第2話
その晩、父に呼び出されました。下女がこのように報告をしてきたか、まことか。張り詰めるような空気を増長させる、父の低く、重い声に、私は震えていました。両親の前では、私は「きちんと」していないとなりませんでした。足を崩すことは許されず、子供らしく娯楽に興じることは罪だと教えこまれていました。昔、うっかり父の帰宅までテレビ番組に釘付けになっていた際に、新雪の積もる裏庭に放置され、裏口の扉越しに罵倒されたことがあったのです。私は、父の機嫌を損ねるわけにはいきませんでした。私が異物であると、彼に知られてはならない。
そこで私は、一つの策を得ました。かつて居たのです、同じ地に、同じように疎外感に苛まれ、演じ切った大作家が。他者との差異に苦しみ嘆き、自分を偽り、仮面を被った男が。それまでの私は嘘など吐いたこともない、ほんとうに、一等誠実な男でしたから、保身のための嘘に理解を示すことが出来ませんでした。何も知らない私にとって、嘘とは最も恥ずべき行為だったのです。使用人と読み漁った本には凡そ子供が読むべき内容でないものも含まれていました。川端の「伊豆の踊子」など、五つの子供に読み聞かせ、読破させるには過激でしょうが、当時私は勿論、彼女も気にも留めていないようでした。ですが、その彼女の放任が私を救いました。人々が私を言葉で誑かすのであれば、私は、言葉も、表情も、声も、全てを使って偽ってよいのだ。
幸いなことに私は、私の異端を自覚していました。臆病な私は、ありのままでいることを畏れ、他者から求められる私を演じる事で、自分を守ることに決めました。私と言う人間は、重ねに重ねた、道化という皮で構成されていました。私は、私を、わたくしで塗り固めなければ人に認められない。それは、ええ、それは、私の、私達道化の最後の求愛でした。
完璧である様に努めて、誰もが羨む私を演じました。少しの息継ぎも、表情も、手元も、狂わせてはならない。一寸たりとも狂わず、どの角度から見ても完成された笑顔を心掛けました。声の抑揚も、眉の機微も、全てが私を、私たらしめるための小道具だったのです。気の狂う様な役作りも、私は苦行と感じませんでした。きっと、魂に刻まれていた演目だったのです。
私は父に、彼女を驚かせたかっただけであり、本の影響を受けただけのことだと説明をして、事なきを得ました。安堵と同時に、私は彼女に憎しみを覚えたのです。内密にするようにと小指を交えたにも拘わらず、簡単に反故にした彼女に、もはや信頼などありませんでした。ですが、己を偽り、道化となることを決心した私は、彼女を感情のままに無下にするようなことはしませんでした。それまで通りに談笑し、勉学に励み、時折笑みを浮かべてみせる。たったそれだけのことで、私の生活は一変したのです。
それまでの私は、感情の起伏をうまく表現することが出来ない子でした。悲しむべき時に泣くことが出来ず、怒るべき時に怒る事が出来ませんでした。じくじくと、膿が腫れるような痛みが心臓を這いずる感覚は確かにあるのです。しかし、それを表情に出すほど心揺さぶられることは、全くと言っていいほどありませんでした。父からの叱咤、罵倒、暴力も、痛みを感じる事はあっても、痛いと泣き叫ぶことをしない私を、両親は気味悪がっていました。彼らは、この瞬間まで、私が未知の生命体に見えていたに違いありません。
道化に徹することを決意した私は、彼らにとって都合の良い子どもになったのでしょう。それまでの冷遇などなかったかのように、打って変わって柔和な態度になりました。父は寡黙なひとで、常に眉間に皴を寄せ、自分に対する否定を受け入れられない人でした。まるで、子供がそのまま大人になったような。まさに、我慢のできない、
目に見えて、父の優先順位が入れ替わったものですから、それから母から向けられる私の目には、明らかな嫉妬が滲んでいました。それは私の道化を以ってしても、どうすることも出来ないものだったのです。女の嫉妬というものは、醜く、底なしなのです。私が彼女を落ち着かせようと、どれだけ尽力したとしても、彼女の神経を逆撫でするだけでした。
私は、道化の皮を被ってから、どうやら捻くれてしまったようです。もしかしたら、父を陥落させて、どこか高揚感のようなものがあったのかもしれません。子供というものは、純粋ゆえに残酷ですから、ひとつ玩具を見つけると、次に、つぎに、とその先を求めるものです。今度はどうやって母を手籠めにするか、そればかり考えていました。母を手中に収めるために、私は観察を始めました。彼女の所作から、機嫌の良し悪しを分析し、統計し、私の中で彼女の理解を深めていきました。どうやら彼女は、父以外の人間を人間として見ていないようでした。没落貴族にも拘らず、湯水のように金を使い、蝶よ花よと育てられた箱入り娘の母にとっては、主人以外は小間使いだったのです。
ですから私は、母が求めるものを先回りして済ませることに努めました。彼女の手を煩わせないように、機嫌を損ねないように。母が求めたその時には、終わっているように。例えば、ちいさな家事のひとつひとつ。子供にも出来る簡単なことであれば、使用人の仕事を奪ってでも率先して片づけました。初めは子供の気まぐれであり、直ぐに飽きてしまうだろうと、それこそ忌々しげに私を見ていた母ですが、何時の間にか見慣れた光景となり、使用人から頻りに感謝の言葉を伝えられるものですから、母は時折、気まぐれに、私に微笑みかけるようになっていました。
人というものは、好ましい相手が自分の領域に侵入すると、突然、糸がほどけた様に気を許すことを、幼い私は既に知っていました。それまで、私に羨望の眼差しを向け、 下唇を噛んでいたその女は、既に私を敵ではなく、対等の人間として見ていたのですから、あと一手で、彼女は完全に私を受け入れると直感しました。
「本棚の本を読み終わってしまって」
「すべて?」
「はい」
一番、母が好きだったであろう本を指さして、これが一等好きだと笑って見せました。それだけでよかったのです。それまで一度たりとも母親と読書の話をしたことなどありませんでしたが、本棚のなかで最も日焼けがひどく、何度も頁が捲られた跡のある一冊は、矢張り母のお気に入りだったようです。
母はそれから、父に向けていた関心を、殆ど私に注ぎ込みました。今まで彼女の世界の中心は父であった筈だというのに、何時の間にか、その席は私のものになっていました。
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