2 闇バイトと蜘蛛の糸
単に見えにくい網というだけなら、引っかかっても逃げ出せる可能性はあるだろう。しかし、霞網には
また、霞網を使う際には、同じくタカを天敵とするツグミなどの野鳥が獲れることがある。メジロほどではないが、それらの鳥にもペットや珍味としての需要があるという。
そのため、ヤクザの
今思えば応募要項に不自然な点がいくつかあったが、当時の
「じゃあ、俺とはどっかで繋がってたかもなぁ」
説明を聞いて、仲間意識や連帯感のようなものを感じたらしい。ヤクザの男は顔つきを緩めていた。
「そんなに金がなかったのか?」
「家が裕福ではなかったので、奨学金を借りて大学に行ったんです。でも、入った会社がブラックですぐに辞めてしまって……」
「ああ、人生一寸先は闇ってやつだよな」
いくら密猟が犯罪だといっても、被害者はたかが鳥でしかない。いくらシノギを稼ぐ手伝いをしたといっても、自分は正規の構成員だったわけではない。人殺しも辞さないような本物のヤクザに仲間意識を持たれるのは複雑である。しかし、今の言葉には深く頷かざるを得なかった。
奨学金を借りた時には、いずれ自分が無職になるなんて思わなかった。就活を始めた時には、エントリーした会社がブラック企業だなんて思わなかった。新しい仕事を探していた時には、普通の求人サイトに闇バイトが乗っている場合があるなんて思わなかった……
二十代半ばにして死んだことだってそうである。「依存性が低いから」とヤクザに大麻を勧められた時には、まさか
人間社会にも、いたるところに霞網のような見えにくい網が張られていて、ときどき自分のように浅慮な人間が絡め取られるようになっている。それが吽崎が短い人生で得た教訓だった。
「隣の兄ちゃんは何やったんだ?」
「俺は――」
自分の番が終わったあとも、吽崎は心の中で自身の生涯を振り返り続けていた。もっと早い時期から就活を始めればよかったのか。それ以前に、浪人してでも上のレベルの大学を目指せばよかったのか。勉強に身が入るように、ゲームを買わなければよかったのか。そんな風に、どこが自分の人生の分岐点だったかを延々と考えていたのだ。
だから、隣の男に声を掛けられるまで、そのことにまるで気がつかなかった。
「おい、なんだよ、それ」
「えっ」
見れば、か細いながらも、きらきらと輝く光の筋のようなものが、目の前に下りてきていたのである。
「さぁ? 何かの糸ですかね?」
風にたなびく様子から、吽崎の目にはそのように見えた。
「糸だぁ?」
「だと思いますよ」
触れた感覚から、今度は確信を持ってそう答える。
何でできた糸か分からないが、触れても切れないあたり、それなりに丈夫なのだろう。そう判断して、次はちょんちょんと引っ張ってみる。しかし、それでも糸は切れなかった。
ますます正体が分からなくなった吽崎は、今度は糸の伸びた先を――空を見上げることにする。
あたかも雲間から降り注ぐ太陽光のようだった。輝く糸は地獄を覆う黒雲を突き抜けて、さらに上の方から下りてきていたのである。
「これ、どこから来てるんだ?」「ここの上って何があるんだ?」などと、罪人たちがめいめいに疑問を口にする。
そんな中、一人の男がぽつりと呟いた。
「なぁ、その糸を登れば、ここから逃げられるんじゃないか?」
この一言が口火となった。
糸に向けて、いっせいに罪人たちが群がり始めたのだ。
「待て」
いつまた水底から針の山が生えてきて、体を貫かれないか分からない。地獄から一刻も早く逃げ出したいはずだろう。それなのに、罪人たちは制止の命令に渋々ながらも従っていた。
命じたのが、ヤクザの男だったからである。
「この中に、蜘蛛を助けたことのあるやつはいるか?」
予想外の質問だからか、そんなこといちいち覚えていないからか。誰も答えようとしなかった。
それで個別に確認することにしたらしい。ヤクザはまず糸のすぐそばにいた罪人に尋ねる。
「お前は?」
「小さい頃、田舎の祖母に、『家蜘蛛は縁起がいいから殺しちゃダメ』って教わって。それで、なんとなく家以外の蜘蛛も殺さないようにしてましたけど……」
「やっぱりそうか」
吽崎の返答に、ヤクザは納得したような安堵したような声を漏らす。
かと思えば、今度は緊張を滲ませるのだった。
「これは『蜘蛛の糸』だ。みんなで協力して使おう」
何故糸の正体が蜘蛛の出したものだと言えるのか。仮に本当に蜘蛛の糸だったとして、何故それが協力することに繋がるのか。吽崎にはまったく意味が分からなかった。
「そういう小説があるんですよ。芥川龍之介の作品です」
詐欺師がそう補足したものの、やはりよく分からない。
「ある時、極楽からふとお釈迦様が下を覗き込んでみると、地獄で
糸に気づいた犍陀多は、これ幸いとすぐにでも登り始めます。ところが、どれくらいまで来たかと途中で下を見てみたら、他の罪人たちも登ってきていることが分かって。糸が切れるのを心配した犍陀多は、思わず『この糸は
しかし、その利己的な考えがよくなかったのでしょうか。犍陀多が叫んだその瞬間に、糸は切れてしまったんです」
一部の罪人たちは、「ああ、あれか」「昔、学校でやったな」と頷く。吽崎ら残りの罪人たちは、「へー」「なるほど」と相槌を打っていた。
「だから、たとえ糸が切れそうに思えても、絶対に自分勝手なことを言い出すなよ。分かったな」
いくら状況が酷似しているとはいえ、小説はあくまで小説である。作者が頭の中で作り上げたものに過ぎない。だから、ヤクザの話に対して、吽崎は半信半疑だった。表情からいって、おそらく他の罪人たちもそうだろう。
けれど、今回もヤクザに萎縮したようで、反発する者は誰一人いなかったのだった。
「お前の蜘蛛だ。お前が最初に行け」
「は、はい」
利己心を捨てる手本のつもりなのか、ヤクザは先頭を譲ってきた。脱出の期待よりも、小説通りに行くのかという不安の方が大きかったものの、吽崎も利己心を捨てて引き受けることにする。
やはり、お釈迦様が垂らした特別なものなのだろうか。吽崎が体を預けてみても、不思議なことに蜘蛛の糸が切れることはなかった。
それどころか、その十倍、二十倍以上の重さにも耐えられるらしい。登る最中に下を見た時には、何十人もの罪人が糸にぶら下がっていた。
このまま登っていけば、本当に極楽までたどり着けるかもしれない。
そう思った瞬間、吽崎は奇妙な感覚を覚えていた。
今まで返ってきていた手ごたえがない。
代わりに覚えたのは、一瞬の浮遊感。そして、激痛だった。
どうやら糸が切れたらしい。吽崎ら罪人たちは真っ逆さまに落下したあと、水面に思いきり叩きつけられてしまっていた。再び地獄に落とされてしまっていたのである。
「ぼっ、僕じゃないです」
血だまりから顔を上げると、吽崎は開口一番にそう訴えた。
気が弱そうなのが、かえって奏功したらしい。主張はすんなり信じてもらえたようだった。
「俺は違うぞ」
「じゃあ、お前か?」
「俺だって違う」
罪人たちは口々にそんな言い合いを始める。
「何かが糸を横切った瞬間に切れたように見えたが……」
犯人を探そうとしているのだろう。ヤクザは黒々とした空を睨む。
一方、今の発言を聞いただけで、詐欺師は目星をつけたようだった。
「蜘蛛以外にも、彼には縁のある生き物がいましたね」
「野鳥のことか?」
「特にメジロは、巣作りに蜘蛛の糸を使うんだそうですよ」
そういうことなら、たとえ闇バイトに手を染めるにしても、密猟だけはやめておけば地獄から抜け出せたかもしれない。
ああ、また見えにくい網に引っかかってしまったな。吽崎がそう嘆く間もなく、水底からは針の山が生えてくるのだった。
(了)
新説『蜘蛛の糸』 蟹場たらば @kanibataraba
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