第30話

「随分、良くなりましたね。薬が良いんでしょうね」

 そう言って、分かりやすく童辺は笑いました。実際、入院を強いられていた時より、外見に出る症状は、幾らも良くなっていました。

「ええ。腕の良い医者です。これで、落ち着いて仕事ができるので、次は長いものを書こうと考えているんです」

 それは、遺書でした。一枚の便箋に綴った、遺言のようなものを見せる相手は私には居ませんし、必要だとも思いませんでしたので、自殺用の本というものをひとつ、作ってみせようと思ったのです。

 いっそ、直ぐにでも死んでしまいたいなどと、病んだ思考は、自分自身でも可笑しいと失笑してしまうほど、全く持ち合わせていなかったのですが、ふわふわと浮かぶしゃぼん玉のような、夢にも似た感覚で、死ななければならぬと、ずっと考えていました。私という人間の幕引きは、そうであるべきという、自分への脅迫だったのです。これは、遺書であると同時に、自分への、兎にも角にも、はやく終焉を迎えろという、真紅の督促なのです。必ず、死ななければならない。これまで、息を吸うだけで恥を塗り重ねてきました。病に敗北して、往生。そんなものは、観客も、私も望むところではありません。死んでしまおう。どれほど、愛を語っていたとしても、一歩進むことすらも、私に付き纏っている泥水が足を取り、前に進むことも困難なのですから、生きていても、仕様がない。

 なんでも、書いてしまおう。隠してきた心のうちを、今夜だけは、ありのまま暴露してしまおう。これを書き上げてしまうと同時に、私はこの身を投げ捨ててしまうつもりでした。その意思は、文を綴り、日を跨いで、朝昼晩規則正しく薬を飲みこむ、たったそれだけで強烈なものに変化していきました。

 追い詰められ、𠮟責され、あらゆる罵詈雑言を浴びた後に、やっとのことで口を開く犯罪者は、どんなに心が軽く、気持ちのいいことでしょう。私はこれを書いている間、罪の意識を駆り立てられると同時に、確かな快感を得ていました。教会の懺悔室で、只管に聖職者を壁にして、自身の罪を呪詛の如く叩きつけているような、言葉にすることも躊躇ってしまいそうな、汚らわしい居心地の良さを感じていたのです。矢張り、死は救済なのだ。こんなにも、毎日が輝いて見えるというのに、不孝もなにも、あるものか。罅割れた硝子細工が、ゆるくひと撫でしただけで、簡単に元の美しさを取り戻したようでした。けれども、この計画が誰かひとり、たとえその人物が、あらゆる拷問、懲罰に耐えることのできる超人であったとしても、知られてしまえば全てが水泡に帰すと、頭が警鐘を鳴らしていました。私は一度、生還してしまっているのです。

 万事は、恙なく進んでいる。信用を得ることは、容易で、今更余命も限りない私が自死に手を染めるなどと、考えもつかないのでしょう。みな、たったひとつ、何でもない言葉が、私のぴん、と張りつめた蜘蛛の糸を切ってしまうことを知っているものですから、嫌に優しく、美しい微笑を向けて、刺激をしないように丁重に扱い、抵抗することも馬鹿らしく、隣人愛のひとつとして甘んじて受け入れることにしていました。優しさとは、時に人を傷つけます。腫物を扱うような態度は、それこそ、自分自身が癌腫瘍だと気づかぬ者は、この上ない極上の景色なのでしょうけれど、生憎私は、自分自身が厄介者であることを理解していますから、心苦しくて堪らなくて、しかし、元来の気の弱さと、死を目の当たりにしているからこそ湧いて出た無気力が手伝い、はみかみながら、虚しさを後ろ手に隠しつつ受け取ってしまうのです。

 この話を書くのに、半年近い時間を使いました。どれほど、強い信念があったとしても、体の不調を打ち倒す術は無いようで、どうしても筆を持つことが困難な時期もあり、然しこのような話の代筆を頼むことも嫌ですし、なによりも、これだけは、篇首から終章まで、私自身の手で書き上げなければならないという信念が、微かな灯として燃えていましたから、幾月も時間をかけて、ようやっと書き上げました。

 ハレルヤ。

 頭痛がするほど、晴れやかな朝でした。六月の中旬、夜通し窓を叩いていた雨粒が太陽の光によって追いやられて、朝露が新緑を撫でて、重力に従ってつるりと葉の肌を撫で、地に落ちました。春のうちに育ちきった竹林が、新たな子を育み、私が感じることの出来ない微かな光によって揺らされ、大きく息を吸い込むと、湿気を取り込んだ土の香りと、萌ゆる青の香が肺を満たしました。暗雲を掻き分けて顔を出した花紺青が空を染め上げて、その美しさといったらありません。朝も夜も、敵のように見えていた私が、初めて、薄暮に涙しました。

 聖歌でも歌うような気持ちで、アルミ箔から、ひとつ、またひとつと、赤子を取り上げるように丁寧に催眠剤を取り出して、そっとコップに水を満たして、全てを一気に飲み込み、家を出ました。

 欄干を掴みと濁流を見詰めると、昨夜の雨のお陰で、随分と水嵩が増していまして、それでいて、早朝の穏やかな空気を嘲笑うような濁流。腕に力を込めて、階段の最後の一段を上り詰めるような、達成感、気分の高揚を抱えながら、身を乗り出して、どぷん。これまで、すべて、ト書き通り。

  

 読者諸君。先行く不孝をお許しください。貴方の生涯の、ほんのひとひらの記憶に、私の言葉が反り添えていたのなら、それで私は十分なのです。それだけが、私の救いなのです。

 あの日、彼の大天才の言葉を、生き様を、聖典として抱き締め続けた、嘗ての私のように、私の言葉が、貴方の指針となる日が、訪れるのでしょうか。貴方の編む人生の梗概に、私が載っていたら、どれほど良かったか。

 ああ、どうか、どうか私を忘れないでください。こんな、どうしようもない、救えない道化が居たことを、あなただけは覚えていてください。

 愛は、毒である。

 言葉は、簡単に人の心を抉り取り、時に掬い上げます。私の積み上げた言葉のひとひら。それだけで、良いのです。その、たったのひとつが、貴方の行く道に、ほんの少しの灯を宿すことが出来たのなら、それは私の愛なのです。

 この世界は、どうにも息が詰まって、いつでも首を絞められているようで、どこに居ても居心地が悪く、自分一人ばかりが懸命に生きているような錯覚に陥るでしょうが、どうせ、私達は一人では立てないのです。何かに縋っていなければ、こんな、足を踏み出しただけで言葉にすることも出来ない、形容しがたい漠然とした不安が襲ってきて、いまにも声を放って泣いてしまいたくなる、こんな場所は、到底真面に息が出来ない。自死に興じるのも、いいでしょう。生きていて欲しいなどと、そんな言葉は送れません。ただ、忘れないでいてください。そうして、暴かないまま、貴方の中で、私という男を塗り固め、生かしていてください。

 ただ、今、私は幸福なのです。地獄を生き続けていた私に、漸く訪れた、この身、一身に受け止め、抱き締めたいと願った、幸福なのです。

 嘘を吐き続けた私は、きっと、地獄に落ちるのでしょう。そんな私の言葉を愛したあなたも、もしくは。

 もし、相見えることが出来るのならば、泥黎の淵で、いつか。

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水葬 織田 @odod

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