第6話

とある休日。

私は音楽に触れていたい気持ちをぐっと堪え、自室で机に向かっていた。

学生の本分は学業。さすがに、そろそろ勉強も頑張らないと成績に影響が出てしまう。


そんなとき――

ふと窓の外を見ると、お兄様が少し慌てた様子で家の中へ駆け込んでいくのが見えた。


しばらくして、部屋の扉がノックされる。


「葵、今ちょっと入っていいか?」


「お兄様? はい、大丈夫ですけれど……?」


――珍しい。誠一お兄様が、私の部屋に?


扉が開くと、スーツ姿のお兄様が、どこか得意げな顔で入ってきた。


「葵、今ロックに夢中なんだってな?」


「えっ……ど、どうしてそれを?」


「葉月から少し話を聞いたよ。いいじゃないかロック! それにギターまで? 二日で諦めた俺からすると、尊敬するよ」


明るい笑顔で話すお兄様に、私は周囲の物音が気になって落ち着かない。

声が大きい……他の家族に聞かれてしまいそう……。


私の気配を察したお兄様は、人差し指を立てて「しーっ」と小声で笑う。


「悪い悪い、ちょっとはしゃいだな。……で、だ。少し前に話してた“夏祭りでミュージシャンを招く”って企画、覚えてるだろ?」


「ええ、もちろんです。そのお話を聞いた時、もう……胸が高鳴って仕方ありませんでした」


ふふふ……と、わざとらしく芝居がかった笑みを浮かべるお兄様。


「じゃあ、もっと驚かせてやろう。ロック好きの葵なら、きっと知ってるよな。最近話題の若手ミュージシャン、小野悠太さん――彼が出演してくれることになった」


「……え?」


時間が止まったような衝撃。

胸が一瞬、音を立てて止まり――そして、慌てて鼓動を取り戻す。バクバクと、耳元で鳴るほどに。


「えっ、えっ、ええ!? う、嘘……? お兄様、それ本当なんですか!? 本当に、小野悠太さんが――!」


「ちょっ、葵、声が! 落ち着けってば!」


お兄様が慌てて私の口を塞ぐ。言葉がモゴモゴとこもってしまう。


信じられない。小野悠太が、この町に来る? しかも歌唱大会に出演?


「……実はな、プロフィールには載ってないけど、彼ってこの近辺が地元らしいんだ。

本人いわく、“恩を返す良い機会”なんだとか。詳しい事情までは聞かなかったけど、何か思うところがあったんだろうな」


「……恩を返す……」


「ともかく、その話が決まって、実行委員のみんなも大盛り上がりだった。まさかこんなビッグネームが、ってね」


それに、とお兄様が続けた。


「もうひとつ、葵に伝えておきたいことがある。これは、小野さんからの提案なんだが――

彼のライブのあとに、“高校生限定の歌唱大会”を開いてみたらどうかって話が出てな。

もし開催することになったら……葵、お前は出たいか?」


そう問いかけるお兄様の目は、まるで「答えはもう決まってるだろ」と言っているようだった。


「はい……出たいです」


悩むよりも早く、考えるよりも先に、口が勝手に動いていた。


ニコッと笑って、私の頭をくしゃりと撫でるお兄様。

そして、スーツの内ポケットから四つ折りになった紙を一枚取り出し、私に差し出す。


「後日、学校で配られる予定らしいけど――先に渡しておくな。

……エントリーシートだ」


葵の歌、楽しみにしてるぞ。

そう言い残して、お兄様は部屋を後にした。


シートを両手でぎゅっと握りしめると、胸の奥から熱い想いが込み上げてくる。


人前で歌う。しかも、大勢の観客の前で。

そこには、きっとお父様もお母様もいる。


考えるだけで、手が震えるほどの緊張と恐怖が襲いかかる。

でも――その不安を塗りつぶすように、「やってみたい」という気持ちが、何倍にも膨れ上がっていった。


この用紙一枚が、私の人生を変える“切符”なのかもしれない。


机の上に広げていた教科書をそっと閉じ、代わりに楽譜を開く。


想像上のギターを腕に抱き、私は夢中で指を動かし始めた。

ただ一心に、音の先にある未来を目指して。


****


その日の晩。葉月お姉様は洋介さんの家に出向いていてこちらにはおらず、代わりにお兄様が夕食を共にしていた。


お父様とお兄様は仕事や交友関係について、私には少し難しい話題で盛り上がっている。

その様子を、私とお母様は笑顔で見守っていた。


話が一段落したころ、お兄様がふとした調子で話題を変えた。


「そういえば、夏祭りのゲストが決まりました。出演してくださるのは、小野悠太という方です」


その名前が出た瞬間、お父様の手がぴたりと止まる。


「父さん、ご存じでしたか?」


「いや、詳しいわけではないが…テレビや知人の話で名前くらいは聞いたことがある」


そう言いながらまた料理を口へ運ぶお父様。表情はいつも通りだが、ほんの少しだけ――なぜか、うれしそうにも見えた。

ロックは苦手なはずなのに、どうしてだろう?


「その小野さんという方、有名なの?」


「ええ、母さん。今や日本のロックシーンを牽引する存在といっても過言ではないです」


お兄様の言葉に、私は何度も頷いた。


「そんなすごい方を招けたなんて、誠一さんの手腕ね」


「いえ、今回は本当に運が良かったんです。彼、普段はこういったイベントにはあまり出ないそうなんですが、この辺りに少し縁があったみたいで……『恩を返したい』って言ってくださって。それに、武藤さんのお力添えもあって、うまく話がまとまりました」


夏祭りの話題に、場がまた華やぐ。


「それで実は、小野さんからもうひとつ提案がありまして。彼のライブのあとに、高校生限定の歌唱大会を開いてはどうかと。実行委員もノリノリで、今かなり本格的に準備を進めています」


「ほう、それは面白い企画だな」


お父様が静かに応じる中、お兄様が私のほうを見て言った。


「葵も出たらどうだ? ずっと歌がうまいって評判だったし」


唐突な言葉に、私はあたふたするばかりだった。


「確かに、もし出られるなら良い経験になるかもしれないわね。高校最後の思い出としても」


お母様までが好意的な反応を見せる。


「葵、お前はどう思う? 出てみたいか?」


お兄様が優しく微笑みかける。

今日この話をするために、わざわざ食卓に残っていてくれたのかもしれない――そう思うと、胸に温かいものがこみ上げた。


「はい……出たいです」


そう答えようとした、その時だった。


「いや、出るべきではないだろう」


お父様が低い声で、はっきりと告げた。


「それは一般の生徒たちが楽しむもので、我々のような立場の人間が出るものではない。

それに、葵が得意とするのはオペラやミュージカルだろう。あの場の空気には馴染まない」


お兄様が少し慌てたように反論を試みる。


「でも、だからこそ逆に注目されるかもしれない。葵の才能を知ってもらう機会になるかもしれませんよ」


「仮に出演して入賞でもしたら、“運営や協賛に関係する家の子だから”と、あらぬ疑いを持たれるかもしれない。葵にとっても、我が家にとっても損だ。そうは思わないか?」


言い返せないほどの正論。

お兄様は黙り込んでしまい、お母様も視線を落としたまま何も言わなかった。


「誠一、立場をわきまえなさい。ああいった催しには、一歩引いて関わるべきだ。分かるな、葵?」


反論を許さない眼差しが、真正面から私を射抜く。

口を開きかけたとき、隣にいたお兄様が、すっと私とお父様の視線の間に割って入った。


「父さんの言い分も理解しています。でも……学生時代の思い出として出場するくらいは、許されてもいいんじゃないでしょうか」


「誠一。私は今、葵と話している。少し黙っていなさい」


その一言に、お兄様はぐっと言葉を飲み込む。

そして再びお父様が私に問いかける。


「どうなんだ、葵?」


ああ……どうして、言葉が出てこないんだろう。

「出たい」と、たったそれだけのことなのに。

胸に詰まった言葉が、喉の奥で震えて動かない。


「……はい」


かろうじて絞り出したその一言は、私自身が一番聞きたくなかった言葉だった。


どうして、言えなかったんだろう。

自分の気持ちくらい、自分の言葉で伝えたかったのに。


情けなさと悔しさが胸にせり上がり、泣き出しそうになる。

きっと顔にも出てしまっていたのだろう。お父様はわずかに顔をしかめると、低く呟いた。


「この件は、先生方とも改めて話をしておこう」


そう言って、すっと立ち上がるお父様。

「父さん、待ってください」と慌てて席を立つお兄様が、その背中を追う。


残された食卓には、私とお母様だけが残った。


「葵、ごめんなさいね。私が余計なことを言ったばかりに、嫌な思いをさせてしまって……でも、お父様の言っていることはもっともでしょう? 出場はやめておきましょうね」


お母様はあくまで優しく、微笑みを崩さない。

でもその“正しさ”が、今の私にはどうしようもなく遠く感じた。


「……分かっています」


そう返した私の声には、不満がにじんでしまっていた。


お母様は何か言いかけたが、そのまま口を閉じた。

それきり、私たちは互いに黙りこくり、夕食の空気は重く沈んだままだった。

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