新説『蜘蛛の糸』

蟹場たらば

1 闇バイトと不殺生戒

 少年時代に祖母から聞いた、「不殺生戒」という言葉を、吽崎うんざきはずっと間違えたまま覚えていた。


 人を殺してはいけない。その程度の意味だと勘違いしていたのだ。


 しかし、食べもしないのに豚や犬を殺したり、害を受けていないのに蟻や蛾を殺したり、いたずらに生き物の命を奪うことも悪事に当たるのだという。そのため、不殺戒ではなく、不殺戒と呼ばれているのである。


 その誤解に吽崎が気づいたのは、二十代になってからだった。


 不運に見舞われ、若くして命を失って、――地獄に落ちてからだった。


 血でできた池のせいで、座るどころか足をつくこともできず、一時いっときたりとも体を休めることができない。それどころか、ときどき池の底から針の山が生えてきて、全身を貫かれてしまうことさえある。かといって、傷ついた肉体がすぐに再生するために、死んで苦しみから逃れることも許されなかった。


 落ちたばかりの頃は、地獄からなんとか抜け出そうとした。「そこまで悪いことはしていない」と。「罰を受けるにしても、もっと軽くていいはずだ」と。


 けれど、血の池というのは比喩表現で、実際には血だまりが大海のように延々と広がっており、泳いでも泳いでもまったく岸にたどり着くことができなかった。むしろ、泳ぎで体力を消耗したせいで溺死させられてしまって、ただ針の山に刺されるよりもかえって苦痛が増すだけだったのである。


 だから、吽崎は今はもう一切の抵抗をやめていた。血の池に力なく体を浮かべながら、「いつかは罪が許されて、ここから抜けられる時が来るはずだ」と、次の針の襲来までに脱出できることをひたすら祈るばかりだった。


 他の罪人たちも同じような考えらしい。周りを見渡せば、血だまりに身を任せる以外には、時折うめき声を上げたり、すすり泣きをしたりするだけという姿が目に入ってくる。


 たまに新入りがやってきて、岸を目指して泳ごうとすることもある。だが、三日と経たない内に、吽崎たちの仲間に加わるのが常だった。


 しかし、今回の新入りは少し毛色が違った。


「なぁ、お前らなんでこんなとこに来たんだ?」


 脱出を断念したかと思ったら、次は吽崎ら周囲の罪人たちに対して、声を掛け始めたのである。


 パンチパーマ、鋭い目つき、龍の入れ墨…… いかにもそれらしい男だ、という吽崎の予想は間違っていなかった。


「見れば分かるかもしれないが俺は極道者だ。ヤクだの、ケツモチだの、カチコミだの、お前らが想像するようなことは大体やってるよ」


 そのカチコミのせいで死んじまったんだけどな。ヤクザの男は笑いながらそう続けた。軽犯罪者を自認する吽崎は怯えるばかりだったが、周囲からはぱらぱらと笑い声が上がっていた。


 その内の一人に、ヤクザは改めて尋ねた。


「お前はどうだ?」


「自分は殺しっす」


「何人やったんだ?」


「二人っすね」


 それで死刑になっちゃって、と男は続けた。内容に反して、口調はからっとした軽薄なものだった。


「なんかあったのか?」


「俺は元々じーちゃんばーちゃんの家に押し入って、包丁で脅して金取ってたんすよ」


強盗タタキか。それで?」


「でも、その日はたまたま息子が来てて。で、抵抗されちゃってうっかり」


「間抜けなやつだな」


「ついてないって言ってくださいよ」


 ヤクザと強盗犯はそうして笑い合う。


 今度は、吽崎も一緒になって笑っていた。


 別に二人の話が面白かったわけではない。むしろ、恐怖を覚えていたくらいである。


 けれど、これまでずっと針の痛みに耐え続けることしかしてこなかったから、話題がなんであれ会話を交わしているというだけで、恐怖心以上に何か胸にこみ上げてくる感情があるのだった。


 また、そう思っていたのは、吽崎だけではないようだった。たとえ凶悪な犯罪者であっても、他人と交流したいという気持ちは持ち合わせているらしい。罪人たちは集まって輪を作ると、次々に自身の罪を告白していったのである。横領、放火、盗撮、怨恨殺人……


「お前は?」


「詐欺です」


 男の返答に、吽崎は密かに納得していた。細い眉に細い目と、いかにも知的そうな容姿だったからである。


 ヤクザもまったく同じ印象を抱いたようだった。


「ああ、インテリっぽいもんな。振り込め詐欺か?」


「そうですね。正確には還付金詐欺ですが」


「ほーう」


 そう感心したのは、ヤクザだけだった。


 吽崎を含め、周囲は聞き慣れない言葉に困惑していたのだ。


「簡単に言うと、金を受け取れると嘘をついて、こちらの指示通りにATMを操作させて、逆に金を振り込ませるという詐欺です。

 そんなのに騙されるやつがいるのかと思われるかもしれませんが、あれこれの問題で政府が補助金をばらまきましたからね。それに便乗したおかげで、すんなり信じる人が大勢いましたよ」


 詐欺師の説明で、ようやく「あー、あれか」「なるほどな」などと声が上がる。「よくそんなの考えつくな」とも。


 刑務所内では知能犯は他の囚人たちから尊敬される、というネットの噂を吽崎は思い出していた。犯罪者が集められた場所という意味では、刑務所も地獄も変わらないから、そこでの人間関係もさして変わらないようだ。


「そっちの兄ちゃんは?」


「僕は、その」


性犯罪ピンク系か?」


「あ、はい」


「レイプでもやったか?」


「まぁ、はい」


 言いよどんでばかりで、今度の男の回答はどうにもまだるっこしい。


 しかし、それは彼の性格から来るものではなかったようだ。


「まさかガキ相手か?」


「いや、まぁ……」


 男が再び言いよどむと、ヤクザは鼻を鳴らしていた。


「ふん、ロリコンかよ」


 他の罪人たちも、「ちっ」「マジかよ」と蔑むような見下すような視線を男に向ける。


 刑務所内では性犯罪者は嫌われるという話も、吽崎は聞いたことがあった。ただ盗撮犯の時には批判の声が上がらなかったから、てっきりデマなのかと思っていた。それなのに、この反応だからよく分からなくなってしまう。


 性犯罪自体は容認するが、子供が相手の場合は別ということなのか。それとも、リーダー格のヤクザの道徳観念に、周囲が合わせているだけなのか。刑務所に行く前に死んだ吽崎には、それを判断できるだけの知識がなかった。


 その上、考察できるだけの時間もなかった。


「そっちは?」


「僕は……」


 吽崎はつい口ごもってしまう。心証次第で、周りが敵ばかりになるかもしれないのは先の通りである。この流れではどうしても答えづらかったのだ。


 しかし、答えないのはもっとまずいだろう。


「僕は野鳥の密猟を……」


「密猟?」


 吽崎の言葉を、ヤクザは怪訝そうに繰り返していた。


「獲ったら捕まるって話は聞いたことがあるが」


「そんなの金になるのか?」


「絶滅しそうな鳥とかじゃねえの」


 他の罪人たちも訝しげな顔をする。心証が良い悪い以前に、どんな犯罪かさえ理解してもらえなかったようだ。


「もしかして、メジロでしょうか?」


「ええ、そうです」


 唯一、察してくれたのは、例のインテリ風の詐欺師だった。


「鳴き合わせといって、メジロを使った勝負があるんですよ。どれが一番綺麗に鳴くかとか、一番たくさん鳴くかとかね。

 すでに法律では捕獲が禁止されていますが、昔からある行事ですし、金を賭けたりもするせいで、一部では今でも人気があって。それで大金を払ってでもメジロを欲しがる人間がいるみたいです。確か、ヤクザが摘発された例もあったんじゃなかったかな」


「闇バイトって言うんですかね? 僕もヤクザの人の手伝いでやってました」


 表向きは、山畑での収穫作業の手伝いという話だった。それが現場に着いてみたら、メジロの捕獲をさせられることになったのである。


 吽崎がそう付け加えると、ヤクザの男は興味深げに目をすがめるのだった。

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