第13話
羊飼いは、令嬢を心から愛しています。しかし、下民の生まれである羊飼いは、正しい方法で、高貴な人間を手に入れることなどできず、非道に走ってしまうのです。やっと、手に入る。世界で一等美しく、生涯で最も求めた人間に、手が触れるというところで、羊飼いは気が付いてしまうのです。自分のような日陰者が触れてはならない存在であったのだと。
「皇君には皇君の愛があると思うけどな」
「君にも、君の愛が?」
勿論。と悪戯に笑った佐倉は、私を通り過ぎて新たな本の物色に勤しみました。私の苦悩など、もう彼女の興味からは外れてしまったのでしょう。
私の愛とは、何でしょうか。
私にとっての安寧は、いつだって、孤独そのものでした。人は情を掛けた者と共にすることを愛と呼ぶのでしょうが、それが真実であれば、私の生活には、他者と紡ぐ生活が一度たりともなかったということになってしまいます。それは、余りに寂しいことではありませんか。
ですが、私利私欲のための愛など、私は求めていませんでした。そのような不誠実、私が夢に見た恋愛ではありません。私は、無知にも拘わらず、純真で潔白な恋に憧憬を覚えていたのです。
恋とは一過性のもので、愛とは心を食い潰し、そのうち思考すら浸食する毒なのです。私には、身を焦がすような感情の発露を経験したことがなかったのだと、嘆きすらしていましたが、思い返せば一度、あったのです。それはあの日、放課後の図書室で、彼の文章に、言葉に心打たれた時。からだが火照り、まるで心臓を鋭利なナイフで刺されたように心音が激しく、私はこの瞬間と出会う為に生まれてきたのだと錯覚する。あの感動を、その一瞬を恋と呼ぶのであれば、私は彼の言葉に恋をしているのです。
「書けてるじゃない」
埋まった原稿用紙を見て、佐倉が目を見開きました。何日も、もしかして、何週間も止まっていら筆が一日目を離した隙に走っているのですから、驚くのも無理はありません。
私はきっと、生者を愛せません。あれほど心が躍る出来事は、この先一度たりとも有り得ないと断言出来ます。私は、恋と革命には生きられません、神様のようないい子にも、なれません。あの人のように、世間に怯えながらも慈しみ、期待し、裏切られて尚縋ることも、できません。私は本心から世間を信用することが難しいのですから。だからこそ、手の届かぬ高潔だからこそ、美しく見えるのです。大衆を愛し、大衆が恋をしていた彼が、ひどく儚く、脆く、好きだなんて軽薄な言葉では、到底足りないのです。
羊飼いが娘から身を引いた理由など、その一言で十分でした。たった、それだけだったのです。美しすぎた彼女を抱くには、汚れすぎてしまっていたのです。神に触れ、惑わし、かどわかす存在は、大抵悪魔に過ぎませんが、私達のような半端者は、近付くことすら叶わず、踏み出した足があまりの輝きに止まり、逃げ出してしまうのです。
書き上げた原稿を佐倉に見せると、それは子供のように飛び上がり、私が望んだ以上の賛辞を何枚もの再生紙に書き連ねたのです。読まれることは、嬉しいことなのだと、初めて知りました。苦悩して書き上げたものが絶賛される。なんて甘美な経験でしょう。
佐倉は、これを新人文学賞に応募してしまおうと頻りに訴え、私もそれに頷きました。気分の高揚も手伝って、誰か不特定多数の目に留まることを夢見たのです。
私と佐倉の図書館での逢瀬は、この完成を皮切りにめっきりと回数が減りました。流石の私も薄情な男ではありませんから、用がなくなったので、もう会うのは止そう、などと断りを入れたようなことはしていませんが、このような会話をするような暇すらなく、佐倉が登校することを拒み始めたのです。
彼女の席は数日空席になり、また姿を現したかと思えば、不規則に休むようになりました。私も友人も、彼女の日常的な事情などには全くと言っていいほど触れたことがありませんでしたが、仮病を使うとも思っていませんから、心身の不調であろうと考えて、彼女が姿を現した際には変わらず接することに努めていました。私が一番彼女と近い場所に居たの言うのに、他者の領域に踏み込む傲慢を持ち合わせておらず、その上、私自身がその行為を最も疎んでいたがゆえの愚行でした。
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