしてたのね」
「宗一郎さん、良美さん。ご無沙汰しております。――君が、葵さんだよね? 初めまして」
そう言って差し出された洋介さんの手を取り、「初めまして」と握手を交わす。
なるほど、確かにお姉様の好みだと納得できる、整った顔立ちの方だった。
「洋介君、葉月。二人も来ていたんだね」
「ええ、天気も良いですし、今日はゆっくり楽しませていただこうかと」
「そうか。会場の雰囲気はどうだったかな?」
「正直、驚きました。想像以上に立派で、屋台の数も活気も圧巻です。誠一さんのご尽力の賜物ですね」
「その言葉を聞いたらきっとあいつも喜ぶ」
そんな上品なやり取りが交わされるなか、お母様も加わって、三人は和やかに会話を弾ませていた。
私は少し離れたところからその様子を見つめていたけれど、ふとお姉様が私の袖を軽く引く。
「葵、今日は思いっきり楽しみましょうね」
「はい。小野悠太さんのライブ、兄様から聞いたときからずっと楽しみにしていました」
目を細めて微笑むお姉様。
「それも楽しみだけど……私は、その後の歌唱大会の方が、待ちきれないの」
ドキリと胸が跳ねる。
お姉様、もしかして私が出ることを知って――?
「そういえば、お兄様が“人手がいくらあっても足りない”って仰ってたわ。もしかしたら、私たちにも手伝ってくれって頼みに来るかもしれないわね」
あくまで自然に、でも確信めいた声でそう言うお姉様。
「これだけの人をさばくのは、確かに大変そうだよね。誠一さんからお願いされたら、喜んで手伝うよ」
そう言って洋介さんが穏やかに微笑む。
「その時は、葵も手を貸してくれる?」
首をかしげて、優しく問いかけてくる。
「も、もちろんです!」
願ってもない展開に、力強くうなずいた。
その返事を聞いたお姉様と洋介さんは、「じゃあ、また後で」と二人で歩き出す。
少しだけ振り返ったお姉様が、私にだけわかるようにウインクをした。
――ああ、もう。敵わないな。
胸の奥に、じんわりと温かいものが灯る。
そして、また歩き出そうとしたそのとき――
「葵さーん!」
聞き慣れた、よく通る明るい声が私を呼び止めた。
「楓さん!」
振り返ると、満面の笑みを浮かべながら駆け寄ってくる楓さんと、その隣には黒井さんの姿があった。
近くまで来ると、楓さんは優雅な所作でスッとお辞儀する。
「宗一郎様、良美様、ご無沙汰しております。武藤楓です」
「ああ、楓さん!いつも娘がお世話になっております」
「本当に久しぶりだね。直接会うのはいつ以来かな。それに黒井さんも、変わらずお元気そうで」
和やかな会話が続き、ひとしきり場が落ち着いたところで、楓さんが私とお祭りを一緒に回りたいと申し出る。
「もちろん、葵、行っておいで」
「私たちは先に設営会場で待っているから。15時までには戻ってらっしゃい」
そう言って手を振りながら、父と母は人混みの中へと歩き出していった。
その背中が遠ざかるのを見届けてから、楓さんが私の方に顔を向ける。
「葵さん、いよいよですね!」
「ええ。あとはもう、やるだけです」
そう言って微笑み合う私たち。
やっぱり、歌う前に楓さんの顔が見られてよかった。
彼女と話すと、不思議と肩の力が抜けて、心が軽くなる。
「向こうの方で、花子先生もお待ちなんです。さあ、行きましょう!」
そう言って私の手を取ると、楓さんは楽しげに駆け出した。
私たちは、賑やかな人波をかき分けながら、噴水広場の前へと向かっていく。
「あら、ふたりとも。こっちよ」
手を振る花子先生が、屋台の陰から顔を覗かせていた。
私たちは小走りでそのもとへと駆け寄る。
「はい、これ。喉、乾いてるでしょう?」
そう言いながら、先生は屋台で買った瓶入りの飲み物を手渡してくれた。
「今日は本当に暑いわねぇ。いろいろ話したいこともあると思うけど……まずは、お祭りを楽しみましょう」
瓶を軽く掲げながら微笑む先生。
私と楓さんは顔を見合わせ、「乾杯」と声をそろえて、手にした瓶を掲げた。
カァン――と、瓶が触れ合う音が、近くに響く祭囃子の中に溶けていった。
*
「ギターの方は、もう会場に運んであるわ。桜葉詩乃の名前でね。それと、歌う曲もちゃんと伝えてあるから」
お祭りの中を歩きながら、先生が前日に済ませた打ち合わせのことを報告してくれる。
「先生、本当にありがとうございます」
「私、昨日からワクワクして眠れなかったんです! ステージの上に立つ葵さんの姿を想像したら、もう…!」
「ふふ、楓さん。それ、実は私もよ」
笑い合うふたりの声を聞いても、もう緊張は感じない。
むしろそれは、私の背中を押してくれる力強い期待として、しっかり胸に届いていた。
「葵さん」
先生が、あたたかな眼差しをこちらに向ける。
何度、この目に支えられ、私は前を向くことができただろう。
「もう、私から言うことはないわ。精一杯、楽しんでらっしゃい」
「はい。そのつもりです」
私の返事に、先生は満足そうに頷いた。
「そういえば葵さん、ご両親のもとから会場へ向かう手筈は整っているのかしら?」
「ああ、それは……多分大丈夫です。いざとなったら、先生の言った通り、逃げ出してでも向かいますから」
ぱっと笑い合う私たち。
そのあとしばらくは、普通に屋台を回ったりして、お祭りを存分に楽しんだ。
やがて、ふと時計台に目をやると、針は14時30分を指していた。
――そろそろ、時間だ。
「花子先生。楓さん。では、私、行ってきますね」
私の言葉に、ふたりは静かに笑顔を返してくれた。
言葉はなくとも、その眼差しがすべてを語っている。
その想いを背中に受けて、私は設営会場へと歩き出した。
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