春と雨

槙野 光

春と雨

 学生という生き物は、曖昧だ。高校生までは窮屈だなんだとこぼしていたくせに、いざ放り出されると不安になって、結局、同じ箱を探して安心する。だから映画みたいな運命的な出逢いなんてそうそう転がっているわけがなくて、それは私と若葉わかばだって例外じゃない。

 大学生活十日目。夜中に小腹が空いて、カップの春雨スープを手に取った。スマホで恋愛映画を観ながら春雨を啜って、ベッドに入る頃には丑三つ時。アラームはたぶん鳴らなかった。

 講義開始一分前、息せき切って後方の扉を開く。空気はまだ薄ら寒いのに額に滲んだ汗はちっとも引かなくて、ちらちらと集まる視線は真夏の太陽みたいだった。席に着く。込み上げてくるため息を必死に堪え俯くと、柔かな声が鼓膜を揺らした。

「隣? よろしくー」

 左を向く。茶褐色気味の黒瞳。右目尻の黒子。白色灯の下でにかっと笑い、小首を傾げる。ふわふわゆらゆら。ホワイトカラーの髪は、お湯を注ぐ前の春雨の色によく似ている。

 ――捻りがない。

 昨夜観た映画の評価は、星ひとつだった。でも、私にとっては違う。例え道端の石みたいな出来事でも、私にとっては満点星五つだった。


 若葉と出逢って一年。私が若葉について知っていること。

 春が好き。雨が好き。春雨が好き。私のことも、多分好き。でも、若葉は誰にでも優しいから。若葉の本当は、分からない。

つぼみー!」

 春休みが明けて四日、別棟を出て中庭を歩いていると無邪気な声が背中にぶつかった。喉を鳴らし振り向く。ふわふわゆらゆら。ホワイトカラーの髪に鼓動がぐらっと揺れた。

「若葉、待て」

 腕を前に伸ばし手を広げると、勢いよく駆けてきた若葉が約一メートル先でぴたっと止まる。指と指の間から若葉を見る。若葉の眼差しは、何かを期待するように潤んで見えた。

 ――ずるい。

 飲み込んだ言葉が酸素に滲む。喉にぶつかりながら胃の腑に送り込まれたそれは、暖かくて冷たい曖昧な春の空気だ。

 春休みの間、若葉は幾度も他愛ないメッセージを送ってきた。

 蕾、おはよう。

 おーい。

 コンビニ限定の春雨スープを見つけたよ。

 美味しい。

 蕾。――おやすみ。

 スマホの通知が届くたび期待して落胆して一喜一憂して。そんな自分がばかみたいで、意味もなく家から飛び出した。でもスマホは手放せなくて、通知音すら消せなかった。だから返信頻度を徐々に減らして、グループ内の誘いも断った。そうすれば不規則に揺れるこの気持ちもどこかに消えると思った。でも残りの一割は、どうしても手放せなかった。

「蕾、久しぶり」

「……久しぶり」

 手を下ろして、若葉をまじまじと見る。少し痩せたのかもしれないし、髪が伸びたのかもしれない。

 分からない。

「蕾。今日は雨が降るんだって」

「知ってる」

「この前コンビニで、限定の春雨スープを見つけたんだ」

「うん」

「美味しいんだ」

「うん」

「だからさ……雨宿り、しない?」

 小首を傾げた若葉の眼差しが揺れる。ずるい。そう思うのに、どうして嫌って言えないんだろう。

「……うん」

 躊躇いながらも小さく頷くと、若葉が晴れやかに笑う。風が吹いて、何処かから桜の花弁が運ばれてくる。梢から千切れて、それでもなお薄紅色を保った桜の花弁。曇り模様の空に若葉の澄み切った表情が眩しくて、思わず目を細めた。

「お邪魔します……」

「どうぞー」

 若葉は大学近くのマンションでひとり暮らしをしている。何度も足を踏み入れているから新鮮味なんてもうないけど、鼓動はいつも同じ速度にならない。春と同じ。若葉といると、いつも不安定になる。

すみれ、来たんだ……」

「ああ、うん」

「いつ?」

「一週間前かな。かぶとと二人で遊びに来てさ」

「……へえ」

 ――知らないんだけど。

 言葉をぐっと飲み込み目線を下げる。キッチンラックの下段のボックスからは春雨スープのカップが覗き見えている。赤の蓋。コンビニ限定じゃない定番醬油味。

 若葉、私、健太郎けんたろう安子やすこ、兜、菫。

 若葉と出逢ったあの日、近くの席にいた私達六人は自然とつるむようになった。若葉の部屋は常時金欠の学生の溜まり場にするにはちょうど良くて、寛容なんだか鈍いんだか若葉が嫌な顔ひとつしないので、飲み会と言えば若葉の部屋になった。

 はじめに若葉を「大家さん」と言い出したのは誰だったろう。若葉の部屋を訪れる度、家賃代わりに皆何かしら手土産を持って来るようになった。

 平凡枠の私と安子は、お菓子。眼鏡系男子の兜は、飲み物。お調子者の健太郎は、グラビア雑誌。兜と巨乳貧乳論争を繰り広げて安子に脳天チョップを受けて、若葉がさりげなく次の話題を振る。そこまでが一連の流れだ。

 笑い声とともに話が移り変わっていく中、菫だけはいつも頬をうっすら赤くして目を伏せる。その姿には庇護欲を誘う何かがあって。でも、菫の胸元にはグラビアアイドルと良い勝負な山がふたつ隆起している。私は自分の胸元を見下ろす。直下フローリングの床。胸の奥に太い棘がずぶりと刺さった。

 若葉の隣はいつも菫で、私はいつも若葉の向かい。菫の手土産は、いつも定番醤油味の春雨スープ。

 春雨には色んな形があるけれど、どれもゆでると透明になる。どこまでも透けて、どこまでも清廉で――。私は、そんな風にはなれない。

「……菫、可愛いよね」

 キッチンラックのボックスを引いた若葉の手が止まる。俯くと赤い蓋が視界から消えて、代わりに真っ平らな床が映った。

「菫に食べてもらったほうが春雨も喜ぶかもね」

 ああ、私って何でこうなんだろう。菫が透明な春雨なら、私は白く濁った春雨。腐って消えてしまえばいい。

「……俺は、蕾と一緒に食べたいな」

 いつもより少し張り詰めた若葉の声が耳に届く。咄嗟に顔を上げて左を向くと、口端を結んだ若葉の真摯な眼差しがあった。眼前のシンクにはコンビニ限定の春雨スープがふたつ、寄り添うように並んでいた。

「……なんで?」

 声が掠れ、目の奥が熱くなる。沈黙が続き、若葉が目を伏せる。そして顔を上げ、はにかむように笑った。

「蕾が、春雨を好きだから」

 瞬間、胸の奥で心臓がぎゅっと捩れた。言葉を探して、でも吐息しか漏れなくて。言葉の代わりに瞬きをすると、滲む視界の中で若葉が優しく微笑んだ。

「俺が、蕾を好きだから」

 若葉の右手が私の左手に伸びて、全身に熱が伝わる。壁の向こうでぽつぽつと、雨の降る気配がした。


 一年前の四月中旬。大学近辺の桜公園に行って、皆でお花見をした。レジャーシートに座って見上げた桜は、薄紅色が三割、緑が七割。でも、大学生のお花見は花より団子だ。だから、空が嫉妬したのかもしれない。その内ひらりと舞う花弁の後を追うように雨が降り始めて、ぽつぽつはあっという間に、ざあざあになった。笑い声を上げながらレジャーシートやらお菓子やらをビニール袋に突っ込んで慌てて公園を出た。

 駆けるアスファルト。不意に緩むスニーカーの靴紐。「待って」の一言が雨音に掻き消され、皆の背中が小さくなっていく。慌てて腰を落として靴紐を手に取る。でも指がもたついて、なかなか結べなくて――。

「蕾、大丈夫?」

 軽やかな足音に、切れた息。顔を上げると、肩で大きく息をする若葉と目があった。

「……若葉」

 呟くと若葉が目元を和らげ、腰を落とす。

「貸して」

 若葉の手が靴紐に伸びる。伸ばして回して引っ張って。靴紐が少しずつ、形を変えていく。

「行こう、蕾」

 出来上がった不恰好な蝶々結びに、整然とした声。立ち上がった若葉が手を差し伸べ、私は戸惑いながら手を伸ばす。指先が手のひらに触れる。止まり、そしてまた触れ、走り出す。

 少し前をいく若葉の手は雨に降られても暖かくて、目線を下げるとアスファルトの窪みにできた小さな水溜りが視界に映った。蹴るように踏むとばしゃりと弾けた音がして、すぐに鼓動に掻き消された。

 不整脈だと、そう思った。

 若葉の家に避難して、若葉が用意してくれたふわふわの白いタオルで髪を拭いた。若葉が電気ケトルでお湯を沸かし、若葉の母親が送ってきたというカップの春雨スープを皆で食べた。

 春雨を啜り、前を見る。若葉がにかっと笑う。

 遠ざかった筈の手の温もりがよみがえって、顔に熱が溜まった。

「あれー? 蕾、顔赤くない? 何にやけてんの?」

 右隣に座る健太郎がにやにやと笑う。

「……春雨、好きなんだよね」

 目を逸らして慌てて誤魔化したけど、あの日、喉を滑り落ちていったのはきっと、春雨じゃなかった。


「――俺は別に、春雨を好きじゃない」


 雨音が激しさを増し、若葉の静かな声が鼓膜を大きく揺らす。若葉の手は一年前のあの雨の日よりも熱くて――。言葉が出ない。若葉の温もりがそっと離れ、右手がシンクの上の電気ケトルを掴む。沸騰したお湯が春雨スープのカップに注がれて一秒、また一秒。春雨が透けていく。

「俺は、蕾が好きなんだ」

 若葉の二度目の「好き」が雨音を掻き消し、静まり返った部屋に鼓動が鳴り響く。

 他の人からしたら星ひとつ。でも、私にとっては満点星五つの瞬間。

「好き。若葉……。好き」

 若葉と同じ分だけこぼれた「好き」が、拙く揺れる。若葉が眩しそうに目を細め、まつ毛を微かに震わせる。口元から漏れた吐息の深さに胸の奥がぎゅっと締め付けられ、愛しさが静かに積もっていった。

 そっか。若葉も私と同じだったんだ。

 ――怖かったんだ。

「若葉……」

「うん」

「……ごめんね」

 私が若葉の肩に額を押し当てると、若葉が私の背中に手を添える。そして小さな笑みをこぼして、私の耳元で愛の言葉を囁いた。

「好きだよ、蕾」

 三度目の若葉の「好き」は細やかで、でも力強くて――。目の縁に溜まった涙が瞬きとともに、こぼれていった。

 ねえ若葉。私達はこれからどんな色に染まるだろう。どんな花を咲かすだろう。考えても、分からないね。でも春はまだ始まったばかりだから。だからとりあえず春雨スープを食べて、そして食べ終えたら桜を見に行こう。

 春の音を聞きながらふたりで並んで、あの日のあの道を一歩ずつ。雨が止むまで。――雨が、止んでも。

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春と雨 槙野 光 @makino_hikari

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